「東映映画の転換点の1本」動乱 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
東映映画の転換点の1本
ことしのコロナ禍の中、東映も上映作品が窮乏しているようで、過去作品のデジタルリマスター版が幾作品か登場しました。
本作品は、高倉健と吉永小百合の初顔合わせ、かつ岡田裕介の初プロデュース作品で、その後の東映作品に影響を与えたものと思います。
映画は二部作。
第一部「海峡を渡る愛」。
昭和七年、世は困窮が続き、米騒動も勃発していた。そんな中、仙台の歩兵連隊では中隊の初年兵・溝口(永島敏行)が脱走。
理由は、借金のかたに売られてしまう姉・薫(吉永小百合)に最後の別れを告げるためだった。
中隊長の宮城大尉(高倉健)は追尾隊を組織し、溝口の故郷近くで脱走兵を捕縛するが、その際、追尾隊の指揮隊長(小林稔侍)が溝口ともみ合いの末、命を落としてしまう。
結果、溝口は軍法会議の結果、死刑。
責任を取る形で、宮城も朝鮮北部の国境警備に転属となる。
溝口の姉・薫を慮った宮城の思いも空しく、そ朝鮮半島の辺境で遊女となった薫と宮城は再会する・・・
第二部「雪降り止まず」。
昭和十年、東京。薫を引き取った宮城は、薫とともに東京に移り住む。宮城が第一連隊の役職に就くことになったからだ。
薫を引き取り、世間には妻と称しているものの、宮城はまだ彼女との間に関係を持っていない。
そこには、宮城がこのあと起こすことになる「二・二六事件」決起に対する彼女への配慮があったのだろうが、薫には宮城の他人行儀な潔癖性にみえてしかたがなかった。
宮城が師と仰ぐ上官への決起決意の旅の際、薫はそのことを宮城に対して詰るのであるが・・・
といった内容で、このあと、「二・二六事件」が描かれる。
1980年というと、すでに角川映画の『犬神家の一族』が成功し、日本映画界はそれまでの二本立て興行を見直し始めていた頃。
高倉健もすでに東映の専属ではなく、先に『八甲田山』で大作映画主役を務めていた。
東映では『仁義なき戦い』で手にした実録ヤクザ路線での大作映画化は困難との見方もあり、方向転換を考えざるを得ない状況。
そこに岡田茂社長の息子・裕介が製作者の立場で東映に帰着しての初プロデュース作品。
これまでの東映カラーを払拭しようとしての映画であった・・・
というのが、この映画の背景。
で、映画として、どのあたりに力を入れたのかは、吉永小百合であろうことは一目瞭然。
「時代に翻弄される男女の愛」という雰囲気だが、主役・高倉健の宮城大尉は翻弄されていない。
確信犯的に「二・二六事件」に突き進む。
歴史的には、本事件は陸軍内部の権力闘争のレベルでしかない、というのがいまとなっての定説だが、この作品では「貧しい民を救う義憤」という形をとっている。
これは、多分に、当時の東映映画ファンが反権力の立場に多かったためであろうし、その視点で映画を進めるのは悪くない。
が、最終的には、天皇の逆鱗に触れ、逆賊扱いになることを悔いたことで投降して事態が収拾され、そのことで、結句、天皇の絶対権力を認める右翼的思想映画としてのレッテルを貼られてしまったように思えます。
それはさておき、映画の主軸である「時代に翻弄される男女の愛」がどう描かれたのか・・・というと、あまり上手くいっているとはいえない。
第一部が、「それは嘘だろう・・・」と思うほどのドラマチックな展開なのに比べると、第二部では宮城・薫の愛情表現は「ストイック」の一言に落ち着いてしまう。
対比されるべき、青年将校・野上(にしきのあきら)と商家の娘・葉子(桜田淳子)というカップルを出しながら、ダイナミズムが欠如している。
野上・葉子のカップルは、決起の日に忘れず婚姻届けを出せ、未来はこれからだというのだが、宮城・薫のカップルは諦念のようにあくまでストイック。
このふたつの対比がうまく機能していないのは、ひとえに野上・葉子側の描き方が足りないせいだろう。
野上・葉子カップルを上手く描くシーンがもういくつかあれば、薫が宮城に面会する際の浴衣を着せかけるシーンでのエロチシズム(男女の情念)が高まったことと思う。
とはいえ、本作品、その後の東映作品で女性映画路線(『天国の駅』『火宅の人』など、ひいては『極道の妻たち』などのヤクザ路線にも)に舵を切る役割は果たしたと思われます。
とにかく、吉永小百合を魅力的に撮ることに注力されていると思いますから。