「感動でも哀愁でもなく「畏怖」」東京物語 wawausoさんの映画レビュー(感想・評価)
感動でも哀愁でもなく「畏怖」
「東京物語」を一面的にホームドラマとして、そうでなくてもせいぜい当時の日本社会の家族態様の変化を描き出したホームドラマとして捉えるのに抵抗を感じてきましたが、それが何か分からないでいました。
今回見直したところ、「とみ」が物語の序盤で酷いセリフを言ったことに気づきました。それは次男の妻であり未亡人である紀子に向けたものです。周吉と「とみ」が尾道から東京にある幸一の家へ着くと、紀子がそこを訪れ「とみ」に挨拶をします。その紀子に対する「とみ」の言葉です。
「東京いうたら随分遠いとこじゃ思うとったけど、昨日尾道を発って、もう今日こうしてみんなに会えるんじゃもんの。やっぱり長生きはするもんじゃの」
紀子の夫である昌二は8年前に戦死しています。作家は明確に「とみ」を悪く描こうとしています。
周吉も結構なもんです。彼は東京ですることもなく、おそらくさほど仲もよくない同郷の服部、沼田の二人と約束を取り付けて飲みに行きます(一軒目では軍艦マーチが流れます)。そこで沼田とともにお互いの息子の情けない現状を嘆きあいます。その時、その二人の横で酔いつぶれている服部は一軒目の店で息子を全員戦争で亡くしたと語っています。この後酔いつぶれた沼田と周吉は志げの店になだれ込みますが、そこに服部はいません。服部は本当に眠っていたんでしょうか。ここで挙げた二つの例はいずれもこの老夫婦の冷淡さ少なくとも思慮の浅さが明示されたシーンだと言えます。
この作品の家族構成の特徴として、子どもの世代分布の広さが挙げられます。「とみ」が68歳なのを除いてそれぞれの人物の年齢は明示されていませんが、ざっくりとした推測を大まかに並べてみます。左の数字が作中での年齢の見込みです。右は昌二が亡くなった8年前です。
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73:周吉:65
68:とみ:60
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43:幸一:35
38:志げ:30
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--:晶二:25
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28:敬三:20
23:京子:15
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おそらく昌二は二十五歳の前後に戦地へ向かいました。何らかの縁で出会った若い二人が召集令を受ける前に覚悟を持って急ぎ結婚したのかもしれません。相当な純愛のような気がします。
ところで、上の表を見ると、この作品が描く家族の分断というのは親と子の間にはないように思えます。というよりそれは普通自明なはずです。この一家に特異的な分断があるはずで、それは志げと敬三の間にぽっかりと横たわる十年の月日です。
本来その穴を埋めるのは当然親であるべきです。周吉と「とみ」には紀子をその穴から引き上げて、それからその穴を埋めなおす、つまり昌二を供養する義務があるはずです。ところが二人は紀子に対して昌二のことを忘れて嫁に行くように言い放つだけで次男の不在に向き合おうとしません。これでは幸一も志げも生家に目を背けることしかできないでしょう。
苦しいのは紀子です。夫妻は昌二の思い出を紀子にしか話しません。彼女に甘え通しです。彼女は自力救済を試みます。
1.三つ頼んだ店屋物に自分は手を付けず、かわりに団扇で二人を仰ぎ、
2.自分は歳をとらないことに決めていると伝え、
3.「とみ」を昌二の布団に寝かせ、
4.六文銭を持たせ、
5.尾道は遠いと答えます。
この甲斐あってか、なくてか、物語の終盤、ついに「とみ」は亡くなります。それは紀子にとってようやく昌二が亡くなったことを意味します。そして「とみ」の持っていた、おそらく止まっていた時計は紀子の手にわたり、新たな時を刻み始めます。
ところで、これは私の妄想ですから小さい声で書きますが、ふと思ったんですが、「とみ」役の東山千栄子さんの容貌ですが、香淳皇后に似ていませんか。そんなことを思い巡らしながら笠智衆の抑揚のない言葉遣いを聞いていると、アブラゼミの鳴き声が響く真夏の日差しの下、群衆が耳をそばだてながらすすり泣く情景が脳裏に浮かびます。そう考えると、とてつもなく恐ろしい映画なのではないかと身震いしてきます。
1953年11月に公開された映画です。前年にGHQの占領が終わりますが、幸一や志げのような死にそびれた亡霊があてどない自殺願望と闘いながら日々の生活を送っていたはずです。日本社会はこの後、その亡霊たちが命を投げ捨てるように、1956年に佐久間ダム、1958年に東京タワー、1963年に黒部ダムなどの巨大慰霊碑を完成させてその禊を終え、技術の進歩と経済の発展に邁進していきます。この作品はその祝詞であり、紀子はその斎女だと私には思えます。
