「小津監督のしみじみとした諦観の傑作」東京物語 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
小津監督のしみじみとした諦観の傑作
この小津映画は、これまで観てきた日本映画の中で溝口健二の「祇園の姉妹」と並ぶ最高傑作だと思う。小津安二郎監督独自の映画様式が映像美の極致に至り、人間の内面を洞察した深い思索が人生観を伴って人間愛となり、観客の心に訴えかける迫力を持っている。溝口監督とは違う作家としての演出法は、いつの世にも変化なく充分に理解され高く評価されるであろう。このような優れた作品に出会うと、映画を愛してきた幸福感に包まれてしまう。
ストーリーは簡潔にして分かり易いが、常に登場人物の言動は矛盾に満ちている。日本人が相手を思い遣る特徴として持っている本音と建て前を使い分けた大人たちの会話劇には、このような物語を傍観することで改めて気付かされる面白さを含んでいる。作品の時代は、まだ新幹線のない戦後の高度成長期の入口に位置する。舞台は尾道と東京だが、そう簡単に行き来できる距離と時間ではない。この隔たりがある前提条件を踏まえて観ると、より物語が描きたかったものが理解できるのではないだろうか。
尾道に住む老夫婦平山周吉と妻とみが、東京に住む長男長女の家を訪問する。子供たちは表面上如何にも歓待の様子を見せてはくれるが、実際は充分な心遣いが出来ない現実にいる。大人になった長男長女は其々に家庭を持ち子供の世話で忙しくて、老夫婦の期待通りの対応は叶えられない。時間に追われる都会の生活にいる長男長女と、老後の穏やかな時間にいる老夫婦の対比。しかし、次男の戦争未亡人紀子が、会社を休んで老夫婦を東京案内に招待する。
この前半の通俗的とも見られる現実描写から、後半のドラマは作家小津の枯淡の人生観が描かれていく。帰郷の途中に妻とみが体調を崩し大阪に住む三男敬三の下宿先で休養するが、尾道に帰って間もなく脳溢血のため昏睡状態に陥る。末娘の京子が兄弟たちに電報を打つ。今度は子供たちが故郷尾道に集まる展開だが、ここで長男長女のエゴイズムが露になる。妻を亡くした周吉の男一人身の寂寥感と諦観を前にして、長女志げの打算的な価値観と長男で医師の幸一の無慈悲な態度。家族が一つに寄り添う事がない脆さ、それが現実とする小津監督の諦観が厳しさと救いの境地に至る。戦争で夫を亡くして約10年経つ紀子が、もう時々にしか夫を想い出さないと素直に告白するシーンがある。しかし、その正直さと優しさを持つ紀子の人柄を褒める周吉がいる。戦後の復興成長する日本社会の中で、家族がどのように変化しているか、変化せざるを得ないかが見事に描かれている。
ひとりの人間が生きること、そして人生を終えることは、とても神聖なものであるが、人其々に生活がある限り、それを論じる時間はない。その心の余裕を持つことがその人の人生を豊かにするのではないかと作者小津監督の提言と捉えられる映画だった。役者では、淑やかで慎み深い日本的な女性美を体現した原節子の存在感と、現実的な価値観に生きる役柄を完璧な演技力で応えた杉村春子が、特に優れていた。エゴイズムとヒューマニズムの完璧な傑作。
1978年 6月14日 フィルムセンター
公開当時の日本での評価は大絶賛ではなかった。最も厳格な批評家飯島正氏の選定では、「あにいもうと」「雨月物語」「日本の悲劇」に次ぐ順位である。ただし、普遍的なテーマが持つ分かり易さと小津演出の様式美の両面から、国内外で作品に相応しい評価を受ける様になる。特にイギリス映画界の反応が顕著なのが挙げられる。兎も角、この時代の小津安二郎、溝口健二、黒澤明の諸作品は素晴らしい映画ばかりで、未だに忘れられることはない。時代と作家に恵まれた映画界と言えるだろう。
個人的な話をすると、カメラと8ミリ撮影が趣味だった父は、小津映画の演出に深く感銘を受けていた。「晩春」の感動を聴かされたこともある。子供時代は、父が制作した旅行記録や冠婚葬祭記録の上映会を家族や近所の人たちとよく楽しんだものだ。私が主人公の作品もあった。対して私は、小津監督に感銘をうけると同時に溝口監督の演出が好みでは上回る。これは例えて僭越ではあるが、淀川長治さんと共通する。結局、日本映画に於ける小津監督と溝口監督が別格の位置にいることには違いないのだが。親子でも好みが違うのだから、好き嫌いを言い出したらキリがない。その好みを排して、この映画に深く心打たれた若い時の記憶は私にとってとても貴重な経験であった。