「色あせない青」PERFECT BLUE パーフェクトブルー 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
色あせない青
imdbに公開当時(1998年)のパンフレット画像があった。
パンフレットには大友克洋とロジャーコーマンと藤井フミヤの賛辞が載っていた。
そこで大友克洋はこう書いていた。
『これは、アニメーションと云うカテゴリーで作られ、映像作品と云う意味を持ち得ているすばらしい作品です。監督の今敏君の中では、アニメも実写も既にボーダレスで、彼の前にあったのはいかに面白い映像作品を作るかという事のみであり、そのために費やされた努力に拍手を送りたいと思います。様々な映画ファンにぜひ見て欲しい作品です。アニメーションの進化はデジタル化ばかりでなく、本来のエンターテインメントに向かっているのです。』
これはアニメであることに囚われずにつくった結果、PERFECT BLUEはアニメ映画としてでなく、たんに映画として人々に認知され評価されたという現象を、これより10年前の1988年にAkiraをつくった大友克洋が敷衍したものだ。
そしてPERFECT BLUEが、人々の記憶の映画棚に、アニメ映画という注釈やカテゴライズ抜きで並べられていることが、喜ばしい方向性である──と大友克洋は1998年PERFECT BLUEの賛辞として述べたわけである。
アニメ映画を見るときに「アニメ映画を見る」という身構えで見るわけではない。わたしはそうだ。
最近ルックバック(2024)を見たときも「映画を見る」つもりで見たし、宮崎駿や新海誠の新作を見るときも、映画を見る──つもりで見る。
クリエイターの目的が『いかに面白い映像作品を作るか』であるなら、観衆の関心は『いかに面白い映像作品』たりえているかであって、アニメか実写かに仕切りを設けていないのが一般的な観衆の視聴態度であろうと思われる。
しかし。
現実には、日本の実写映画は、日本のアニメ映画にくらべて、圧倒的につまらない。
クリエイターが実写にするかアニメにするかを題材に合わせて選んでいる──わけでもない。
今敏、宮崎駿、新海誠、細田守、押井守、大友克洋・・・そういった優れたアニメーターの作品世界や精神性を、日本の実写映画で見たことがあるだろうか。わたしはない。
両刀づかい(アニメも実写も扱える)なのは庵野秀明だが、逆に言うと庵野秀明くらいしかいない。
最近、藤本タツキ&押山清高のルックバックを見たが、日本の実写映画では見たことも聞いたこともないアイデアやセリフが、アニメ映画では出てくる。
本作PERFECT BLUEはダーレン・アロノフスキーが惚れ込み、入浴シーン(上からの俯瞰と、顔を湯にうずめて叫ぶ)が、ほぼそのままRequiem for a Dream(2000)で使われ、オマージュであることをアロノフスキー本人が認めて打ち明けているが、海外の映画人に(かつての黒澤明などはともかくとして)模倣される日本の実写映画があるだろうか?
たとえばNope(2022)の監督ジョーダンピールは、Nopeの前提やモンスターのインスピレーションを新世紀エヴァンゲリオンの天使から得た──と明言している。
今そのように影響を与える日本の実写映画はあるだろうか?
結局、日本の実写映画の製作者たちとアニメ映画の製作者たちは、180度違う人種であり、180度ちがう畑だ。
加えて、すべてがそうだとは言わないが、あきらかにアニメ映画の作り手のほうが実写映画の作り手よりもアタマがいい。
だいたいにおいて、日本の実写映画撮影現場は、いみじくもPERFECT BLUEのキャラクター、アイドルから転向した霧越未麻の境遇のように、女優デビュー作品からいきなりレイプシーンをやらされる──というような昭和四畳半下張りの世界線なわけである。それは令和の今も変わっていない。そんな旧態依然の環境に「本来のエンターテインメントに向かう」意向なんてあるはずがない。
しばしば指摘していることだが、ポルノを出発点とする日本の実写映画人の野心の根底には「(女優と)やれるかもしれない」というのがあったはずだ。全員がそうだったとは言わないが、下心が映画製作の原動力となったのは間違いないと思う。現実に性加害が判明した監督がいるではないか。いわんや旧世代・長老たちなら尚更である。現場には女優たちの泣き寝入りが数知れず転がっていることだろう。
真のエンタメは、アニメ・実写の垣根をもたない──という大友克洋の言説は、よく理解できる。
時代が巡って今2024年、ますますその通りだと思う。
しかし、映画を見慣れている人で、日本の実写映画と日本のアニメ映画のクオリティの差を知らない人は一人もいない。アニメと実写はおなじ日本製でも全然デキの違う兄弟なのである。
つまり観衆はアニメでも実写でも、どちらでもいいのだが、もし実写の製作環境にこのスクリプトを渡していたなら、PERFECT BLUEはつくられたとしても埋もれていた──と言いたかったわけ。
ロジャーコーマンは賛辞に寄せこう述べている。
『驚異的で、パワフルな作品だ。もし、アルフレッド・ヒッチコックがウォルト・ディズニーと共同で映画を作ったならば、きっとこのような作品ができただろう。』
そのとおりだが、もし日本の実写映画人にこのスクリプトを渡したばあい、これはヒッチコックではなく、ロマンポルノ路線へ奔っただろう。それが日本(実写)映画のわかりきった運命なのだ。
そもそも、この映画PERFECT BLUEは、実写映画として構想されていたのが製作段階で出資者が撤退したためアニメになったのだという。
実際にアニメでなければ埋もれるはずの映画だったわけである。
『カルトなテレビドラマのマニアとして知られていた竹内は当初、実写映画を想定していたと言われるが、資金調達が困難だったので、企画はオリジナルビデオに、さらにオリジナルビデオアニメ(OVA)に格下げされた。今(敏)のところにオファーが来た時にはOVAの企画だったので、彼は映画ではなくビデオアニメとして『パーフェクトブルー』を制作した。その後、完成直前になって急遽映画として公開されることが決まった。本来、この作品は「ビデオアニメーション」という枠で作られた作品であり、その狭いマーケットの中で少しだけ話題になってそのまま消えて行くはずだった。それが、劇場映画として扱われ、世界の映画祭などに招待され、各国でパッケージとして発売されることになるとは、関係者は夢にも思っていなかった。』
(ウィキペディア、パーフェクトブルーより)
かつて見た記憶はあるが、今見たら確かに原石の印象があった。ストーカーや男たちが嫌悪感たっぷりに描かれ気味が悪く、想像していたよりもはるかに扇情的なレイプシーンがあり、現代でもインパクトは痩せていなかった。
imdb8.0、RottenTomatoes84%と89%。
今敏監督は、この後、千年女優(2002)、東京ゴッドファーザーズ(2003)、パプリカ(2006)と、怒濤の高クオリティ作品を連発したが、
『新作『夢みる機械』準備中の2010年8月24日に膵臓癌で死去。享年46。』(ウィキペディア、今敏より)
──
imdbで見つけたトリビア。
『未麻がインターネットの使い方を教わるとき使われていたブラウザはネットスケープ・ナビゲーターである。この映画の制作当時、ネットスケープは地球上で最も人気のあるインターネット・ブラウザだったが、その後徐々に人気が低下し、最終的に2008年に開発が中止された。』
インターネットの歴史年譜によると1998年(前後)はブラウザ争いのほかに、1M/秒のADSLが実用開始した年、Windows98がリリースされた年、Googleが創業・法人格を取得した年、「ひろゆき」が2ちゃんねるを開設した年、iモード(携帯電話からネットへアクセス)が開始された年。など・・・。
映画内では未麻が極度のパソコンオンチであることを描写していたがそれが滑稽なほど時代的だった。
ちなみに藤井フミヤの賛辞は──、
『アニメーションでしか表現できない主人公未麻の存在感とリアリティがこの作品の切なさと恐怖を増幅させていく。この映画は日本の新しい文化と技術でしか作れないサイコだと思う。』