東京物語のレビュー・感想・評価
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父母への孝行を思い起こさせられます
小津安二郎監督の不朽の名作。
小津ワールドがにじみ出ているカメラアングル。
ひとつひとつの場面が計算されぬいた配置や情景。
ストーリーも全編が物悲しく
子どもを育て上げた父母に悲しい思いを感じさせる
そんな気持ちが悲しかった。
父母への孝行をしないといけなかったなあと
物思いにふけりました。
いまさら
人は時間とともに変わっていく・・・親子、夫婦、縁があった他人・・・...
笠智衆氏も当時49歳でしたが70歳近い初老を見事に違和感なく演じきり、老け役の真骨頂を発揮していましたね。
早稲田松竹さんにて『小津安二郎監督特集 紀子三部作 ~NORIKO TORILOGY~』(25年1月4日~10日)と題した特集上映開催中。
本日は『晩春』(1949)、『麥秋』(1951)、『東京物語』(1953)のそれぞれ4Kデジタル修復版を英語字幕付きで鑑賞。
英語字幕付きのためか外国の方や若い方の来館者も多く、70年以上前の作品にも関わらず150席の館内はほぼ満席でしたね。
『東京物語』(1953)
『晩春』(1949)『麦秋』(1951)に続く紀子三部作の最終作、国内外で高く評価されている監督の代表作。
本作品での笠智衆氏と原節子氏の役柄は戦死した次男の父親とその次男の未亡人という設定。笠氏より6歳年下の山村聰氏が長男・幸一、2歳年下の杉村春子氏が長女・志げを演じておりますが、笠氏も当時49歳でしたが70歳近い初老を見事に違和感なく演じきり、老け役の真骨頂を発揮していましたね。
本作はレオ・マッケリー監督『明日は来らず』(1937)というアメリカ映画を下敷きにしているようで当初から西欧での評判も意識した模様。確かに劇中の少々強めの子どもたちの自立や独立、親離れといった側面は西欧色が濃いですが、それぞれ家族ができ、月日を経て徐々に薄れていく親子の絆や人生の悲哀は万国共通なのでしょうね。
個人的には本作をオマージュしたジュゼッペ・トルナトーレ監督、マルチェロ・マストロヤンニ主演、音楽エンニオ・モリコーネの『みんな元気』(1990)も大傑作で大好きなのですが権利の都合上、日本国内ではDVD未発売、配信もされていないのが非常に残念ですね。
※2009年にロバート・デ・ニーロ主演でリメイク
心を豊かにするもの
70年前の作品で、町の様子は今と全然違うけど、人は変わらないと思った。
老いた両親が子どもに会いに来たけど、子どもたちは親身な対応をしない。
その一方で嫁は、義父母を観光に連れて行ったり、泊めてお小遣いを渡したり、義母を亡くした家族の喪失に寄り添う。
人間は自己中心的で、子どもたちのような対応は正直だと思うけど、他人のようなつまらない関係だと思う。
嫁のような行動の方が、人を温かい気持ちにして、人生を彩り豊かにするものだと思う。
嫁と義父母の心の通い合いに、観客の心が温まったように。
自己中心的であることが悪だというわけではないけど、他人への思いやりを持つ方が、人生はより豊かになると思った。
地味だが沁みる一品
代表作とはいえ、これ一作で小津安二郎を語るのはおこがましいというものですが、作風はなんとなくわかりますね。「PERFECT DAYS」のヴィム・ヴェンダースがインタビューで小津監督のことを話していたのも納得できる気がしました。淡々と日常を描く感じがよく似ています。
(あの映画の銭湯のロビーでうたた寝しているおじさんを主人公がうちわで扇いでやっているシーンなんかはこの作品を意識しているかもしれない)
とにかく昔の日本らしく謙譲と遠慮の精神が見られるシーンが多いのですが、子供は別ですね。まあ、長女の人はひとしきり泣いたあとは形見分けに着物をねだったり、かなり遠慮のないところが目立っていましたが。血のつながった子より、息子の嫁のほうが気を使ってくれることは実際にありうることかもしれません。
おじいさん夫婦が誰にでも愛想よく控えめに応対しているのは、子どもたちにとっては自分たちの相手をすることが仕事の妨げになることをわかっているからでしょう。もちろん、子どもたちの方もすまないという気持ちはありつつも、生きていくためには仕事を疎かにできないという現役の人間としてのやるせなさがあるのだと思います。
セリフや演技の古臭さはともかく、各登場人物の所作とか仕草は自然でとてもいい。食事している場面も結構出てきますが、ぎこちないところがまるでなくてドキュメンタリー映像のようです。あと、昔の日本らしい品の良さみたいなのはありますね。畳に座ってお辞儀するところなどは、今の我々にはなかなか自然にはできない気がします。
また、あまり昔の日本映画を見ない自分からすると、これが笠智衆か、これが原節子か、と興味深かったです。笠智衆はこの時40代だったとか。見事な老人ぶりです。原節子は伝説の女優だけあって華やかな美貌ですね。張り付いたような笑顔がちょっと気になりましたが、役柄もあるのでそれをどう判断するかは難しいところかも。
世の中ってイヤね…。
そうね、イヤなことばかりね…。
目の前で繰り広げられる映像、音楽はとてもほのぼのとして優しげな雰囲気に包まれているのですが、込められたメッセージたるや…!身につまされる思いでした。家族とは?親子とは?グサリグサリと胸を突き刺してくる、笠智衆と原節子の笑顔。く…苦しい…(泣)勘弁してくだせぇ…(泣)
戦後間もない頃の親子や家族間の関係性の変化を嘆くようなお話。この映画から更に70年経った今、日本はどうなったか。時代と共に倫理観や価値観は移り変わっていく。そこには善悪は無く、ただただ「やるせねぇなぁ」という無力感が漂うのみである。
観客に語りかけてくるような独特なカメラワークが面白かったです。そのせいで「え?私に言ってる?うへぇ」って具合に罪悪感を植えつけられます。お父さん、お母さん、ごめんなさい…m(_ _;)m
ストーリーは非常にシンプルですが、現代人にも訴えかけてくるメッセージ。優しい気持ちと思いやりを忘れずに生きたいものです。
人生の哀歓‼️
小津安二郎監督が「家族制度の崩壊」を描いた最高傑作⁉️私的には違うけど‼️子供たちの家を訪れた老夫婦が、次第に(誰も口にしないが)お荷物的な存在となっている自分たちに気づき、故郷へ帰る。しかし母が急死、今度は子供たちがやって来るが、忙しさを理由にすぐ東京へ帰ってしまう。最後まで残ったのは戦死した次男の嫁だった・・・‼️という、ただそれだけのシンプルな話‼️そんなシンプルな話の中に、小津監督は「一生懸命育てたのに、子供たちもあてにはならない」という現代にも通じる家族のあり方を描いていますよね‼️ハリウッド映画にありがちな押し付けがましい感動ドラマとは違って、この作品には嘘臭いセンチメンタリズムは一切ナシ‼️小津監督得意の固定カメラで描かれる物語は残酷で無情なんですけど、どこかスタイリッシュでまったく古さを感じない‼️ホントに究極の家族映画ですよね‼️特にラストの尾道での笠智衆さんと原節子さんの会話のシーンは忘れられない名場面‼️出演者ではやはり長女に扮した杉村春子さんがピカイチ‼️その杉村春子さんの何気ないセリフ「お義姉さん、喪服どうする?」と電話をかける場面は、いつ観ても背筋に冷たいモノが走ってしまいます‼️
自分が東京にいる子供の立場なのでよく分かる
尾道から東京にやってきた両親。
すでに東京で自分たちの暮らしや家族がいる中で、両親の存在は、他人のそれに近いのかもしれない。
1953年という、戦後もそれほど経っていない時代。高度経済成長はまだない中でも、核家族化が進み、両親と暮らさない人たちが多くなる中で、両親の存在は単に手間がかかる存在として、現実問題としてあったのだろうか。現代の人にも通じる家族観でもあり、見につまされる気持ちにもなる。
しかし一方で、赤の他人にも近い存在(劇中では、戦死した次男の嫁、紀子)が、むしろ尾道からやってきた両親に親身になるということ。
それは人柄もあるのかもしれないが、独り身という家族の体裁がない人間であるから、両親がやってきた時に純粋な喜びがあっただけなのかもしれない。
いずれにしろ、血を分けたかどうかよりも、自分たちに親身になってくれる存在が、現代においてはより大事になる、そういうニュアンスがラストには感じられた。
実のところ、東京にいる兄弟たちと自分は同じ境遇ではあり、確かに共感するような部分もある。
母危篤の際に喪服を持ってくるとか、伊豆旅館に追い出すとか、そういうことは流石に極端なやり方ではあるが、
やはり子供の時とは違って、両親だけではなく家族ができるとそちらが大事になってくるのは、現代人でもよくわかる話ではないだろうか。
この映画に悪人はいない。ただ、大事にするものは年齢とともに変わるだけなのだ。
しみじみ
長男長女をかなりデフォルメして描いていると思うが、
長女の「喪服持って行くか、、、必要なければそれで良いのだし、、、」的な言葉もあり、ホッとした。
酔い潰れて自分の知らない人を連れて帰宅の、お父さんをちゃんと世話した事も。
紀子さんだけが愛する人を失った悲しみを、知ってる人だったのかな。
初めて見る原節子さんの美しさに、ハッとした。笠智衆さんの演技には余韻が残る。
東山千栄子さんも。あんなお母さんでありたいな。
それらを際立たせる、杉村春子さんとも思えました。
そして、アキ・カウリスマキ監督!と思う、重機が映る場面。旅館のアコーディオン隊も。
麻雀とか騒々しさが、まさか描かれるとは、やや驚いた。東京の混雑する駅の様子も、、、ここには息苦しさも感じた。
団扇、重要。不朽の名作に、異論なし。
親孝行
70年前の作品。
今よりもっとちゃんと親孝行するのだと思っていた。
滅多に上京しない両親が出て来るというのに、
実子の長男長女は、
初めだけであとはほったらかし。
旅行をプレゼントするが、
その旅館、他の客の宴会で遅くまでドンチャン騒ぎ、それが部屋までよく聞こえて来て寝られやしない。
体のいい厄介払い。
戦死した次男嫁が、仕事を休み自身のアパートに泊めてくれる。
故郷に帰る途中体調を崩した母。
危篤の知らせがあり、長男長女次男嫁駆けつけるが、
ちゃっかり喪服持参の実子たち。
次男嫁は、そんなこと毛頭思いつかなかった、と。
葬儀が終わりさっさと帰る実子たち。
一人義父の元にとどまる次男嫁。
義父は何を思っただろうか。
動く浮世絵を観ているよう。
アキカウリスマキの枯れ葉、ヴィムのパーフェクトデイズと続いたので、久々に原点回帰。
たらい回しされる両親。そして、山村聰の意志のなさと、杉村春子の薄情さ、大坂志郎のあっけらかんとした様子。他人の家族とはいえ、観ていてやはり気持ちの良いものではないが、原節子の内助の功的な控えめな役回りが和む。
場面転換でインサートされる戸外と家財道具が映り込む画角の景色が、良い味出してる。
備忘録
今となっては時代考証的作品として機能する。
何とも心地良い時間
喪服どうなさる?
親子の普遍的な型
尾道から急遽、東京に汽車で上京してきた老夫婦。主体性がなく、可もなく不可もなくの町医者の長男。その嫁は手堅い感じ。美容室を経営する長女は、気持ちがすぐに表情に出てしまい、何でもあけすけに言うタイプ。その旦那は、思いやりがあるタイプ。次男は戦没して8年が経ち、その妻は独身を守り安アパートで一人暮らし。次女は、独身の教師で理想を語るが世間知らず。三男は、あまり頼りにならない甘えん坊っぽい。
老夫婦が東京に出てきたはいいが、長男は急な回診が入る、長女は仕事が忙しいで、老夫婦を案内する暇がない。(美容室は、従業員が一人いるが、任せられる程ではない)結局、亡くなった次男の嫁が、東京を案内するバスで同行してあげ、その晩も、義母を泊めてあげる。
どの家庭も特に核家族の場合は、家事、仕事、子どもの世話で、急な対応はなかなか難しい。東京に出てきて、都会の生活に順応していれば猶更。そんな中で、次男の嫁(原節子)だけが、老夫婦に親切にしてあげる。面倒を見てもらった義母は、涙を流して感謝する。
東京行きでの長旅、心境の変化が影響したのか、老母が体調を崩して危篤となり、子どもたちに看取られて、明け方に亡くなる。会食のシーンで、長女がいつになく家族の思い出話をしんみりとして、一瞬、家族の絆、まとまりが蘇ったかのようだった。しかし、それぞれが自分の生活を思い出した瞬間から、長男や長女は、自分の利を最優先するような人間に戻っていく。次女は、「兄も姉も自分勝手よ」と。次男の嫁「お仕事があるから。家庭を持つと、親からだんだん離れていくんじゃないかしら。自分たちだけの生活があるのよ。」次男の嫁は、愛情を注ぐ家族がないから、その分を義理の父母に注いでいるっていうことなのだろう。
家族の栄枯盛衰を、老夫婦、それぞれの子どもたちの事情や生活という形で表現しているかのよう。元型のようなものが表現されていると言ったらよいか。特に都市化、核家族化する場合は、これが普遍的なテーマですよって。
それぞれの画面は、障子や窓枠などで縦線が多く配置され、遠近感と視点の集中の効果を出している。また、陰影のバランス、人物の配置が計算され尽くされていて、日本的な様式美、能や歌舞伎に通じる芸術性が秘められているように感じた。普遍的な様式美と親子の形をリンクさせたかっただろうか。
更には、日本的な感情表出の元型とでも言ったらよいか、序破急という感じで、最後に感情的な爆発が表出される。一つ目は、東京への旅行。どこに行っても邪魔な感じ→長男長女の家を出ていく→老父の酒酔いと老母の涙。二つ目は、尾道の場面。皆が集まる→老母が亡くなる→残された老父と未来が不安な次男の嫁の感情の表出。「型や義理を守る生活→出来事が起こる→自分の感情が表出」と言ったらよいか。
これはおそらく通向けの映画なのだろうと思う。自分も知的には理解できるが、ベスト1にはならない。感情が大きく揺さぶられるという程ではないが、上記のような目で見れば、芸術性が高いのかなって。
原節子さんの優しさに感動❗
エゴイズムとヒューマニズム
時の流れ。大河のごとく。
「家族を描いた映画」と聞いていた。ほのぼの系の家族称賛の映画かと思っていた。
いや、シビア、シビア。
昨今のいろいろな家族を見ていると、これが「家族崩壊」と言われると「甘い」と思ってしまうが、確かに”大家族”が崩壊し、核家族に移行していく時代を切り取っている。
人によっては家族とは何なのだろう、自己実現との兼ね合いを考えさせられる。
郷愁を誘う。
この映画では、両親が子どもたちの住む東京を訪ねる顛末から始まるが、私は小学生から中学生にかけて、父の田舎に帰省した日々を思い出してしまった。
小学生から中学生になると、周りの大人が忙しそうにしていることにも気づき、いとこ達も部活や自分の友達と遊ぶことが優先になって、一人ぽつねんと居場所を見つけられなかったあの時間。田舎の親戚も、せっかく帰省した私たちを気遣って、近くの行楽地等に連れて行ってくれるものの、お盆休みのない職業に従事していた人々も多く、日常の近所付き合いもあり、帰省期間、毎日がお祭りだったわけでもない。勝手知ったる土地でもなし、親戚の家からそう離れることもできず、この映画の老夫婦みたいに、家の中に居場所を見つけられず、わずかにわかる場所をふらふらと。”嫁”の立場の母は、この映画の長男の嫁のように、親戚の手前、「いい子にしていないさい」とヒステリックになり、次男の嫁のごとく、田舎の舅・姑に尽くす。父といえば、久しぶりの実家なので、トドのように動かず。母をかばいもせず。親戚同士の歯に衣着せぬ物言いを聞き。
そんな居心地の悪さを思い出した。
そして、今。
どの方も指摘なさっているが、鑑賞する年代によって、老両親に感情移入したり、子ども世代に感情移入したり。
親が来てそれなりのことをしてあげたい気持ちはあるものの、日常との兼ね合いが優先されてしまう子どもたち。
特に長男は町医者で、今のような診療時間などなく、患者がいれば、往診に行く。その犠牲になっているのは、老両親だけでなく、長男の子どもたち(孫)。夜間・休日診療とか、救急車も今のようには整っておらず、町医者が頼り。
長男の嫁は、舅・姑のために尽くしたい気持ちはあるが、夫に止められる。アテンドしようかと提案した時に、「いいよ。お前が(家に)いなけりゃ困るだろ」との言葉。夫の意思を無視して動かない当時の理想の嫁。夫に頼りにされているととるか、舅・姑や子どもたちの喜ぶ顔が見たいのにわかってくれないととるか。複雑だが、最後の老夫婦の言葉を聞くと、長男の嫁って損だなあと思ってしまう。
長女も美容室の経営者。店だけでなく、寄り合いに忙しい。商店街の寄り合いか、技術向上の同業者同士の寄り合いか。どちらにしても、その土地で生きていくためには邪険にできないつきあい。
長女の婿は、寄席のようなところに連れていく、銭湯に付き合う等、おもてなしをしているが、妻である長女と喧嘩してまで、舅・姑のためには動かない。老両親には悪いが、妻を立てるあたり、家庭円満の秘訣である。
電話でもあれば、お互いの都合をつけて上京できたのであろうが、尾道と東京のやり取りは電報のみ。突然上京されて困った面々の動きが丁寧に率直に描かれる。田舎のように、部屋が有り余っているわけではないのも混乱に拍車をかける。
会社勤めの次男の嫁が、自分に任された仕事の都合をつけて(この頃有休ってあったのか?)、老夫婦の相手をする。上司に、仕事の進捗状況を確認されるあたりがリアル。まだ、結婚とは”家”に嫁ぐという意識が濃厚な時代。そういう親戚づきあいをきちんとできるのが女性の嗜みとされた時代。事業主とサラリーマンと言う働き方の違いもはっきりくっきり。
大阪にいる三男は、列車の中で具合の悪くなった母と、付き添っている父のために、仕事中抜け出して手当できるが、出張で大切な電報を受け取れず、後手後手になってしまう。
老両親と同居している次女は、勤務中に、両親の様子を見に来れているおおらかな時代。今なら、介護申請とか、有休を使ってと手続きを踏まなければ大問題となるだろう。時間の流れが、この時代でも東京と尾道では違う。
そんな登場人物のやり取りが、必要最低限に切り取られて、映画が進んでいく。
人物造形はある一種の典型。
おっとりとした長男。独楽鼠のように動く長女。理想的な嫁として描かれる次男の嫁。長男の嫁がしっかりして隙がないのとの対比も際立つ。一人大阪にいる糸の切れたような三男。まだ世間を知らぬ甘さを持つ末っ子次女。
それぞれ子どもたちの配偶者との出会い等は想像がつかぬが、尾道で家族7人で暮らしていたころがしのばれる。教育関係の役職等にもついていたが、若いころにはお酒の失敗もあった父のフォローや、幼い弟妹の世話を、母を助けて長女がしていたのであろう。そのそばで、一家の跡取りである長男は勉強に励んでいたのか。農業・漁業等、家を”継ぐ”職業ではなかったから、東京に出て大学で勉強してそのまま医院を開いたのか。医者として従軍して、そのまま東京にいついたのか。
まだ、兄弟の序列がはっきりしている。一番しっかりしてそうな長女は、常に長男に相談し、了承を得る。次女は兄姉に文句があっても面と向かっては文句を言えない。両親を見ているのだから一番強くたっていいのに。
反対に、次男の嫁の背景は見えない。尾道には行ったことがない様子なので、次男とは東京で知り合ったのか。東京空襲で親族が亡くなって天涯孤独?親戚や近所の人の口利きで縁談が来るケースが多かったと聞く時代に、そういう世話を焼いてくれる人は身近にいない?一人で暮らしていくより二人の方が経済的だからという理由で結婚する人が多かった頃と聞くが、一人で自活できるキャリアウーマン。そんな風に考えると、紀子のこの先の不安と期待や、舅・姑への思いも身に迫ってくる。
映画は、ひと夏の思い出として尾道の情景を描いて幕を閉じるのかと思えば、急展開。前振りはあったが。
この時のやり取りも、あるあるが満載。移動時間だけでなく、帰省にかかる費用も、自営業者の長男・長女は頭の中で算盤をはじいているに違いない。(21時発の列車で翌日の昼過ぎに着くって、今ならエジプトやブラジルの距離感?)とはいえ、親の一大事。結局、親をとる。たかが、されど”喪服”。世間の手前、役職者だった父の顔をつぶすような真似もできない。喪主としてみっともないものは着られない。ファストファッションの店なんて論外だし、そもそも店がない。レンタル業者もおらず、借りるとなったら、近所の方のをしかない。画上の都合か、長男の嫁・孫、長女の婿は来ず。
不思議なのは、東京訪問時の次男の嫁の有様からすれば、「危篤」の電話を受けた後、すぐに帰省するための行動に移すのかと思えば、紀子はいったん机に戻って、思案する。何を思案していたのだろうか。母の東京ラストでのやりとりや、映画最後の方の父とのやり取りが頭をかすめてしまう。
昨日と明日が同じで、今の生活を続けることに余念のない長男・長女・三男・次女。
同じく独り身となった次男の嫁と、父。同じ境遇ながら、二人の思いは分かれる。若い次男の嫁は未来を見つめだし、それゆえの不安・捨てがたい情・自分に張られた過度な評価の中で葛藤する。父は過去の中に置き去りにされる。映画ラストの言葉が身に染みる。
そんな人生の一コマを淡々と描いた映画。”死”さえも、特別なことではなく、日常の通過儀礼のごとく。けっしてドラマチックに描かない。
なのに、この家族のこれまでと、これからが大河ドラマのように浮かび出てくる。”ある”家族の”ある”が”The”でもあり、”a”でもあり。
戦争未亡人に、過去にとらわれるんじゃなく、新しい人生をつかむように背中を押す言葉。それだけでも、心をわしづかみにされる。日本だけでなく、各国にいる未亡人や未亡人にかかわる人はどんな思いで、このやり取りを聞いたのだろう。
その言葉だけでなく、親の有様。東野氏演じる沼田とのやり取りで、親にも親のうっぷんはあれど、それは直接子どもたちには伝えない。熱海の出来事でさえ「よかった」のみ。子どもたちが子どもたちなりに考えて、親である老両親のためにしてくれたことへの感謝ゆえ。
文句はあれど、子どもたちのすべてを包み込むような両親の存在が、ファンタジーで癒される。
一つ一つのシーンを見ていると、かなりシビアなのだが。
特筆すべきは、こんなスローテンポで物語が進むと、途中で眠くなってしまうのだが、この映画ではそうならない。
緩やかに始まるが、どんどん出てくる毒。次に長女が何をしてくれるのか待ってしまう自分がいる。血がつながり、家を出るまでは良いことも悪いことも共にしていた気の置けなさ。そんなきつさだけだと飽きてしまうが、嫁の立場を守り、清涼剤のような次男の嫁。両親のおおようさ。暖簾に腕押しの長男と長女の婿。舞台は下町。どことなく気ぜわしさも漂う。凝縮された、光と影、長男家の炊事場がその雰囲気を表す。
熱海の昼と夜の落差。今ならある程度遮音の個室だが、当時は襖一枚。外には流しの音楽隊。夫唱婦随を地で行く夫婦。だからこそ、その動きがシンクロして、コントのような笑いを誘う。
原さんのたおやかさ・控えめな上品さがよく取りざたされるが、いろいろなタイプの女性も出てくる。おっとりとした母。眉間に皺寄せた長男の嫁。世話焼きの長女。世間知らずな次女。酔客のあしらいのうまい女将。腕まくりして、頭にカーラーをつけ、女性も麻雀に参戦。他にもいろいろ。
映像の美しさも際立つ。よくローアングルとか解説にある。正直よくわからないが、ある場面ー例えば長男の家の炊事場。人を追いかけるのではなく、その画面に次から次に人が入り、出てとまるで舞台を見ているよう。かえってダイナミックに感じ、次何が起こるのか、わくわくさせられる。
解説にも、計算しつくされた映像とよく読むが確かに。
なのに、”淡々と”映画は進む。
主役は、笠さんと原さんと紹介される。
確かに、前述のように、未来を見つめる紀子と枯れていくだけの周吉の対比とすれば、老親と嫁の心の交流だけに焦点を当てれば、この二人が主役なのだろうけれど。
この映画の世界観を作っているのは、周吉ととみ。登場人物総てを包み込む、この二人の雰囲気がなかったら、観賞後感が全く異なってくる。おっとりとした夫唱婦随がなかったら、最後の言葉は響いてこない。
シビアすぎるほどにリアルに描きながら、どこか生だけでなく死でさえも、どんな思いも包み込んでしまう映画。
魔法にかけられたようだ。
鑑賞すればするほど、いろいろな思いが頭と心を駆け巡る。
なんて、映画だ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
風俗にも目を見張る。
赤ちゃんが食卓カバーのような蚊帳の中で寝ている。動いている。
紀子の家の共同炊事場。
浴衣の寝巻のままで、ドアを開けてしまうんだ…。
他にも、音声解説を聞くと、今はすたれてしまったが、昔はどの家でも持っていた、玄関に提灯とか、こだわった意匠があるという。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
DVDには音声解説がついていたが、本編と解説の声がごっちゃになって聞き取りづらかった。笠さんも出席されていたが、ほとんど発言なく…。損した気分…。
だから-0.5しているわけではないが。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
≪2024年11月15日追記≫
『麦秋』鑑賞。 『東京物語』『晩春』と合わせて『紀子三部作』と言われる映画。
ほとんど、演じる役者が同じなのに、まったく異なるテイスト。
同じように、家族のドタバタが描かれるのだが、違う人物造形。例えば、『東京物語』では長男の嫁と次男の嫁として、比較対象されてしまう三宅さんと原さんだが、『麦秋』では、長男の嫁と、小姑という関係なのだが、姉妹のように仲が良く、一緒に高価なケーキを隠し食いしたりする。『東京物語』での三宅さんは眉間に皺寄せ硬いが、『麦秋』では人妻の美しさが際立つ。
他にもと上げていくとキリがない。
改めて小津監督のすごさを感じた。
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