「人間の根幹を見通す普遍的コメディ」丹下左膳余話 百万両の壺 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
人間の根幹を見通す普遍的コメディ
もう本当にびっくりするくらい面白い。笑いの水準というのは100年近く経過してもなおその本質は不変なのだということを思い知らされた。
たとえば孤児のちょび安が左膳の人情で居候先の矢場に転がり込んできたとき、女将のお藤は「こんな汚らしいガキ捨てちまいな」と悪態をつく。しかしシーンが切り替わると、ちょび安は矢場の新たな一員に加えられている。またある日のこと、ちょび安はお藤に玩具をねだる。お藤は「そんなもの買わないよ」と素気なくあしらうのだが、次のシーンではちょび安が買ってもらった玩具で楽しそうに遊んでいる。今であれば「即落ち2コマ」とでも形容できそうなユーモアが1920年代にして既に完成していることに驚かされる。
他にも「壺探しの旅」と称してお忍びで矢場に通い詰めている剣術道場の主人が、自分の妻に幾度となく「10年かかるか、20年かかるか…」と仰々しく言い訳をするのも面白い。また左膳と主人の八百長剣術試合も滑稽だ。これもまた50余年の時を経て『ドラゴンボール』のミスター・サタンvs18号の八百長試合に換骨奪胎されている。ざっと思い出すだけで無数のリファレンスが想起されるというのは、山中貞雄に人間の感情の傾向と機微を見通す眼力が備わっていたからに他ならない。
輪をかけてすごいのは、そういった単発コントのようなユーモアがきちんと一本の物語の中に纏め上げられている点だ。一事が万事おちゃらけているようで、物語のベースである百万両の壺をめぐる争奪戦には豊かな起承転結がある。
1920年代までの映画といえばそれまでの伝統芸能の模倣や「写真が活動している」という不可思議を見世物的に喧伝するものが多かったが、そうした時代性の中で本作のように豊かな物語を湛えたコメディが撮られたというのはひとえに驚嘆すべきことだ。言うなれば江戸の市街をスーパーカーが駆け抜けたようなもの。
山中貞雄は不遇の映画人であり、『人情紙風船』を遺作に弱冠28歳で戦死してしまった。ともすれば小津、黒澤に並び立つ世界的映画監督になれたであろう傑物を戦争などで失ってしまったというのは日本映画にとってただならぬ損失だ。ただ、そういう逼迫した時代性が彼の作風を練磨した側面も確かにあるとは思う。そのジレンマがひたすら悔しい。