宗方姉妹
劇場公開日:1950年8月8日
解説
小津安二郎が松竹を離れ、はじめて新東宝で製作した作品。日本の伝統的な価値観を大事にし、ニヒリストめいた夫に耐え続ける姉と、そんな姉に反発する現代的な妹の対比を通して、戦後の日本の家庭の崩壊を描く。原作は大佛次郎。
1950年製作/112分/日本
原題または英題:The Munekata Sisters
配給:新東宝
劇場公開日:1950年8月8日
劇場公開日:1950年8月8日
小津安二郎が松竹を離れ、はじめて新東宝で製作した作品。日本の伝統的な価値観を大事にし、ニヒリストめいた夫に耐え続ける姉と、そんな姉に反発する現代的な妹の対比を通して、戦後の日本の家庭の崩壊を描く。原作は大佛次郎。
1950年製作/112分/日本
原題または英題:The Munekata Sisters
配給:新東宝
劇場公開日:1950年8月8日
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2023年5月13日1950年。小津安二郎監督。大佛次郎原作を読み返したのを機に12年ぶりに再見。働かない夫の代わりにバーを開いて家計を支えるけなげな妻とアプレな妹が、妻のかつての恋人との関係めぐってやりとりする。結末は原作と同じだが、そこにいたる因果関係が大胆に変更されており、夫の背景が描かれないことによって、より夫の暴虐性が際立っている。さらに後期の小津作品ほどには形式化は進んでいないものの、向かい合う人物の取り方や振り向き方、場面展開の音楽と風景は形式的に処理されていてモダン。
田中絹代と高峰秀子という、人気と実力を兼ね備えていると言われているのに個人的にどうにも合わない2人が共演しているので、初見から気乗りしないまま見ていたが、やはり小津作品の田中絹代は痛々しい。
この前が「晩秋」で直後が「麦秋」であることを考えると不思議な気持ちになる。じめじめと暗い情念が少しずつからからと明るく処理されていく過程とも見える。そういう意味ではこの映画の高峰秀子の「小芝居」ははずみになったのかもしれない。
小津安二郎監督が松竹を離れて初めて撮った大佛次郎原作小説の映画化作品です。
昔の邦画メロドラマの苦手なパターンが「優柔不断なインテリ風の男がグズグズ拗ねているだけ」という人物像です。優柔不断の僕にそんな事言われたくないと言われるかも知れませんが、同じ場所で足踏みしているだけに見えるこんな男と向き合っていると僕はただただイライラして来るのです。でも、そんな作風からは距離を置いていると思っていた小津監督がこんな作品を撮っていたとは思いませんでした。愛する人を胸に秘めたまま、失職したままグダグダしている夫と暮らす姉、奔放に自由に生きる妹の物語です。
でも、本作中の山村聡さんが「戦争で傷ついた懊悩を背負った男」とも思えないし、田中絹代さんの決断も高峰秀子さんの振る舞いも「新しい女性像の表象」には見えませんでした。本作中で述べられる「新しいって事はいつまで経っても古くならない事」の言葉を借りれば、この映画は古いんじゃないのかな。
ただ、映像の切れ味は流石で、ペロッと舌を出す高峰秀子さんの可愛さは別格でした。彼女はいつまでたっても古くならない女優さんです。
田中絹代
溝口健二作品、雨月物語、西鶴一代女での
従順、忍耐、建前、自己犠牲のイメージ
高峰秀子
成瀬巳喜男作品、あらくれ、放浪記にみる、
本音、自己主張、自己実現、つよい自我
このふたりが、
小津安二郎監督下で、ホームグラウンド松竹ではない新東宝でタッグマッチ
面白くないわけがない
松竹の社風でできなかったはず、
グラスを投げて割る、顔を打つ、
などなど激しい描写
あの土砂降り、そういえば、小津安二郎は大映で
浮草、京マチ子が強烈であった
小津安二郎は和の作家イメージがあったりするが
和洋折衷のモダニストである
わたしがはじめてみた作品は
生まれてはみたけれど、
あの自動車のエンジン音のすさまじい迫力、
大人の欺瞞を暴くような子どもという立ち位置
今作では高峰秀子のキャラクターになっている
唯一演技指導をしなかったらしい
これで最初で最後だったからか
山村聰、言葉が出てこないうつ状態は、暴力にでてしまう、不甲斐なき、哀れ。
上原謙、よるべなき自己愛、だれかに寄りかかっていなければ生きていけない。困っているおんなを狙うといういわゆる後家ごろし、色悪。
ラスト、雨上がり、土固まる。
清々しい旅立ちは、姉妹ともに
あたらしい明日へ。
東京ラブストーリーで、
鈴木保奈美が、あっちふらふらの織田裕二を好きでいながら、別れを決断したあのラストを思い出しました。
じぶんの心に支配されない生き方が爽やかでした。
「午前十時の映画祭」で鑑賞。
面白かった。
途中までは「名作やなぁ、ほんまに」と思って観ていたけれど、終盤に少し冗長さを感じました。でも面白かったです、うん。
いつもいっているように、主人公に明確な目的(「勝つ」「捕まえる」「逃げる」「何かをつくりあげる」など)のないストーリーを、退屈させずに観せるのはなかなか難しいことだと思います。それをここまで魅力的なものに仕上げているのは、やはりさすがというほかありません。
じつに74年前の作品ということで、それだけでびっくりですが、ここに描かれている人々のこころの動きは現代のわたしたちにも深く響くものでしょう。
けっきょくのところ、技術や様式は変化しても、人間の本質はまったく変わらないのだということがこの映画を観てわかりました。
そして、「古くならないことが新しいこと」という、節子の言葉。
それは、自らの作品が時を超えて生き続けるという、小津監督の、自信に支えられた予言のようにも聞こえました。
それにしても、いまの映画で74年後に再映される作品がどれくらいあるのだろう?
――と、今回もそんなことを思ったのでした(まあその頃には映画館もなくなってるかもしれないけどね)。
で、最後にひとこと。
高峰秀子、サイコー!!