プーサンのレビュー・感想・評価
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もっと「女優・越路吹雪」を観たかったですね。
神保町シアターさんにて「生誕100年記念 稀代のスターを映画で辿る― 銀幕の越路吹雪」(2024年6月29日(土)~7月26日(金))開催中。
市川崑監督『プーサン』(1953)鑑賞。
『プーサン』(1953)
『くまのプーさん』ならぬ当時毎日新聞夕刊に連載された4コマ漫画をアニメ制作経験もある市川崑監督が上手く当時の社会風刺を入れながら描いてましたね。
超個性派俳優・伊藤雄之助さんがうだつが上がらない数学教師を哀愁たっぷり演じるのも珍しく、小林桂樹さんのシニカルでブラックユーモア溢れた警官役も面白いのですが、やはり女優としての越路吹雪さんは本作の見どころ。サザエさんのようなミス・ガンコをベテランコメディエンヌのように活き活きと演じてますね。
越路吹雪さんといえば、岡本喜八監督『ああ爆弾』(1964)でも伊藤雄之助さんと夫婦役でこれまた傑作でした。
映画主演作は10作品前後ですが、もっと「女優・越路吹雪」を観たかったですね。
言いたいことはわかったが。
コメディ要素はとにかく面白くてずっと笑いっぱなしだったが、脚本として纏まっていたのかと言われればNO。
諸々のエピソードが回収されず放置されたまま終わり、もや〜っとした。
ラスト、兵隊がいっぱい乗った車が走り去るのと逆の方向に、一人頼りなさげに歩いていく主人公の後ろ姿は、内容が全く違うが「野火」を連想させた。それでも生きていくしかない、ということかな…。
銀座の街並み、都電
銀座の街並みが見れて面白かった。
三越や、日本橋の西川ビル。
なるほど。。。。。
トニー谷も、動いて見れて
おそ松くんの通りだなぁと。
越路吹雪さんも女優だったの??
とビックリ‼️
あの宝くじが大当たりするのかと思ったけど。。。
古さへの信頼
日本映画をけなすことが、けっこうある。
ぜんたいとして嫌いと言えるかもしれない。
わたしならずとも、人様のベストムービーをざくっと見渡して、日本映画を挙げている人なんて、数えるほどしかいない。
だから、単純に見積もって、日本映画は日本人に好かれていないのではないか──と思う。
今更感のある話だが、多かれ少なかれ、わたしたちは「西洋かぶれ」ではなかろうか。
なぜ日本映画が好かれていないのか。
ひとことでいうと「出来が悪いから」であろうと思う。
昔から、なぜ日本映画界は、低レベル映画を連発しておきながら、偉そうなんだろう、と思ってきた。
この暗幕の背景にあるのは、どこかあるいはだれかには評価されているらしい──という不透明な情報網であろうと思う。
権威機関が絶賛を掲げていると「へえ、そうなのか」ということになり「おれには合わなかったけれど、どこか/だれかには誉められているのか」ということになる。
むろん興行はあからさまであっても、クリエイターの権勢は保たれる──ことになる。
じっさいすべて虚構だと思う。
絶賛している「海外」なんて存在しないし、ひとりとして彗星のごとくあらわれていない。嘘とまでは言えない、本当ではないことを、針小棒大に喧伝している。
日本には何年もカメ止め以外に何もないことは庶民がよく知っている。
日本映画の実態とは、そんなものではなかろうか。──と思っている。
が、とうぜん優れた日本映画もあり、優れた日本映画監督もいる。
それなのに旬報や御用マスコミがじっさいにはレベルの低い映画を実力以上に持ち上げてしまうため、わずかな好感を、嫌感が凌駕してしまうという話、である。
今は紙媒体の機関誌を見ないが、かつてはスクリーンやロードショーといった、写真の多い雑誌を眺めた。
旬報も読んだが、何が書いてあるのかさっぱり解らなかった。今でも旬報系ライターのレビューは何が書いてあるのかさっぱり解らない。
庶民の娯楽であるはずの映画に、旧弊な権威を発し続けている人たち──だと個人的には思っている。
もうひとつ大きな理由は、日本に住む日本人だから、であろうと思う。日常、向き合っている社会と同じものを、わざわざ映画で見たくはない──という気持ちがはたらく。
そうではない人もいるだろうが、個人的に、それは大きい。
とりわけ人の醜悪があらわれるものを、一日の終わりに、見たいとは思わない。そういう映画を積極的に見たい気分のときもある。が、現実の厄介ごとを背負っているとき、ドラマでも映画でも、日本はぜんぜん見たくない──と思っている待機帯は長い。
さらに、もうひとつ理由として、日本映画が持っている俺様感がある。いつ頃からか解らないが、日本映画が、それを撮影している人たちの気配をにじませるようになった。所謂どやで、画の端々から「おれのつくった映画すげえだろ」の主張をしてくる。
さいきんバイオレンスの雄という言い方がよくある。誰が「雄」に仕立てたのか知らないが、その呼称はまるで「おれは粗暴な人間なんだぜ」と言っているように聞こえる。
監督が、映画製作を通じて、他者を威嚇している──ように思える。
いったい何がしたいんだろうか。
日本の映画監督の多くが、暴力を撮れる=すげえこと、というBullyの三段論法から、ぜんぜん卒業できない永遠のジャイアンのように思える。
これらのどやは他国の映画には見ない気配で、なるほど、その意味では独自性かもしれないが、個人的には無理である。
作り手の功名心が見えてしまう創作を、どうやって楽しめというんだろうか。
これらが複合に重なり、日本人は日本映画が嫌いになった──と個人的には思っている。
が、古い日本映画は、厭世を刺激しない。
古い日本映画は比較的出来が良く、日常を反映しておらず、どやがないからだ。
この映画はwikiで見たらコマ漫画の映画だそうである。大昔の漫画だが、横山泰三にもプーサンの響きにも、なんとなく耳憶えがある。
その戯画的軽調が、浮き世をさらに乖離させる。どこでもない世界のように見える。
に加えて、越路吹雪の顔立ちは、東洋人臭さがないのに、バタ臭いわけでもない。妖しさを抜いたローレンバコールに見えなくもない。サバサバが性質から面に出た感じで、とても垢抜けている。カン子って響きもいい。また、八千草薫は描いた人が動いているようでもあった。
嶋田久作にたいして伊藤雄之助の再来と言われたのを聞いたことがあるが、いくらなんでもそれは誉めすぎである。もっとも上背と顔貌でそう言われたのだと思うが、ここに出てくる伊藤雄之助、小林桂樹、藤原釜足、加東大介らは黒澤組でもあるが、かれらのシンギュラリティというか、俳優濃度というか、なんといったらいいのか解らないが、格を現代の俳優に充てるのは無理があるのではなかろうか。
たんに年をくって懐古趣味になっただけかもしれないが、それを言うならわたしは100歳くらいでなければならず、そういう同時代性の話でなく、たとえば高倉健の黄色いハンカチを阿部寛でやればどうか、それはそれで楽しいが、別物ではあるだろう──という話である。
喜劇にしているが事実上はシビアな時代背景がある。安保と重なった血のメーデー事件の翌年製作で、暴動のリアル映像の挿入もあった。主人公野呂も拘置されるが、それらが飄々と描かれ、漫画らしく、生きるも死ぬも諧謔のなかにあって沈殿しない。
野呂とカン子が銀座で見る舞台は女が極小ビキニでくねくね踊るものだが、セクシーというよりは滑稽である。劇場の看板には「桃源の美女たち」とある。そのあとふたりでラーメンを食べる。
初デートでそんな扇情的なものを見るふたりと、そんなものが日中の劇場で上演されている時代性と、ラーメンまで奢らせちゃ悪いわと遠慮するカン子は、総じて古き良きと言えるのではないだろうか。今はザギンでシースーでも腐る時代である。
市川崑といえばわたしの世代認識としては犬神家や我輩は猫だが、その美的感覚はこの映画には見えず、あまり詳しくないが木下恵介や川島雄三のような軽妙だったと思う。
コンプライアンスはないが人情はある。
自助と逞しい時代性が絵から伝わってきた。
ミシンはマシーンだから・・・
学生の泡田(小泉博)が紀元節を否定したことでケンカ。相手の学生(山本廉)は1週間後には思想ががらりと変わっていた。思想がどうのこうのという作品でもないが、戦後、朝鮮特需などで社会も激変していた時代。風刺するネタも豊富だったのだと感じられる。
元は毎日新聞に連載されていた4コマ漫画が原作。映画の中でも4コマ風のブラックユーモアもたっぷり。それでも基本的なストーリーは野呂が失業して、仕事を探す話。下宿屋の娘であるカン子(越路)にほのかな恋心をよせる野呂は妻を亡くして8年になる。デートもするが、行き先がストリップ劇場という変わった設定。
思想的には中立だが、戦争は大嫌い。そんな彼が下宿屋のおばちゃんに紹介された会社はミシンの部品だと偽って銃弾を輸送する仕事だった・・・暗い雰囲気だったけど、いったいどうなるんだろうか?カン子が恋人との結婚を反対されたからといって簡単に自殺未遂するという展開は面白くない・・・ちょっと残念。
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