火垂るの墓(1988)のレビュー・感想・評価
全30件中、1~20件目を表示
肉体を手放しても死ねないほどの清太の後悔、本能的な欲求と清い理性の葛藤を克明に描いた傑作
節子の気持ちよりも食欲を優先した瞬間を後悔して死にきれないでいる清太の回想物語として描かれる映像は、この構成でなければ伝わらない人間の太い欲と清い理性の物語であり、その主題で隅々までよく練られた素晴らしい作品です。映画前半でサクマドロップを節子にあげようとしてひとつも手を付けなかった清太は、戦争の困窮の中でじわじわと食欲の虜になっていく。節子を喜ばせたいと思う理性的な兄としての人間の心が、生物としての人間の食欲に抗えなくなっていく太い自分に蝕まれていく過程がどうしようもなく描かれていて、戦争映画としての鑑賞ももちろんあるが、戦争という舞台装置で浮き彫りにされる理性と欲の葛藤が真の主題のように思える。清く太い「清太」と対照的な「節子」という名前もよく練られていて多くの感情的な評価よりもわかりやすく技巧的な作品であると思う。
白米のために、節子が大事に思う母の形見の着物を売ってしまった肉体世界の清太を、あの世に行ききれずに見つめる清太が見つめて激しく首を振る。自分が守りたかったのは節子の心で、妹思いの兄でありたかったのに、食欲に翻弄されてそれを見失う自分を、肉体を手放した今なら客観的にわかる、その後悔が伝わってきて終始苦しい。肉体を手放した清太と同じようにお腹が減らない。
最後のシーン、なぜ清太はこちらを(鑑賞者としての私たちを)見るのか、まだ生きてる肉体を持っている私たちは、生きている故の欲求に抗えない、抗えずに、理想や清いありたい自分を損なって生きていることに気づかない。気づいてというメッセージというよりは、ほら、気づいても抗えないだろう、の諦めの視線に私には見えた。見つけたドロップを自分で食べるという選択肢を思いもつかずに節子に与えた清太が、清太が生きたかった自分であり、膝の上で眠る節子の傍らでドロップ缶が光り輝くのは、清太の心情そのものなのである。
「清太はおばさんのところから逃げた、働けばよかったのに」という論調が一部あるが、節子には父も母もおらず、父も母もいるあの家庭にいることが、節子の元気をどれほど奪うか、「持たざること」を強調するのは、いつでも「持つことができている者」との比較であり、母の不在を強調するあの家から出た清太は節子の心をより活かすためにとった行動であるということをもっと想像してほしいと思う。私がシングルマザー時代に、父のいる家庭が多いフードコートで一人待たせてしまった息子が寂しさのあまり泣いていて、その時のことを思いました。
ようやく鑑賞する気になれました。
今まで、この映画をみることを避けてきました。何故かというと、「感動ポルノ」というか、あからさまな「お涙頂戴映画」に感じて、見ると辛い気分にしかならないと思っていたからです。しかし、某氏の解説を聞き、それを確かめるために評論家気分で俯瞰視点から見るように努めれば、それほど辛い気持ちにならずに済むのではないか。そう思い立ち、ようやく見ることを決心しました。
で、見終わった後の感想ですが、やはり、見ていて辛い映画でしかなかったです。やはり、二人が気の毒ですね。子供ながらの愚かしさ、意地っ張りは判るし、それを上手く導いてあげられる大人の存在が無いのは非常に悲しむべき事だった。でも、そんな人の存在は希であり、そんな人との出逢いは奇跡であり、自分のことで精一杯だった当時の人々の事情を思えば、「悲しいけど、仕方ない」というのがギリギリ精一杯な理解です。
ただ、どうして清太にもっともっと生きるために卑屈に頭を下げさせなかったのか。もう少し上手く生きることを選択させることが出来なかったのかと思う。軍人の気の強い息子だからと、その設定を加えた時点で、そんな選択肢をつぶされてしまった様にも見えるけど。そして、そんな卑屈な生き方をさせると主人公達は惨めで醜くなってしまう。ならば美しいまま死なせてはどうか。美しいまま永遠に神戸の街を見おろす亡霊にしてしまってはどうか、というこの映画の趣向が良いところでもあり、この映画の悪徳、タチの悪いところでもあったと思う。そんな「悪いところ」があるからこそ、「感動ポルノ」ではない、渋みのある映画として鑑賞できたのだと、私は感じました。
だから、ちょっと満点を付けるのは厳しいけど、非常に良い映画だったと思います。最初にお話しした某氏の解説の中に「禁じられた遊び」という映画のことも触れられていましたが、確かにその映画と共通する点も多く、影響されて「高畑勲版」を作ったのではないかとも感じられ、十分にそれと居並ぶ名作であると思います。
子供は見るべき映画
子供の時は毎年といっていいくらいやってたのに久々の地上波。そのせいか娘は一度も見たことはないとのことで一緒に鑑賞。
子供の時はただただ西宮の叔母さんが嫌な人としかうつっていなかったけど、大人になってみたら叔母さんも嫌らしいけど清太のボンボン気質があかんかったのではと。
お金はあるから何とかなる!と甘く思ってたのかな?と。結果、清太の考えの甘さで節子が亡くなってしまった節もあるなーと思いながら見てた。
まぁでも1番悪いのは戦争を始めた国!現代の税金地獄も悪いのは国とゆーことで、この国はあんまり変わってないのかな…と悲しくなった。
二度と観ないと思っていたが…
20年ぶりくらいでの再鑑賞。
『はだしのゲン』と同じく、避けてきた作品でした。
8/15 TV放映をきっかけにサイコパス先生のYoutubeを観て再鑑賞。(当日は嫁の反対で未鑑賞…)
清太と節子が繰り返し追体験しているのは分かっていましたが、『煉獄に囚われている』=『罪人』との認識は再見でも感じられなかった。
あの時代に子供が生きる為にはしょうがないという意識の方が強く、やっぱり『環境=戦争が悪い』に単純に感じてしまう。
高畑監督が伝えたかった事とは、違うかもしれないが『戦争の悲惨さ』を伝える物語として受け取っても良いのではと思いました。
どうすればせつこを守れたか、わからない
放送されたら観なくてはと義務的に思う自分がいる。
映画も観てTV放送を何度も観てその度にしんどくなる。
何がしんどいのか?
14才の兄清太と4才の妹節子が生きていくのが、
どんなに大変かとまざまざと訴えてくるからか。
食事もだがせめて屋根のある家にとどまって欲しかった。
あの湿気のある洞窟だと
小さな子はどんな病気に罹るかわからない。
清太には考えつかないことだ。
農家のおじさんの言う通りにあの家に戻れば良かったか。
しかし、疫病神とまで言われた。
あの家で居ようとすれば
おばさんに気に入られるような言動に徹さねばならない。
できるか❓
精神的に病んでいかないか❓
自分だと到底無理だと思う。
節子を守る為に泥水飲むように頑張れなかったか?
節子でさえ嫌がっていた。
節子も病みそうに思ってしまう。
家にだけ住めるよう頑張って欲しかったが。
やはり栄養不足となるだろう。
清太の妹思いには感服する。
だいぶと優しい兄ちゃんだ。
あの年頃で母の代わりにも父の代わりにもなろうとする。
節子の年頃ならグズって世話の難しい時もあるだろうに
あるがままに受け止め接している。
一人ならもっと生活しやすかっただろうか?
いや、節子亡き後二人で暮らした洞窟を去る清太の姿を
見ると節子のいない生活が無意味なのだ。
節子が居てくれたから良かったのだ、とわかる。
泥のおはぎを作って、どうぞと言うお行儀の良い節子。
兄を信頼しきって甘えて来ていた可愛い節子。
母の姿に驚き妹に嘘をつく。
いくら戦時中とはいえ今朝笑顔で別れた母と
あのように対面するのは大人でもキツすぎる。
母の遺骨を隠す清太。
必死に隠して来たのに、
節子はおばさんから聞かされていたのがわかり
涙ぐむ清太。
そして冒頭駅のコンコースで亡くなっていく清太。
周りには清太のような子が何人もいる。
清太と節子の霊を表す赤い映像、
二人再会しサクマ式ドロップスの缶を節子に渡す。
節子の骨は僅かしかなかったんだな。
💦昨日勘違いして地上波見逃しNetflix で見つけ再鑑賞できた。
野坂昭如先生の悲しい想い(泣)
訂正と追加
・アル中ではなかったかも。特に生き急いでもいない。
私生活は奥さんと子供や孫を大切にした。娘や奥さんは宝塚歌劇団?
奥さんは野坂先生を何年もの間介護し面倒を見た。
寿命をしっかり全うされていた。
・野坂氏が自らこの話を「心中もの」と言っている
・野坂氏がこの話のように死なせてしまった義妹(1歳ぐらい)の件、事詳細語ってて(ネットで出てくる)涙なしでは読めない。
空腹のために泣き止まない義妹の頭を叩いて静かにさせていた、そのことに対する尽きない懺悔の念。
・野坂氏の小説はエログロ、平和の時代に生まれてきてよかったと思わせてくれる。
野坂昭如先生の弔いの小説だよね、
(以下は私の勝手な憶測です、野坂先生には迷惑だと思います。)
幼い妹を衰弱死させて自分はのうのうと生きのびたという罪
それにさいなまれた戦後だった。アル中でしたもんね。
(野坂先生自身は頭もよく体格もすぐれ顔もかっこいいのに、、アル中)
たぶん映画の真逆、自分の食欲のため妹に十分なもの与えず、一人で食べたのだろう。
野坂先生は自分自身もう少し品性立派だったら妹も生かせてやることができたのではないか(泣)、こういう悔いに苛まれてきたのではないか(泣)。(誰でも無理だと思うよ!)
この思いから清太がでてきたのではないか。
小説の中の清太と節子はカップルの様だ。
野坂先生の罪の意識、それほど心に食い込んでいたのでしょう。
節子がほとんど聖母マリアのように神々しい。
高畑勲監督の映画の中でも、変わらず清太と節子が恋人同士のように仲睦まじい。
清太のここに関して監督はノーコメントだ、清太の性格のこの点について監督はどう考えていたのだろう。
とにかく節子が可憐だ、可憐であればあるほど切なく、戦争が残酷…
清太がいないとき節子一人でケンケンパー遊びしてるところ、本当にこの小さき生命、もっと生きててほしかった。
大人の庇護者がいない子供は戦争を乗り越えられない。無数の無名の悲惨な現実が当時たくさんあったのだろう。ほんとに怖い‥
終戦当時の年齢
作家三島由紀夫20才
手塚治虫17才
作家加賀乙彦(帰らざる夏)16才
清太14才
高畑勲監督10才(私の義母も)
節子4才
年齢によって戦争の影響が全く変わってくる世代。
特に女性、語られなかった悲惨な実態がたくさんありそう、想像するだけで怖くなる
戦争のこと語りたくないというのは清太のおばさんのようなことをして生きてきた、
という面も当然あるでしょう、優しい人ほど苦しむでしょう、
戦争が何回も繰り返されてきたのは
戦争いじめが語りたくない、さらに共感を得るのが難しい部類のものであるから。
苦しい過去は語りたくないというのは本音だと思う。一切記憶から拭い去りたいだろう。
客観的に語れるのはなかなか難しいだろう、
とすると、
今後はそういった過去に耳を貸さない
ポジティブバカが戦争を引き込んでくる可能性なきにしもあらずなので
この映画は毎年金ローでやって欲しい。
反戦というより、「孤立は良くない」の印象が強かった
子どもの頃に観て、
母親が空襲で火傷を負い、
包帯をぐるぐる巻きにされた挙句亡くなったり、
死体が山のように積まれてたり、
節子もどんどん弱って死んでしまったり、
最後は清太が妹の死体を焼くシーンで終わったり…
と幼かった自分はしっかり物語を追えてない状態で
次々とショッキングな映像が展開された感じがあり、
怖い映画、
二度と観たくない映画、
という印象がついてしまっていました。
今回のテレビ放送は息子が観たいと言い出したので
30年以上ぶりに一緒に鑑賞。
辛い話が展開されるんだろうな~と
ちょっと身構えながら観ましたが、
今回、しっかり最初から最後まで観てみて
けっこう拍子抜けしたところもあり、
子どもの頃って
ロクに映画観てないもんなんだな~と思いました。
(神戸~西宮あたりが舞台ということすら
認識としてなかった)
清太と節子に悲惨なことが
どんどん降りかかって
追い詰められる印象だったのですが、
プライドが邪魔をしたのか、
清太が頑なに頭を下げたり
ヘルプを出せなかったから、
悲惨な結末になってしまったんじゃないか…?
と思ってしまいました。
(父親が軍人でそこそこ高い階級っぽかったし、
家もちょっと裕福そうな感じだったので、
そのあたりも影響してるのかな~と思ったり…)
西宮のおばさんは「あんな言い方しなくても!」
とよく槍玉にあげられがちですが、
食うや食わずの時代に
身寄りのない子ども2人を家にあげて
世話してあげてる時点で
「なんとかしてあげたい」という
気持ちはある人なんだろうな~と感じました。
節子に勝手に母の死を伝えやがって!
みたいにも言われたりしますが、
遅かれ早かれ知ることです。
むしろ清太が節子に
母のことについてごまかすシーンを観て
ウソつくのもどうなん?
黙っててもいつかバレるで。
と思ってました…
戦争で家がなくなる、
母が空襲で亡くなる、
父は軍人としてどこで何してるか分からない、
ロクに食べるものがない、
という状態で
ヤケになる気持ちも分からなくはないですが、
火事場泥棒のようなことをしてまで
節子を守ろうという気持ちがあるなら
もうちょっと他の守り方があったんじゃないか…?
とちょっとモヤモヤ…
不安・恐怖や貧しさは心の余裕をなくさせ、
視野を狭め、浅はかな行動をとらせるのかもしれない。
いつの時代でも孤立するって良くないな。
たいへんな時ほど「いかに人と協力できるか」なのかも。
衣食住が満たされてて、
人間らしい生活ができてることって幸せなことだな、
というのが
今回、改めて観て抱いた感想でした。
かわいい節子、大人になれなかった節子
終盤のシーン、あれは防空壕だったろうか、節子が穴蔵の家の周りで遊んでいる回想シーンを見て泣いてしまった。
戦争さえなければ節子も普通に育って普通の大人の女性として生活していたのだろう。あの終盤に出てきた女の子達のように。
男の子達に住んでいる穴蔵をからかわれてまるで化け物扱いされているのを見た時心が痛んだ。居候先の叔母さんも人間の醜い部分を突き出されているようで、人間って何なんだろうって本当に考えてしまった。
最後、清太と節子が丘から現代の街並みを眺めているシーンはなんとも言えなく複雑な気持ちになり、月並みだが戦争を絶対に忘れてはいけないというメッセージだったのかなと思う。
西宮のおばちゃんへの思い
何十年ぶりにみた作品
昔にみたのは何歳だったかな?あまり覚えてないけど、西宮のおばちゃんへの憎さとやるせなくて悲しくて泣いた記憶は残ってる
年を経て、清太と同じような年齢の子供とともに鑑賞した。
せっちゃんとせいたくんは何歳なんだろう?と調べてみると4歳と14歳。
その年で二人暮らしを選択したん?
仕事もないのに?
一時的なお金しかないのに?
配給も隣組に入ってないとダメだったらご飯もなくなるよね?
無謀さを感じる
西宮のおばちゃんだって、言い方はきついけど、することもなくゴロゴロしてる清太さんにはモヤっとしそう
色々手伝ったりできることはあるだろう?と思うけど、預かってて、普段あまり付き合いがなくて、一時的だったらあまり言わないかもな
出ていく時の表情も、もしかしたら2人が誰かを頼らずに暮らすことも頭をよぎったけど、そんなはずないし、辛くなったら大人を頼るだろうと思ったのではないか、と思う
結局、やるせない気持ちでいっぱいになった。
14歳が4歳の子を抱えて生活するなんて難しいこと、戦後で他人に差し伸べるような手がないこと、清太さんみたいな、せっちゃんみたいな子が何人もいただろう
観る年齢が変わると西宮のおばちゃんへの憎さはあまりなかった。
観るべき作品
今日(2025/07/19)観ました。
過去に何度観たかも覚えていませんが、この作品は、時代に応じ、自分の価値観や現代社会の変化を考えながら観る映画、だと思います。
幼い妹と、少し年上の兄が、親戚の家での暮らしに息苦しさを感じ、使われていない防空壕で暮らし始める話です。
火垂るの墓は、ただただ悲しい話ではなく、時折楽しい場面や、ユーモアを感じさせる場面もあります。だからこそより一層悲しい場面が突き刺さります。
何より辛い場面は映画冒頭、ついさっき普通に会話した母が、空襲の被害に遭い、学校で無惨な姿で手当てをされていた場面。
そして、妹にそれを話さず、母に会えず静かに泣く妹を、少しでも楽しませようと鉄棒を始める兄の姿に、涙を抑えられませんでした。
学校に行かず、家の手伝いもしない兄妹に、悪態を吐く叔母の気持ちも分かります。同時に年端もいかない兄妹の気持ちも、今回理解できました。以前観た時には抱かなかった感情です。
ままごとの様な壕で生活、野菜泥棒、火事場(空襲)泥棒など、戦争がなければ間違いなく疎まれた行為の数々も、彼らにはやらざるを得ませんでした。何より火事場泥棒の際、少年は沢山の戦利品を得んと、嬉々として空襲のど真ん中へ走って行く場面は、とても悲しかったです。戦火に見舞われていなければ、中学生の少年はそんな感情は抱かないでしょう。
栄養失調からどんどん衰弱し、目の光を失ってゆく妹の姿は、アニメとはいえあまりにも辛く、直視に耐えません。
妹の死後、兄は妹を火葬。そのまま壕を出てそれきりです。
本作を観て、戦争は絶対に何があっても起こしてはいけないということは、一貫して抱く感情です。
一方で、兄妹で湯船に浸かる、茂みで用を足す、裸で海水浴などのシーンがあるので、外国の方や、若年層の方はギョッとするかも知れません。ここは国と国、時代のギャップとして解釈するしかなかろうと思います。
本作を「観たい」と思って観る人は少ないと思います。
しかし、国内外問わず薄れゆく第二次世界大戦の記憶は、本作の様なリアルな作品から後世に繋がってゆくと確信しています。
観たくない、でも観なくてはならない名作です。
戦争孤児の末路
最後まで見れなかった人もなぜそう感じたか考えてほしい映画。さっき母が、平和な時代なら周りの大人は手を差し伸べられるけど、戦争の時はその当たり前の行動ができない、と言ったのを聞いて初めて観点が変わった。現代の日本人は避難所でも綺麗に並ぶって言うけど、それは順番を待っていても必ず手に入ると思っているからで。結果的に兄妹を追い出したおばさんも、殴りすぎたおじさんも、盗んだ清太も、誰も悪いわけではない。生きるために犯さなくていい罪を犯してしまう。昔だからこうなった、今はこうならない、なんて思えない。戦争はだめです 13.11.19
自分の妹を燃やすための炭とか入れもの集めて、自分で妹それに入れて、自分で火つけて、たった1人で見送って、お骨拾って。つらいなあ。戦争の出来事が残虐だといってなんでもかんでも規制されるのは本当にわけわからん。過保護な世界になったなあ。15.8.14
なんで、蛍すぐ死んでしまうん⁉️
この作品は1988年公開‼️同じ年に今作と「となりのトトロ」という、映画史に残るアニメーション二作を世に送り出したジブリはホントにスゴい‼️戦争中に両親を失った14歳の兄と4歳の妹の過酷な運命を描いているわけなんですが、この妹の節子ちゃんがホントに愛しい‼️白いご飯をおいしそうに食べたり、お風呂や海で無邪気にはしゃいだりする‼️そんな節子ちゃんが汚れ弱っていく姿を容赦なく描く残酷なリアリズムに心痛めたかと思うと、闇夜を美しく照らすホタルの光が人の命の尊さを象徴してるみたいで、まるでファンタジーのようでもある‼️ホントに名作なんですけど、観ていてツラすぎる感情が湧いてしまうのも確かで、どちらかと言うと私は「トトロ」派ですね‼️
全ては守るため
幼い頃観た時はトラウマ級に怖くて、誰かが戦争に巻き込まれるなど絶対にあってはならないことだと強く心に刷り込まれた。
子供にも物心つくかつかないかから戦争について話してきてはいるが、戦争体験者の方のお話を伺う機会の前に、家族からではなく戦争を客観的に描いたアニメから見せてみることにした。
トトロのさつき同様に、14歳という大人に甘えて良い年齢なはずの清太が母の死を抱え、4歳の妹が子供らしく生きられる環境のために必死になる。
元々は父親が海軍で、社会的立場に伴う暮らしをできていた家族が、空襲がきっかけで母と家を失い、一気に社会から疎外された存在としてなんとか命を繋ぐ日々になる。
焼け出されたら頼ることになっていた西宮のおばさんの家も、軍事のためにお勤めと学校に行く夫と娘を配給で賄うことに必死で、育ち盛りの14歳男子とまだまだ幼く手がかかる4歳女児を満たす余裕はない。
焼け出された家の庭に避難前に埋めておいた、亡き母の漬けた梅干しや干しにしん、着物など、清太は母との想い出や母の喪失もこもった心境で差し出すが、元々一般家庭のおばさんからすると、「あるところにはあるのね」と物資の足しとしてしか見られない。
それでも、母の着物で替えた白米は清太のものとして大部分を分けてくれたりと、精一杯してくれてはいるのだが、夫と娘には具入りの味噌汁、清太と節子には具なしの汁のみと、食卓でもあからさまに変化をつけてくる。
居場所を提供してくれるだけでも、充分ありがたいのだが、飢えた清太は大人と子供の中間で、おばさんに甘え続ける心苦しさもあることから、清太と節子での生活の自立を試みる。
大人からすると、生きてこそだから命のためになんとかおばさんのところで辛抱するのが節子の命を守る結果に繋がるとわかるのだが、14歳の清太の甘えたくない甘えられないと思ってしまった境遇も心境もよくわかる。そして節子も、空襲さえなければ途中まではゆとりのある暮らしだったことが発言の端々からわかり、そこもおばさんの心を逆撫でしてしまう。
堤防の横穴に母の遺した7,000円を少しずつ切り崩し生活用品を集めて2人暮らしを始める兄妹。電灯がなくホタルで照らし、カエルも食べ物に見えてくる。中学入学式の時に母が着ていた着物を替えて得たお米が底をつくと、周りの畑から農作物を盗んだり、空襲時に空き巣に入り足しにする生業に手を染めていく清太。
東京の知り合いの住所がわかればよいものの、わからず、西宮のおばさんを離れては、もう頼る大人がいないのだ。
戦争孤児はたくさん生じていたと思うが、戦時中のみんなが横穴暮らしのようなひもじい中でも最も原始的な生活をしていたわけでは決してない。
作中通りかかる子供達も、同じ地域の戦争経験者なわけだが、清太と節子が留守中の横穴を見てかける言葉から見てとれるように、身寄りがなく他人しかいない世界で子供達だけで暮らすことになってしまったせいで、節子の衰弱はすすみ、清太も命を落とした。
亡き節子の亡骸を燃やすために大量の炭を買い込み運ぶ清太が通りかかる横で、横穴を見下ろせる高台に聳え立つ大きな家に、疎開からおしゃれをして豊かなおうちのお嬢さん達が帰ってきて蓄音機を回す。
聞こえてくる音楽を耳に、いぐさの箱に詰めた節子に火を放ち、燃えていく節子の横で寝そべり空を見つめる清太。
母を失いそれを節子には悟られないよう1人抱え込んでいたが、その努力虚しく西宮のおばさんは幼い節子に母は亡くなったと吹き込んでいた。その上で毎晩母求めて泣く節子をどうにかしろと清太に心ない言葉がけをしていた。知るとなお、西宮のおばさんのところに身を置かずに、優しい空間で節子を守りたかった清太の気持ちはよくわかる。
横穴で回想される節子の、戦時中でも子供らしく動き回る幼児らしい仕草がより一層、清太の決断が正解でも不正解でもあったことを物語る。
食べ物がなくなって、母の遺した貯金7,000円のうち、4,000円を既に使った状態で3,000円を下ろしてきた段階で、清太と節子の命のカウントダウンは始まってしまっているのだが、でも、じゃあ氷屋さんの削りかすをすすったあの時、氷を買った立派なおうちに衰弱した節子と駆け込んでいたらどうにかなったのか?
一時的に凌げても他人にずっとは甘えられない。
病院に連れていくも滋養としか言われなかったが、何か手立てはあったのか?
清太も、大人が守ってくれなければ成り立たない子供である理不尽さに戻ってくる。
自分だけなら隣町で学校に行けば良いが、隣町に戻って配給は得られても住居がない。
節子のお世話は誰がする?
清太は温かく育っているから尚更、西宮のおばさんの元で節子を任せようとは思えないだろう。
堂々巡りに陥る。
節子に滋養をつけるために節子を待たせるしかなく、食材を買い込んできても火を通すためには節子を待たせるしかなく、待たされた節子に残された命はもう僅かだった。あと1日早ければなんとかなったのか?
食べれる体力があるうちに、文句を言わず、わずかでも食べられる暮らしに感謝して食べておけばもしかしたら守れた命なのかもしれない。
2人とも、終戦の8月15日段階では生きていた。
米軍の直接的な攻撃で命を落としたわけではない。
にも関わらず、栄養失調と、母も妹も父も亡くし、頼れる大人もおらず、心の拠り所もなく、生きる意味や気力を無くして、未来ある子供が命を落とした。
劇的な死因がないことがより残酷な戦争のしわ寄せという仕打ちである。
清太の経験した、悲しみ、悔しさ、みじめさ全て、三宮で清太の遺体から駅員が抜き取って投げた、節子の亡骸を詰めたドロップ缶ひとつで片付けられてしまう。
作中ざかざかと溜まりゆくホタルの残骸のように、戦争で兵士だけでなく民間人にも火が垂れ降り、名前があり人生を確かに生きていた人間がざかざかと虫けらのように一瞬で亡くなっていった。亡くなったらもう、清太の母、節子、清太のように、虫けら同様ただの気味の悪いゴミ扱い。
火垂るの墓はそのような、ホタルの墓のように、虫けらやゴミのように片付けられてしまった幾多の命を辿り弔う作品だ。
そのやるせなさが苦しいにも関わらず、大人になって観ると思ってしまう。もしもあのまま生き抜けていたとしても、戦後変わりゆく日本の中で、清太は社会的に除け者のような疎外感を感じながら、ただ命だけある惨めな生活に苛まれていただろうということ。もし自分ならと考えれば、悔しくも、亡き家族のもとに召されて良かったのかもしれないと考えてしまう。
作品にもそんな自分にも、久々に観たら、全身の寒気がずっと止まらない。
現実の酷さ惨さ虚しさを幼い節子には悟らせまいと頑張った清太は、途中や結果や最期がどうであろうと、立派だ。
視聴率って大事?戦後79年経っても大衆迎合するんですか?
過去数回鑑賞
夏がくれば思い出す不朽の名作
アニメで名作が数多くあれど映画.comオールタイムベストがここまでしっくりくる作品を他にあげることはできない
実写映画の存在は知っているがテレビドラマや舞台の存在は知らなかった
松嶋菜々子主演のテレビドラマはきっと忘れていたのだろう
完全にアナザーストーリーだし
観てみたい気もする
舞台は終戦間近から直後の兵庫県神戸市&西宮市
父も母も妹も主人公も死んでしまい家族全滅
上半身がミイラのようになってしまった母と栄養失調で死にそうな節子
投げつけられたドロップ缶の中から出てきた節子の遺骨
それが強烈に印象に残る
昭和20年9月21日夜ぼくは死んだ
冒頭ここから始まる
リアルを追求する高畑だがリアルを超えたリアルなら死者の立場からの回想に辿り着くのか
僕は毎回ここでいきなり涙が溢れてしまう
散歩のあとに餌を与えようとすると大量な涎を垂らす飼い犬のように
まさしく条件反射まさしくパブロフの犬
ラピュタに比べると金曜ロードショーで放送されなくなって久しい
人間とはポジティブなものよりネガティブななものにすぐ食いつくが飽きるのも早いようだ
権利の問題もあるのだろうがそんなものは話し合いで乗り越えられるし毎年8月後半頃にETVで放送すればいいのにな
日本国から億単位の多額の補助金を貰っておきながら尖閣諸島を中共の領土だと海外に宣伝するくらいなら容易に出来るだろう
この作品は動画配信もされていない
来月からNetflixで配信されるらしいがアメリカ限定で日本は対象外
残念である
DVDを借りるか買う他ない状況
清太は我慢するべきだった
我慢していれば清太も節子も死なずにすんだという意見がいつからか覚えてないがネットで目立ち始めた
大元はなにかと言えば清太の声を担当した辰巳努の発言のようだ
彼を批判する気はないが僕は考えが違う
清太は軍人の息子だし自尊心を傷つけられることが何よりも耐えられなかったのだろう
自尊心が低い人には清太の心情は理解できないのかもしれない
そんなわけで清太のあの行動について批判する気にはなれない
誇り高い少年が野菜泥棒とは辻褄が合わないじゃないかとクレームがありそうだが人間とは矛盾に満ち不合理な存在なのだ
この年になってみると西宮のおばさんの立場も理解はできる
あの頃の自分ではない
この作品に対し「戦争の悲惨さがー」とか「戦争反対」とかそういうありふれた感想を述べる彼方系のレビュアーには抵抗がある
原作者の野坂昭如はどちらかというとそっちの方のようだが
僕としては過酷な環境に置かれた人間がどのように生きてどのように死んだのかという人間ドラマを描いたのだろうと初見からそう捉えていた
どうやら高畑監督も実際そんな感じらしい
そういえば手塚治虫も自作についてそのような発言をしていた気がする
高畑監督曰くやがて西宮のおばさんが正しく清太が悪いという意見が大勢になると
またしても全体主義の恐ろしい世の中になると予想した
ヤフコメだけみてとっても実際にそうなりつつある
今更ながら高畑勲はただ単にアニメ監督としてだけでなく人間的にも素晴らしい人だったんだな感銘する次第だ
声の配役
兄の清太に辰巳努
妹の節子に白石綾乃
心臓が弱く薬を飲んでいる清太と節子の母に志乃原良子
西宮の親戚の叔母さんに山口朱美
清太にアメリカン・ニューシネマ的反骨精神を見た
高畑勲監督は優れた観察眼により人の所作を描写していき、キャラクター達に生き生きとした生命感を与えていきます。そしてそれとは別にとても冷めた視点も持ち合わせており、それらを作品の中に同居させるのです。
本作でももちろんですが、それは「平成狸合戦ぽんぽこ」や「かぐや姫の物語」でも見ることが出来ます。
節子のあどけない愛らしさに観客の心を作品に惹き込んでおいて、その惨い最期を見せつけてくる事もそうですが、高畑勲監督は本作を観客がただ気持ちよく泣いて終わるだけの映画にはしませんでした。
映画の冒頭、清太が駅で息を引き取る間際のシーンにおいて、行き交う人々の中から「もうすぐ米軍が来るのに恥やで…」という声が聞こえてきます。
見れば清太の他にも柱に寄りかかりうな垂れている複数の人の姿が確認できます。(清太の元に無言で握り飯を置いて行ってくれる人の姿もあります)
この物語は清太を主人公としていますが、駅の柱に寄りかかる人が複数いる事からも、戦時下において特別な話では無い事が暗に示唆されます。
駅員も冷めており、デッキブラシで突いて清太が既に事切れているのを発見しても「またか…」と遺体を片すこともせず、他の少年の状態を確認しても特に救助するでなく、清太の遺品のサクマ式ドロップ缶を駅構外へ放ります。
空襲後のシーンでは、「自分の家だけ燃え残ったら逆に肩身が狭い。焼けてサッパリした」という様な事を話す者もあれば、倒れた遺体を覗き込んで自分の身内では無い事を呑気な調子で報告している者もあります。
清太の母親も空襲によって全身火傷を負い、翌日には亡くなり、遺体に蛆が湧きます。母親の遺体はその他の遺体と一緒に山積みにされ、まとめて火葬されてしまうのです。
その後清太は骨壺を抱えていますが、そんな状態で火葬された遺骨なんてどこの誰の者とも分かりません。(しかし清太は横穴へ移った時もその骨壺を大切に持ってきているのです。)
節子を火葬するための炭をくれた叔父さんはまるで釣り上げた魚の調理法をレクチャーするように遺体の焼き方を教えてくれます。清太はそれを淡々と聞き、教わった通りに節子の遺体を焼きながら何か頬張っているのです。
これらのシーンは戦後世代としては一々衝撃的なのですが、当の映画の中の人々は淡々としており、大きく感情を乱す人もいません。幼い節子でさえ母を恋しがりはするものの、ほとんどの場面で抑圧的なのです。人の命が余りにも無碍に失われていく戦時下という特殊な状況でも人はそれに慣れてしまうのかと思わせる恐ろしい描写が続きます。
また清太と節子が暮らした横穴の前には池があり、対岸に立派な屋敷の屋根がチラチラ見えるカットが本編に何度かあります。そして映画の終盤にその屋敷へ3人の娘がはしゃぎながら帰ってくるのです。もんぺ ではなく スカートをヒラつかせ、蓄音機で流すのは戦時下ならご法度だった外国語の唄です。おまけにそれが「ホーム・スイート・ホーム」とかいうふざけたタイトルの唄なのです。
このお屋敷の娘たちと清太と節子の兄妹には一体どんな違いがあったというのでしょうか?何故ここまでの皮肉を入れてくるのか?正直高畑勲監督に少し意地悪な印象も受けるのです。
兄妹が西宮の叔母ちゃんの家に居候をはじめて近所でお風呂を借りた帰り道に蛍を見つけるシーンがあります。清太が捕まえた蛍を節子に渡そうとした際、節子は誤って蛍を潰してしまいます。兄妹に蛍を殺してしまった事への感傷はありません。
その後、兄妹が横穴生活をはじめた際に大量の蛍を捕まえて暗い夜の横穴の中で放ち光り輝やかせますが、翌朝蛍は全て死んでしまいます。
蛍を埋葬する節子との会話で清太は、今まで隠していた母の死を節子が既に知っていた事を知り涙します。節子は掘り起こした穴に蛍を一まとめに埋葬しますが、その様子が母の火葬シーンと重なるのです。そして一言「なんでホタルすぐシんでしまうん?」と問い掛けてきます。果たして節子は本当に蛍の死について問い掛けてきたのでしょうか?
兄妹に命を絶たれた蛍が自身の命を絶った存在の正体と何故命を絶たれなければいけなかったのかを理解できないように、兄妹も又、何故自分たちの命が絶たれなければいけないのか、そして自分たちの命を絶とうとしている戦争とはどんな存在なのか理解できていないはずです。
昨今本作についての話題の一つに主人公:清太の行動の是非に対する議論が目立つようになっています。なるほど確かに居候先の西宮の叔母さんの家での生活態度をはじめとした清太の行動には疑問が湧く個所が多々あります。
しかし清太だって戦時下でなければ両親によって保障された衣食住を享受しながら、当たり前に学校へ通っていればいい訳で、気乗りしない労働を強要される事もなければ、両親や家を映画で描かれているような形で奪われる事もなかったはずなのです。
戦争なんだから仕方ないだろうという理屈は清太だって分かっているでしょう。しかし理屈が分かる事と心情としてそれを納得できるかは別です。
もう少し大人になれば納得いかなくとも自分が生きていくためには仕方がないと割り切って行動することもできるでしょう。ですが生意気盛りの14歳です。親類に対してさえ素直にハツラツと挨拶する事に何か抵抗を覚える年頃です。
なぜ理不尽にも自分の家や家族を奪った戦争に労働という形で加担させられなければならないのか?清太は納得できなかったのではないでしょうか?
清太が始めた戦争でもなければ、清太に戦争に対するどのような責任があるというのでしょう?それは清太と同じ戦時下に生きる殆どの人々に言えると思うのですが(それでも大人にはやはり少しずつの責任があるとは思いますが)ただそういう世の中だからと仕方なしにでも戦争へ加担していくのではなく、納得できない事、理解できない事に徹底的に抗ったのが清太だったのだと思うのです。
清太は理論を持っていません。仮に持っていたとしてもそれを展開することが許されない時代において清太は議論することなく行動で、自分に戦争への加担を促してくる社会体制へ抗ったのです。私が同じ立場なら容易に社会へ迎合するでしょう。しかし願わくばその様な迎合を迫られる社会にならないようにしたいものです。
私は今回の鑑賞で清太にどこかアメリカン・ニューシネマ的なものを見ましたが、清太の行動には支持できない部分も多々あります。その最たるものはやはり幼い妹を自分の生き方の道連れにしてしまっている事です。映画のラストで現代の日本を見つめる兄妹は一体何を思うのか?清太の行動について疑問を抱く余地がある事も含めて、それらは当然意図して描かれたものではありますが、結局未だに高畑勲監督の意図するところが私には分からないのです。
中々繰り返し見る気にはなれない作品ですが、例え間違っていたとしても作品に込められた意図を自分なりに納得できるまで見返す作品だと思います。
今回はただ単純に、子供にこんな生き方や死に方をさせる世の中は嫌だなと思いました。
14歳は子供だ
清太がもし、意地でも親戚の家に居続けたら清太も節子も寿命を全うできたのかもしれない。
でもあの家から飛び出した清太を、我儘だとか意気地なしだとかは私は思えなかった。
清太が涙を流したのは盗みが見つかり警察に連れて行かれた後、節子が母の死を知っていたと分かった時の2回だけだったような気がする。
覚えてないシーンもあるかもしれないけど、母がむごい姿で亡くなった時には少なくとも泣いていなかった。まだたった14歳の少年が、あんな状況で泣かないのは異常だと思った。どれだけ色んな感情を諦め捨ててしまっているんだろう。それに加えて妹には辛すぎる現実から目を逸せるように気遣って、悲しみに向き合う時間すらない。心身ギリギリであろう状況になった後も、妹には決して荒れた態度を取ることはなかった。
それだけ自分の若い心を抑えた彼が、更に親戚にへつらって生きることまでは出来なかったのは責められないと思う。
充分精一杯生きて、最期まで妹の幸せを守ったように見えた。
(親戚のおばさんが悪いとも思わない。見返り無しに孤児2人を食べさせていくのはきつい。でも大人として清太をどうにか導いてほしかったとも思う)
清太は現代からタイムスリップした少年というような話が監督からあったようで、多分このように考えるのは自分が現代の若年層だからなんだろうなとは思う。
でも2人が若くして亡くなった責任を、清太が全て負わないといけないわけないだろうと思ってしまう。年相応の感情すら許されないような環境や時代が絶対におかしい。
火垂るって火が垂れ下がるたから、焼夷弾。
単純に見れば、関西の人々に対するディスリになる。単純ににそう言った意味ではないと思う。
このアニメはあまりに辛辣な表現を理由に、色々な解釈が生まれているようだが、間違っては駄目なのは、単純な反戦アニメではないと言う事だ。
このアニメで泣いては駄目だ。
『禁じられた遊び』と同じで、女性を助けられない男性の判断ミスだと理解べきだ。どちらの映画の男性も『傍らの女性を慰める位の手立て』しか取る事が出来ず、大事な女性を無くしてしまう。その『悔やみ』だと私は理解している。原作者、自らの妹に対する『贖罪』と言った解説があるようなので、間違いないと思う。
プライドとか差別にも負けずに狡猾に生き抜かねばならない。自己以外は自分が生き抜くためには、足手まといになる事もある。そう言った一時の感情に流されない者が生き抜く事が出来る。
私の父が東京大空襲の後、小岩から尾久の機関区へ行く為に、上野の浅草口のスロープを歩いたそうである。言うまでもなく、両側には死んでいるのか生きているのか分からない者が沢山いたそうである。勿論、何も手助けなどは出来なかったらしい。(因みに親父は14歳から仕事にありついていたそうだ)
さて、その数年前まで、親父家族は江東区(当時は城東区)南砂町で生活していたそうで、東京大空襲の時に、同級生の多くが亡くなったそうである。親父はいつも言っていた。
『小岩へ引っ越したのは正解だなぁ。親父(祖父)凄いよ』親父の口癖が『狡猾に生きろ』だった。自ら不要な問題を沢山抱えて、親父が狡猾かとうかは問題外。
親父のこのアニメに対する感想は『関西の人々は気が強いからなぁ。妹が亡くなった奴らは、この頃は沢山いた。気を落とさず生きなきゃ』だった。勿論、僕はそう見ていないが。
その時、話してくれたのが、浅草口のスロープの話である。
『たぶん、彼らも死んじまっただろうな。でも『本土決戦』なんて無くて良かったなぁ』だった。
男はやっぱり意気地が大切
映画の始めに最悪の結果が現れて、フラッシュバックでその経緯を詳しく語っていく。特に、清太くんは妹の節子ちゃんを守る責任を背負って、精一杯生きている根性に感心する。でも、節子ちゃんが亡くなる前に意識がはっきりしなくなったシーンを見たら、泣けるほど悲しかった。むしろ親戚が若い清太くんを丁寧に導いてあげればよかったのに。。。
反戦や悲劇がテーマじゃない!と監督が言った理由
小さい頃に一度見て、それからずっと見ないでいた作品。
アニメや映画雑誌などインタビューで監督が【これは反戦や悲劇がテーマじゃないんですよ】と言っていた事は知っていた。
だけど、その意味が分からないまま大人になっていました。
セイタ兄弟は戦争の被害者のように写されますが
空襲で焼ける街や人を見て ホタルみたいだと言います。出だしから他人事なのです。
そしてセイタ達は自分達の為にホタルを大量に捕まえ、死なせてしまいます
ホタルを手当たり次第捕まえて蚊帳に閉じ込めて死なせてしまったのは自分達のはずなのに、かわいそうだと泣くのです。
【自分たちの都合や利益の為に大量の命を奪う行為】に対して何も感じていない。
この構図は明らかに戦争とシンクロしています。
ここがこの映画の最大のキモだと思います。
人間は目の前の事にだけ共感し、
共感した相手がひどい目に合えば敵に対して憎しみを持ち、自分にとっての正義であればどんな酷い事をしても全て肯定してしまう。戦争がまさにそれです。
物語を見る我々にとっての正義はセイタ兄弟に見えます。
自分勝手なワガママも、盗みも、妹を死においやったことも、ホタルを弄んでも【正義がやること】なので、見ている人は特に気にもとめません。
セイタを正義として見ている人はだいたいこう言います。『子供なんだし仕方ない、戦争なんだし仕方ない』
しかしセイタより年下の子供でも礼儀正しく、頑張って働いてるシーンは何度も出てきます。
この映画はセイタに正義を置いていないのです。
しかし、セイタ側に感情移入してしまっている人はオバサンや助けなかった大人達に対して酷い人達だと反感を抱きます。
危険な街に出て必死に働く娘を優遇するオバサンは悪でしょうか?
食料が底をついているのに働きもせず、お礼も言わず、遊んでばかりの人のご飯を少なくするのは悪ですか?
空襲で人も死んでいるのに『もっとやれー』と大笑いしながら泥棒する人が正義でしょうか?
妹が死んだ途端にスイカを食べ尽くすセイタは正義ですか?
この物語は悪でも正義でもないのです。
自分にとって共感する相手を贔負の目で見てしまう人間の性。
皆がその人間の性質に気づくまでは戦争が無くなることは無い。と監督は描いているように感じます。
だからこそ この映画は反戦がテーマでは無いとことあるごとに言っていたのではないだろうか。
1歩引いて現実を見ることが出来る人間と
目の前のことしか見れない人間とで見え方が違う物語を意図的に作り、感想の食い違いを起こさせる事で
争いの本質は何なのかを気づかせようとしたのではないでしょうか。
最後の最後に幽霊のセイタが観客に問いかけるようにジッと目を合わせ 現代のビルの夜景で映画は終わりますが
我々現代人は何かにつけて誰かに悪のレッテルを張り付けバッシングを浴びせあっています。
物事の見方を変えれば、自分のモノサシの短さに気づけば、そのような下らない争いは無くなるはずなのに。
余談ですが
セイタのモデルでもある原作者は自身の本の中で
妹が次第に疎ましく感じて妹が死んだ時にほっとしてしまったと語っています。それが本心だったと・・
アニメ化が決まった時に原作者は
『絶対に僕を(セイタ)善人のようには描かないで下さい』と念を押したと言います。
その一言が ただの戦争反対の映画ではなく
戦争を起こさせない 気づく力を養う為の映画にしたのだと思います。
全30件中、1~20件目を表示