めしのレビュー・感想・評価
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「めし」原作と映画とその後
BSプレミアムで視聴。
電化製品のない当時、家事にかかる手間と時間は相当なものだったと思う。
主人公の三千代が朝から晩までの際限ない家事労働に嫌気がさしたことは理解できる。隣近所の付き合いも最低限で、家に縛り付けられているような毎日。
夫の「めし・風呂・寝る」風な鈍感でマイペースな態度にあきれて、結婚5年目の倦怠期にハマっている。猫のユリだけが、心を和ませてくれる存在である。
三千代は、自分の空虚さがどこからきているのか、よく分かっていないので、
夫のせいにしたり、姪の雪子のせいにしたりしている。
東京の実家に里帰りし、「女は眠いものだ。いろいろと気を遣って疲れている」という母のもとで、ゆっくり羽根を伸ばしている。
尊敬し慕っている従兄と和やかに食事をした時、三千代のことを「心配している」と言われ、「憐れまれるのは惨め」と、人に甘えられない強い一面が顔を出す。就職を世話してくれと、従兄に頼み、自身も職安に足を運ぶが、あまりの求職者の多さに驚いてしまう。
その帰り道、戦地から戻らない夫を待つ同級生が、幼子を連れながら路上で新聞売りをしている姿を見て、立ちすくむ三千代。
実家では、終電をのがした姪の雪子が泊まれせてくれと駆け込んでくる。
当然のように上がり込み、布団を敷いてもらっている場面に、妹の夫がビッシっと言う。
「布団くらい女の人なら敷けるでしょう、泊まりたい人が自分で敷くことです」
「・・・・感情をべたつかせて人に無意識に迷惑をかける人は大嫌いなんだ!」と。その言葉は三千代の胸に刺さり、自分を顧みるきっかけになった。
その後、出張で上京した夫と一緒に大阪へ帰ることになる。
「生活の川を泳ぎ続ける夫に寄り添いつづけ、夫と一緒に幸福を求めながら生きていくことが女の幸せ」というナレーションが入って終わり。
三千代はどんなふうに「女の幸せ」をつかんでいくのか?
女としての苦しみや惨めさを味わい尽くして、極貧の生活の中で這いつくばるようにして生きて来た林芙美子は、どんな結末を書いただろうか?
「家事に忙殺されながらも三味線の稽古を再開し、その道で自分の能力を開花させていく」そんな結末を想像してみた。
三味線を弾く原節子の粋な姿もいいものだと思う。
敗戦が残した女と男の間の深い溝
原作は林芙美子が1951年(昭和26年)4月1日から7月6日まで『朝日新聞』に連載した新聞小説です。著者の急死に伴い未完のまま連載終了となりましたが、それを東宝が成瀬巳喜男監督、井手俊郎と田中澄江の脚本で映画化し、1951年11月に公開されたのが本作です。連載終了から公開まで実に4ヶ月余りという短期間です。
描かれるのは若い夫婦、三千代(原節子)と初之輔(上原謙)の物語。設定は…
・戦後すぐに恋愛結婚、今5年目
・東京出身の二人は夫の仕事の都合で大阪へ
・大阪の下町一戸建ての生活
・子どもはおらず、夫婦二人とネコ一匹の暮らし
・夫は証券会社勤務だが薄給
・妻は夫に隠れて大切な三味線を借金の担保に差し出す
・東京の妻の実家の洋品店は妹夫婦が継ぎ、母もそこに
・東京の夫の実家は義兄義姉夫婦と二十歳の姪、里子(島崎雪子)がいる
本作のテーマは「結婚生活への妻の絶望」です。描かれるシーンの平和さと原節子の抑えた演技がより絶望の深さを際立たせます。三千代の絶望とは一体なんなのか。
夫の初之輔は暴力を振るうわけでもなく浮気をするわけでもない、一見普通の男です。仕事も真面目にこなしています。でも、喋るのは「おい、めし」。茶碗を受け取るときも妻の目を見ずに、新聞を読みながら。頭の中は株価のことばかり。この夫婦に心の交流はなさそうです。
初之輔もおそらく軍隊経験者なのでしょうが本作では言及されません。初之輔に戦争体験や敗戦はどんな影響を残したのか。
戦争は本来男のものです。あの戦争は男が起こし、男が戦い、男が負けました。中世であれば負けた国の男たちは皆殺しか奴隷です。現代ではそこまでひどい目に合わないにしても、すべての成人男性の胸に大きな屈託を残したはずです。
敗戦が日本の男たちに残したもの、それは表面的には「戦犯達の処刑」、深層的には日本人男性の「精神的去勢」だったのかも知れません。いずれにしろ敗戦体験は日本人男女の間に深い溝を残したと思います。
男たちは心の奥に屈託を抱えたまま次の戦いの場である「お金と経済」に夢中になっています。その姿はその後「エコノミックアニマル」と海外から揶揄されるようになります。残念ながらそんな男たちにはもう女性の胸を熱くすることはできません。
本作の女性たち、三千代や里子のように、日本の女性たちは戦争に負けた男たちである父や夫を敬うことも愛することもできなくなってしまいました。そして女性たちは新しい可能性を求めて家出を繰り返します。
三千代は夫を残して家を出ます。でも普通の主婦である彼女に多くの選択肢はありません。妹夫婦が切り盛りする実家に長居はできず、職業安定所には長蛇の列、夫を戦争で亡くした旧友の寂しい姿。彼女は厳しい現実を目の当たりにし、夫の元へ戻ることを決意します。
この夫婦の関係性の改善案を3つ考えました。
①子どもを作る
②もっと金を稼ぐ
③ちゃんと対話をする
初之輔の答えは②です。もっと給料のいい職場に移れそうだと嬉しそうに妻に報告します。妻は「私の本心を綴った手紙になんと書いていたか、知りたい?」と尋ねますが、「ぼく、ねむいんだ…むにゃむにゃ…」。相変わらず対話は成立しません。未投函の手紙を破り、列車の窓から捨てる妻。その横には無防備に無邪気な寝顔を晒す夫。妻のモノローグで映画は幕を下ろします。
『私のそばに夫がいる。目をつぶっている平凡なその横顔。生活の川に泳ぎ疲れて漂ってしかもなお戦って泳ぎ続けている一人の男。その男のそばに寄り添ってその男と一緒に幸福を求めながら生きていくことがそのことが私の本当の幸福なのかもしれない。幸福とは女の幸福とはそんなものではないのだろうか。』
妻は夫を一人の男として突き放し、極めて冷徹に観察しています。ここにあるのは愛情や敬意というより、ある種の憐れみ、あるいは菩薩や庇護者のような慈愛の心でしょうか。そしてその言葉の最後には諦念が滲んでいます。妻たちの心がこんなにも冷え冷えとしているのを知らぬは夫ばかりなりけり。本作は全国の無邪気な夫たちこそ観るべき映画だと思われます。
未完のピースを穏便に埋めた佳作
作者・林芙美子の急死で未完に終わった新聞の連載小説を成田巳喜男監督が映画化。
冒頭の美千代(原節子)のイントロデュースによれば、舞台は大阪市の南の端。映し出される駅のホームは阪堺電車だろうか。
結婚して五年の美千代は倦怠期で夫・初之輔(上原謙)との意思疎通がままならず、なれない大阪生活にも鬱屈。その上、若くて美人の初之輔の姪っ子が家出して転がり込んで来たものだから、不満が蓄積する一方。
とうとう夫を残して東京の実家へ里帰りしてしまう。
紆余曲折あったものの、結局夫婦は元の鞘に収まり…というラストは、原作未完につき映画オリジナルの結末。
亡くなった林芙美子に替わって川端康成が作品を監修。
その川端の代表作『山の音』を、成田は本作同様、上原謙・原節子の主演で1954年に映画化しているが、こちらは作者存命にも関わらず原作とイメージの異なる作品に仕上げている。
林の作品はいずれも読んだことがないが、豊田四郎監督によって映画化された『泣蟲小僧』(1938)は情け容赦のない下町残酷物語。彼女が完成させていたら、どんな結末を迎えたことやら。
原作を読んでいないので推測の域を出ないが、タイトルは夫婦間の夫の常套句によるものか。
かつて家庭に無関心な亭主の会話は「めし」「風呂」「寝る」で完結するなどと言われたが、上原演じる初之輔は家庭的ではないものの、さりとて悪い亭主とまでは言い切れず、やや鈍感なだけで実直。
対して原が演じた美千代はセンシティブかつ自己主張強めの女性。二人のすれ違いというより噛み合わなさがもどかしいが、それ以上に当時トップスターの二人が下町の連棟で暮らす姿が不釣り合いでなんだか居心地悪そう。
実年齢25歳にして20歳の里子を演じた島崎雪子は本作の三年後、『七人の侍』(1954)で演じた利吉(土屋嘉男)の妻役が端役ながら印象的。
美千代の従兄、竹中一夫役の二本柳寛は脇役俳優ながら出演作多数。出番は少ないものの、東宝版『日本のいちばん長い日』(1967)での大西瀧治郎役の怪演が強烈に印象に残る。
彼の父・雄蔵を演じたのはベテラン俳優・進藤英太郎。
声だけで判る人なのに、ノン・クレジットの上、流暢な大阪弁を穏やかに操っていたものだから、全然気が付かなかった。
役者ではないが、大阪観光の場面ではくいだおれ人形(くいだおれ太郎)が登場する。
1950年に設置されたのが初めてなので、おそらく初代。名前はまだない。
当時としても動く広告は物珍しかったのだろう。
戦後すぐのまだまだ未開発だった東京の風景や、土間の流し台、ちゃぶ台などの昭和中期の暮らしぶりがノスタルジック。
ネコもペットフードではなく、猫まんまを食べていた、そんな時代。
NHK-BSにて、今回初視聴。
女は娘のうちだけ…
タイトルなし(ネタバレ)
成瀬巳喜男って初めて見るかなぁ?
亡父はこの監督をおまり好んでいなかったと記憶する。
どんな監督か分からないので、長いコメントは控えるが、この映画だけを評価すれば、脚本が出鱈目過ぎる。少なくとも、制作者側に小説家が二人もいるのに、その効果が現れていないと感じた。
名優の息抜きの為に作った映画と感じる。今のアイドル映画の走りの様なお話。俳優はこの映画に出られて、演出家、制作者は興行が成功して『しめ、しめ』と言った所。
『人間の哀れな営々としたいとなみ』と『めし』はどこにあらわれたか?
外米で臭いと言って、一口二口飯を食べただけでおしまい。狭いちゃぶ台の前で新聞読むのは良いが、タバコを吸い過ぎ。まぁ、この頃は営々としたいとなみだったのだが。
原節子
諦めに近い男女間・夫婦間の機微が細やかに…
ここのところ、
少しまとめて溝口映画を観ていたところ、
ある方から、
「俺に出来ないシャシンは溝口の祇園の姉妹と
成瀬の浮雲だ」との小津監督の言葉を
教えて頂いたことから、「浮雲」を含む
成瀬巳喜男作品の幾つかを観ることにした。
この作品、まだまだ封建的な、男は仕事、
女は家事との認識が支配する時代の話で、
基本的には良くあるホームドラマの延長線
にあるかの内容だ。
妻の日常など理解するすべのない夫が、
先ずは、彼女の上京を機に、
彼女の不在による日常生活の労苦を
思い知らされる展開なども描かれる。
その後、実家の母親からの
「あなたの夫は、頼もしい、大人しい、堅い」
との発言や、
また、路上で仕事をせざるを得ない
戦争で夫を亡くした子連れの友人を
目撃したことも描かれたので、
次第に二人はお互いの理解が進み、
よりを戻すことになるのだろうとの結末は
容易に想像させられた。
それでも、
二人のお互いの無理解は
その後も繰り返すであろうことも想像出来、
決して肯定的ではない諦めに近い
男女というか夫婦間の機微を
細やかに描いたこの作品、
身につまされるようでもあり、
己への心配がつのった。
成瀬巳喜男&林芙美子。主演・上原謙&原節子
1951年。成瀬巳喜男監督作品。原作:林芙美子の絶筆で未完。
結末は脚本の田中澄江と井出俊朗により独自に考えられた。
林芙美子ならどんな結末になったことだろう?
1951年(昭和26年)とは、敗戦後6年のまだ混乱期だった筈だが、
日本人は貧しいながらも堅実に暮らしている。
映画は大恋愛で結婚した初之輔(上原謙)と三千代(原節子)夫妻が5年の結婚生活で、
三千代は所帯やつれし、倦怠期の真っ只中にいる。
そんな貧しい夫婦の生活に初之輔の姪の里子(島崎雪子)が、家出をして大阪にやって来て、
しばらく同居することになる。
今で言えば「新人類」みたいな雪子は、思ったことをズバリとクチにするし、
遠慮というものがない。
しかも初之輔に妙に馴れ馴れしいのだ。
里子の存在が、三千代の心に波風を立てる。
ただただ貧しい暮らしに、3食のメシの支度・・・こうして20年もあと30年も、
こんな詰まらない暮らしを続けて、ただ老いて死んでいくのか?
三千代の心に隙間風が吹く。
何のことはない、「82年生まれ、キム・ジヨン」の悩みと大差ない。
70年を経ても女の悩みは、あいも変わらず《自立》なのだから、ちょっと悲しいし、笑いたくもなる。
この映画は三千代の日常をスター女優の原節子の《所帯やつれ演技》が上手くて、
……履いていたスカートを脱いでアイロンを掛けるシーンなど、ビックリするほど、
昭和26年当時の、貧しさと家事の律儀さに溢れている。
女は結婚して家庭に入ったら、
「釣った魚に餌はやらない」
の男の言葉通り、たまのご褒美しか貰えないのだ。
来る日も来る日も掃除・洗濯・おさんどん!!
しかしこの映画は実に楽しい。
天下の二枚目と歌われた上原謙もタダの株屋の社員で稼ぎも少なく、
面白みもない上に妻の顔を見れば、
「腹減ったなぁ」が常套句なのだから笑わせる。
夫婦の倦怠期で97分、目一杯楽しめるのだから・・・素晴らしい演出術である。
(演じるのが、二杯目スター・上原謙と“永遠の処女”原節子・・・
・・この配役だけで、そのインパクトが恐ろしい程だ!!)
成瀬巳喜男監督のことを、ヤルセナキオ・・・とか書いてらっしゃるフレーズを
どなたかのレビューで読みました。
…………やるせ無き男……
…………やるせ泣き男……
言い得て妙である。
【原作者の林芙美子は、原節子の起用に対し”美しすぎる。全く原作のイメージと異なる・・”と反対したが、”遣る瀬泣き男”じゃなかった、成瀬己喜男が主役に起用し、原節子の第二期黄金時代を彩った作品。】
■感想
・確かに、林芙美子の懸念は分かる。
が、それ以上に、
”一年365日、同じ朝、夜が来る・・”
と呟く、三千代(原節子)の積り積もった専業主婦の鬱積した気持ちと、奔放な従妹の里子(島崎雪子)の姿との生き方との対比が、鑑賞側に伝わってくる。
三千代の夫、岡本初之輔(上原謙)は、証券会社で働く実直な男なのであるが、三千代への言葉は、”おい、めしまだか・・””腹が減った・・”である。
ー 時代的に、当時の男は、そんなことは言わないのであろうが、
”もうちょっと妻に対する感謝の言葉を言えよ!”
と昭和後期生まれの男は思ってしまったのである。ー
・そして、不満が募った三千代は、里子とともに東京の実家に暫く戻るのであるが・・。
里子に対して、正しき言葉を投げつける信三(小林桂樹!)の姿が小気味よく・・。
・けれど、一人の生活になり、初めて妻の有難さに気付いた岡本は、出張と称して三千代を迎えに来る。
ー 二人で、カフェに入った際に、最初に妻のグラスにビールを注ぐ岡本の姿が印象的である。-
◆そして、原節子さんは今作と「麦秋」により、昭和24年に続いて、昭和26年に2度目の毎日映画コンクール女優演技賞を受賞した。
キネマ旬報のベストテンで、「麦秋」が一位、今作が二位を獲得した。
「麦秋」を観たいものである。
<暫く前に、石井妙子著の「原節子の真実」というドキュメンタリー作品を読んだ。
それまで、私は原節子さんと言えば、小津安二郎監督作の、数作しか鑑賞していなかった。
これから、機会があればこの大女優さんの他の監督作品を少しづつ、観たいと思っている。>
・上原謙は腹減った、眠いしか言わないけどなぜか憎めない。最後のシー...
リアル
日本人の夫婦の形の普遍性があります
感動しました
本当に身に詰まされました
観ていて自分がなじられているかのような切実さとリアリティーさが詰まっています
日本人の夫婦の形の普遍性があります
21世紀の現代の夫婦でもあるあるだと思います
単調で繰り返しばかりの退屈な日常
互いに愛し合ったから結婚したのに、そんな繰り返しの日々
それぞれの心が磨耗するのは当然のことです
里子が三千代が失いつつある若さを象徴しています
やり直せるなら今が最後のチャンスかも知れない微妙な焦り
31歳の原節子はその倦怠感と焦りを見事に演じています
ラストシーンで疲れて眠りこける夫の初之輔をいとおしく見つめる三千代の視線に、分かってくれたのかとの思いと許されたとの思いで胸が熱くなり、そして彼女のモノローグで涙腺が緩みました
悪く言えばもたれかかっている関係かもしれません
でもお互いに精一杯日常を生きているのです
この生活を維持したいのです
楽で安心できる関係、それはお互いへの信頼ともいえるのではないでしょうか
もしかしたらそれが愛といえるのかもしれません
大げさでない日常の中の愛です
言葉にしたら全てが壊れてしまう
もう元の関係には戻れない
夫婦とはそんなものかと思います
何もかも言葉にせず飲み込んでばかりの夫と、何でも言葉にしてしまう妹の婿養子の信三の対比
それが破り捨てられる手紙に繋がって行きます
ラストシーンで出さなかった手紙を三千代は散り散りに列車の窓から撒き捨てます
そのシーンは砂の器でオマージュされていました
成瀬巳喜男の目が覚めるような演出でした
三千代は猫に満たされない愛情を向けていました
子供が生まれたなら二人の夫婦の在り方は、また新しい形に変化していくのでしょう
子はかすがいとは良く言ったものです
初之輔が転職をして生活にゆとりができれば、また新しい夫婦の物語が始まる筈なのです
そんな明るい希望に満ちた結末でした
心に残る素晴らしい傑作です
ですが国際的にこの夫婦の在り方の物語の感動が理解され共有されるとはとても思えません
しかし日本人が日本人であるかぎり、本作にある夫婦の在り方は普遍的に続いていくものなのだと思うのです
南武線矢向駅、なんと今でもこの当時の駅舎のままだったんですね
多少お化粧されているだけです
驚きました
大阪の光景はすっかり変わり果ててしまってます
北浜の大阪証券取引所と大阪城くらいがそのままで、あとは一体どこがどこやらでさっぱり分かりません
キャバレーメトロはおそらく道頓堀の東端の宗右衛門町にたつ大きなホテルがその跡地と思われます
その名前を冠していますから
ちらりと映る繁華街の石造りの橋は、今はない心斎橋そのものかも知れません
すれ違いと和解
周囲の反対を押し切って結婚して5年目の夫婦。
東京で所帯を持って、夫の仕事の都合で大阪に移って3年。
多分、小さな子どもの一人でも二人でもいれば、
妻が抱える「こんなはずじゃなかった」という空虚さはもう少し先延ばしなっていたかもしれない。
結婚するまでにもすったもんだあり、
その後、大阪に移ってようやく暮らしも落ち着いてきた。
同窓生に会えば、お金持ちの奥さまだったり、
独身生活を謳歌していたりと、
自分にももっと選択肢があったんじゃないかという思いが心の中に入り込んでくる。
そこに、夫を慕う姪が縁談を嫌って家出してきたり、
いまだ独身の従兄に再会したりで、
妻の心は揺れる。
妻のその心の揺れを感じ取れない夫。
そこにすれ違いが生まれる。
こういうすれ違いを何度も乗り越えて、本当の夫婦になっていくんだろう。
時代は関係なく、どこの夫婦にもありそうな話だが今の日本映画界では、悲しいかなこういう普通の話は映画にならない。
つましい暮らしの中でも、大輪の薔薇のような原節子の存在感は圧倒的で、どことなくボンクラな感じの上原謙も素敵。
上原謙と加山雄三、親子で成瀬作品に出演していたんだな。
佐野周二、原節子共演の『驟雨』も好きです。
夫婦ものは普遍性がないからおもしろくないし、時間がたつと陳腐化する気がする。
前に一度見ていたのですが、すっかり忘れていて、また見てしまいました。
かなりの名作なのに、なんで忘れていたか考えると、リアルで多少暗い作品だけに、現在とは状況が違う、自分とは違うと思えて、映画に入れず、おもしろくなかったからだと思います。
だいたい現在「めし、ふろ、ねる。」(当時は内風呂がなかったので、これが「めし」になることが多かったようです。)などとやっていたら、まず夫婦関係は成り立たない。
昭和20年代の夫婦は画一的で、どこもこんな感じだったのだろうし、だからうけたのだろうけど、現在は状況がまったく違うので、かなり違和感がある。
特に夫婦は、愛というより、生活、子供、社会的慣習などによって結びついている場合が多く、周りの環境にものすごく影響を受け、変化するし、それは現在と昭和20年代とはまったく違う(現在では、形があるかどうかさえ微妙)。
これに、個人の性格の強さや、経済状況などの力関係、それに考え方や、価値観の違いなどが加わるので、千差万別、同じようなものは、ほとんどないくらいに崩れているような気がする。
だから、現在では、まずこの映画のようになるとは思えないし、感情移入しろと言われても、ちょっと苦しいものがある。
もっと貧乏を強調するか、子供が出てこないと、名作なのかもしれないけど、おもしろくない。
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