一人息子のレビュー・感想・評価
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100年前のリアリティを生む、小津のまなざし。
⚪︎作品全体
戦前に中学まで進むのはそれだけで秀才の証なわけだし、全員が将来成功するのだろう…と思っていたけれど、現代でも超難関高校へ行った学生が全員成功しているかと言われるとそんなことはないし、戦前も戦後も地続きの世界であることを感じさせる。
御伽話でもなんでもなく、リアリティある100年前の描写に、小津作品の凄みがあった。
ここでいう「描写」とは戦前日本の舞台背景や装飾ではなくて、やはり人を描くということだ。親子であっても言いにくい本音があって、それを隠そうとする何気ない間がある。そしてそれを感じ取れる距離感…そういう場面の積み重ねが、人を作っていた。
冒頭の少年時代の主人公のシーンは象徴的だった。なんの気なく嘘を吐いた後の足元だけ見える階段、降りてきたときの主人公の表情。箪笥や障子を使った空間の狭さ。主人公の心の重さみたいなものが画面から伝わってくる。
物語に特別な出来事はない。理想ではないにしろ家族を持って東京に暮らす主人公と、もっと偉くなったものと思って小さくガッカリする母。夢に届かずとも、人生はそれだけではないということを優しく諭してくれる、普遍的な物語だ。でも、だからこそ、人の描写力は実直に出る。
この作品が小津安二郎にとって初のトーキー映画だというのだから、またすごい。
会話のテンポ感や一瞬の会話の違和感がキチンとある。だからと言って会話劇が誇張されるわけでも、足りないわけでもない。
この後に続く小津作品の妙が、この時からすでにある。
⚪︎カメラワークとか
・ランプというモチーフ。ファーストカットのランプ、少年期の主人公の家にあるランプ…モノクロの映画というのもあって光源というのはずいぶん目立つ。一人息子という一つの希望、中学校へ行く夢という名の希望。後半はあまり出てこなかったのは意図的なのだろうか。
・画面の狭さみたいなものを作るのが本当にうまいなあと思った。箪笥やなめ構図、障子…自然と人物を見ていられるような。
息子の家の音
1936年。小津安二郎監督。監督初のトーキー作品。信州で紡績工場で働いて女手一つで息子を育てる女性は、中学校に行きたいという息子の願いを無理してかなえ、東京に送り出す。13年後、東京を訪ねてみると、息子は市役所を辞めて夜学の教師となっており、すでに結婚して小さな赤ん坊をつくって貧しい生活に甘んじていた。息子はふがいない自分を恥ずかしく思いながら親孝行しようと思うが、、、という話。
息子に期待する母親の幻滅と、親の期待に応えられなかった息子の諦めとの間に生まれる苦しい衝突が描かれる。人生を諦めている息子のふがいなさを責めながら涙を流す母親。隣人を思いやる息子の姿に触れて母親は息子の成長を感じていくが、どこか無理に自分を納得させていく様子であり、息子は母の期待に再び応えようと再度学業を続ける決意をするが、どこか無理に前向きになろうとしてようでもある。それがことさら痛々しい。苦い物語。
息子が住む家には朝夕ひっきりなしに工場の音が聞こえていて、これが息子の苦境を「音」として象徴している。この家は騒音のせいで3円安くなっているといい、東京でうまくいかない息子を責めさいなむように聞こえるのだ。息子を追い込む社会そのものの音(リズミカルで不気味)。ラストでは、母親が働く紡績工場が手工業から機械工業に変わっていることもさりげなく示されている。東京の工場と信州の工場。すでに高齢の母親は紡績に関わるのではなく工場の掃除をしていて、社会の機械化(資本主義化の進展)で人間が生きにくくなるさまが表されている。トーキーを生かした音の表現。
近所のいたずら坊主が馬にけられてけがをするシーンがあり、最終的にはこの家の困窮とそれを助ける息子の暖かい心のありかを描く物語の一部となっていくが、この子どもの描き方は全体的に重苦しいトーンを明るくしている。小津監督は子どもを描くのがうまい。
今の世の中では表現できない内容
昔、田舎で教えてもらった青年教師が、東京で会ってみると場末のとんかつ屋になっていた。笠智衆演じるそんなさえない男のもとへ、子供が生まれた報告に行くと、夜泣き封じの絵をくれる。
主人公は家に帰ると、さっそく子供を寝かせている部屋にこの絵を貼る。これ以降、家の中のシーンにはずっとこの絵が映っているのだが、魔除けとはいえ、なんだか陰気臭く、不気味な雰囲気を醸し出している。
しかし、主人公が、もう一度勉強をやり直して再起を図ると妻に誓った時のシーンには、この絵が映っていないのだ。彼が、とんかつ屋のように落ちぶれていく生活に、きっぱりと決別したことが示されている。
ところで、とんかつ屋が、落ちぶれた元教師のしがない生業として描かれているのだが、世のとんかつ屋たちからしてみれば面白くない話ではないだろうか。
特定の職業や職場での立場を、このようにネガティブにとらえる物語を、現在制作することは不可能なのではないだろうか。人種や性別と同様、職業や役職も、その描写に政治的な配慮が求められるこの時代だ。今、この映画を製作することは難しいことだろう。
そんなことを気にせずに物語を紡ぐことのできた時代の、牧歌的な表現をたくさん見ることができた作品。
文章を売る人たちも、その表現内容について、常に政治的な正しさを求められるのと同様、いやそれ以上に、映画の表現内容に対する世の中の検閲は厳しくなる一方だと思う。
教科書に載る古典文学がつまらないものに偏っていく原因も、映画が表現する人間や社会が、イデオロギーや性差、経済格差などを中和した平板なものになってしまう原因も、映画製作に携わる人々の能力の問題ではなく、こうした配慮を求められることにあるのではないだろうか。
確かに、自分や自分の親の職業を、落ちぶれた人間のやることと表現されると、気分は良くないだろう。それを我慢してまで映画を観る観客はいない。
表現の自由とは、政治権力やイデオロギーに支配を受けていないからと言って、いつでも保障されているものではない。むしろ、政治色やあからさまな性的描写さえ出さなければなんでも自由闊達に描くことができたのは戦前・戦中なのではないだろうか。
作品の時代性について考えるとき、昔の不自由さと今の表現の可能性の比較だけではなく、今の表現を巡る神経質な状況、昔の観客のおおらかさに目を向けることにより、その時代が、いかに豊かな表現が可能な時代であったかを確かめることができる。
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