太陽を盗んだ男のレビュー・感想・評価
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ストーンズは来ない
原爆の製造過程を長々と描写する演出に説得力があるのか、国会議事堂や皇居前でのゲリラ的撮影は今や不可能に近い当時でもキワどい行為、何よりもリアルな演技を見せ付ける野良猫の死に際が残酷過ぎる。
軽い要望で振り回す至って動機が不透明な沢田研二は最後まで緩めの緊張感で、鬼のような執念で追い詰める菅原文太との格闘後の落下、奇跡的に生かされる主人公、死んだとは思えない、ニューヨークで原爆を持ってしまったトラヴィス・ビックルが如き、シュレイダー兄弟の脚本的発想でレナード兄??
現実的なリアルがある反面のピコピコ音やら微妙に醸すSF感が浮世離れした世界観を、スケールがデカい割に派手な銃撃戦やアクションシーンなどは控え目に、街のド真ん中で繰り広げられる撮影の凄みが伝わる長谷川和彦の強引さが破壊的!??
強烈な、伝説的カルトムービー
DVDで2回目の鑑賞。
なんと表現すれば良いのでしょう。この映画にはとてつもないパワーがある。人を惹きつけて止まない魅力がある。だからこそ公開後50年近い月日が経っても愛され続けている。
特にテーマやメッセージは無いように思いましたが、何かを訴え掛けるような凄みを感じました。強いて言うならば、安保闘争敗北後に訪れた虚無へのささやかな復讐でしょうか?
面白いエンターテインメントをつくってやろうと云う熱気が伝わって来ました。それは画のダイナミックさに表れていて、どのシーンも邦画のイメージを凌駕するスケールでした。
ストーリーからしてセンセーショナル。原発からプルトニウムを強奪して原爆をつくり政府を脅迫するも、要求内容が思い浮かばず、ナイター中継を最後まで放送しろだとか、挙げ句の果てにはラジオ番組でやりたいことを募集する大胆さ。
1970年代の社会に漂う空気感なのか、どことなくしらけているが故に、空前の犯罪者にも関わらず憎みきれない城戸誠の行動に、山下警部と同じく振り回されてしまいました。
当時だからこそつくり得た作品、と云うものがあると思います。本作もそのひとつだな、と…。「仁義なき戦い」シリーズと同じ匂いがします。本作のために行われた撮影は今じゃコンプライアンス的にアウトなものばかり。令和では撮れない。
伝説的な本作ですが、万人に知られているわけではなく、一部に熱狂的なファンを持つカルトムービーと云う位置づけ。公開時の興行成績は芳しいものではなかったとのこと。
コケた要因はよく分かりませんが、ただひとつ言えるのは、本作はこのままカルトムービーとして伝説的となることで、永遠に輝き続けるのではないか、と云うことだけです。
[余談]
あれ。この劇伴どこかで聴いたことあるな。なんて映画だったっけかな、それともドラマだっけか。一生懸命考えましたが思い出せず、ウィキペディアで調べたら一発でした。
なるほど、エヴァか…
※修正(2024/05/15)
確かにこれは良い映画
例えばキムタクでは無理だろう
狂気
名タイトル
変わる味わい3度目鑑賞
「太陽を盗んだ男」。シーン展開や表現演出は今も飽きずに観ることができる。セリフに多少時代を感じさせる部分はあっても映像として古びていない。ということは逆に言えば、公開当時はいろいろ先取りしていたのではないかと思う。沢田研二(ジュリー)と菅原文太のWスターに池上季実子出演なのに一般的にはウケておらず、カルト映画扱いで興行収入は伸び悩んでいる。当時は時代の気分が映画の先進性に追い付いていなかったのかもしれない。それが20年後30年後と時間をかけて、映画評論家が選ぶオールタイムベストの順位を次第にランクアップさせてゆき、ついに(2018年のキネ旬で)70年代邦画のベスト1に登りつめた映画なのだ。続きはnoteにて。https://note.com/daika/n/n69065da3b7d7?magazine_key=m8000cfeda611
本作の語られない本当のテーマ
沢田研二は素晴らしい役者だ
松田優作にも負けない存在感を示している
画面に写っているだけでシーンが成立する
彼が本作に出演していることだけで本作の価値は十二分にある
日本映画にないスケール感がある
主人公の車を無数のパトカーが追う迫力あるシーンはブルースブラザーズより1年も早い
空撮の使用、首都高でのカーチェイス、渋谷東急百貨店本店のシーンも呆れる程に見事だ
皇居前広場でのロケはあり得ないものだ
東海村原子力施設の内部セットも日本映画の貧乏臭さはない
カメラの構図作りも素晴らしく美しいシーンが多い
明らかに国際的な水準を目指した娯楽アクション映画だ
ただ脚本は残念ながらそこまで行っていない
黒澤明監督作品の野良犬や天国と地獄と比較すれば雲泥の差だ
気の毒なくらいに大人と子供ぐらいの差がある
世代の力量の差は圧倒的だ
そこにはテーマ性はメッセージは見えないのだ
見えるのは熱い映画を作りたい迸るほどの情熱だけだ
だから観ての印象は確かに面白い
これ程のものを撮ったのか!という衝撃もある
しかし残念ながらカルト映画として残るしか道のない映画としか言い様がない
脚本に単にお話の展開だけを追求しない伝えるべきテーマとメッセージを持たせることができたなら、それこそ世界的な傑作になったはずと思える
お話の展開自体も撮りたい画がありそれに結びつける誘惑に負けているのだ
あまりにも強引で稚拙で国際的に一流を目指すのだという目線はない
そこが実に残念でならない
21世紀に生きる我々の目で本作を見返した時、
フクシマを経験した前と後では決定的に見え方が
全く異なって来るだろう
我々は放射線の脅威とプルトニウムの恐ろしさが、本作での放射線被曝の描写がいかに甘過ぎるのかを知っているのだ
吐き気がでる程に嘘だ
もちろん当時の知識レベルのことだろうが、それでも真剣にリサーチすれば嘘なことは当時でも分かっていたはずだ
嘘と分かっていながら物語を優先したのだとわかるのだ
フクシマ後の現代の後知恵でいえばまだある
被曝のことを目をつぶっても、あっという間に残留放射線の数値の追跡だけで足がつくのは明白なのだ
本作はシラケ世代のメッセージという声も聞く
しかし本当にそうか?
製作に関わった人々は皆団塊の世代だ
沢田研二も菅原文太もそうだ
シラケ世代と言えるのは池上季実子だけだ
彼女は実に美しく輝く様に撮れている
しかし彼女の行動も言動も団塊世代のものだ
むしろ本作は団塊世代の喪失のメッセージに見える
70年安保闘争に破れ無目的に虚無的に生きている
主人公の城戸の動機はそこにある様に思えるのだ
だから冒頭に皇居突入バスジャック事件があるのだ
本作の語られない本当のテーマは団塊=全共闘世代の核による天皇制や日本国家への報復にあると思えば全てストンと得心できるのだ
それを彼ら製作陣は無意識あるいは意識して求めていたのだ
そこをストレートに裏テーマとして脚本を構成し直していれば、名作になり得たかも知れない
しかしそれでは製作はできなかったことも確かだが……
ともあれ娯楽映画として大いに楽しめる
役者としての沢田研二を観る価値は高い
公開当時なら。。。
これは絶対映画館で観る、と固く心に誓った映画である。初公開時はまだ中学生で、いろいろな映画を観るという感じではなかった。何年か前に映画館で観るチャンスがあったのに見逃してしまった。
そして今日、やっと映画館で観ることができた。
1979年の作品。
できれば、もっと若いときに見ておけばよかった、と思わせられた。
城戸(沢田研二)の行動原理がまったくわからない。高校教師という職業は誰でもなれるものではない。教員免許がいるわけで、免許をとるということはその意志があるということで、ああいった犯罪に走るには仕事上の動機がいるのでは?
目的がないというのも当時としては受け入れられたかもしれないが、それにしてはリスクも高いし、労力もハンパではない。
長谷川和彦の演出はすごいのだが、本作の脚本はいかがなものか。
DJゼロ(池上季実子)はまったくいらないキャラクターであった。
公開当時に観ていたら違った感想になったかもしれないが、いま観ると、だいぶ残念な映画と言わざるをえない。
往年の謎作
折しも「本物」が現れたようなので、前々から見ようと思っていた本作をやっと見ました。
何をしたいのかがわからない。というのがこの作品の主題の一つなのだが、この時代は本当に「幸せ」だったんだろうなあと感じた作品だった。幸せで満ち足りている時は、不満や要求は生まれない。だからこそ前時代に取り残されている冒頭の老人の存在が映える。
で、最終的にこの映画の印象として残るのは、「世代」だろうか。
役者に注目すると、沢田研二のだるさは当時のトレンドだったのだろうし(今なら即懲戒だけど)、菅原文太は格好良かったし、にゃんこは可愛かった。池上季実子はキャンキャンやかましかったが、当時の女優の声色は大概あんな感じだから仕方ない。
何か妙に「わかんねーな」と感じるのは、昭和の世界観で倫理観ぶっ飛び系の狂人を見るのに慣れていないのかもしれない。平成の狂人は狂ってるなりに何となく本人の中での論理や理屈が語られ(幼少期のトラウマとか)たり、本当に徹頭徹尾狂ってるのでそもそも論理が必要ないことが多いように思う。それは平成映画の親切さなのかもしれないが、それに対して、昭和後期の彼は、なまじきっかけたる事件があったことが一見答えに見えるのに、妙に難解にさせている気がする。強烈に「生き延びた」経験を得てしまって、日常に戻った時、生きている実感がなくなったのかなーと思われた節(ぎりぎりスクワットなど)はあったが、何故か妙に「本当にそれだけ?」という気持ちにさせられた。おそらく、「それで何で原爆? しかもプルトニウム?」という一番大事な繋がりが読めなかったからかと思う。
冒頭の老人に戻って、彼に注目した時、そこにはちゃんと感情や理由があって、感情移入を促すような仕掛けがあった。しかし「何がしたいのかわからない」系主人公には、自分はどうも共感できなかった。本当に狂人なら共感できないのも全く気にならないのだが、本作主人公は一応世間に溶け込んだふりをしている。そこに行動の一貫性がなくて、「何がしたいんだお前」「だからわかんねって言ってんだろ」「じゃあ徹頭徹尾狂ってろよ隠蔽工作とかしてんじゃねーよ」的な理屈の通らなさが気持ち悪いのかもしれない。
尾崎豊に今の人が共感できないのと似たものを感じる。「何がしたいのかわからない」「どこかへ行ってしまいたいのに行けない」からって何で窓ガラス割る? バイク盗む? 年齢や社会の閉塞感があることには共感や同情ができても、それを理由に他人に迷惑をかけるような作品には全く共感できない世代で育った自分にとって、そんな奴は狂人で、狂人とは仲良くできない。
「世代差」というものを描くのも一つの主題だったようだが、今見てもそれを考えさせられるということは、その点非常に上手く行っているのかもしれない。
歌うだけ、スクリーンの中だけ、当時もそうだったのかもしれないが…でも、じゃなかったらあんなに尾崎ヒットしたりしないよなあ…とも思うわけで。
一番心に残ったのは、「お前が殺して良いのはただひとり、お前自身だ」という台詞。厳しすぎるけど真っ当過ぎる正論で、この台詞のおかげで何か妙に安心できた。
時代を切り取ったエネルギッシュな傑作
中学理科教師の城戸は無気力で適当な生活を送る反面、原子力発電所から盗んだプルトニウムを用いて、自宅で原子力爆弾を作るという過激な行動を取っていた。
丸の内警察捜査一課の山下警部率いる警察を相手取り、原子力の力を武器に政府を脅迫した男を描いた過激な作品。
バスジャックに政府脅迫、その上に原子力爆弾を持ち込んだ完全にアウトな内容の作品。
主人公の城戸誠にジュリーこと沢田研二、キレ者の警部役の山下に菅原文太などの昭和のスターを並べたキャストに加え、ド派手なカーアクションやヘリコプターにぶら下がりながらの射撃などツッコミどころ満載で迫力のある画も相まって大ヒット間違いなしの印象を受けたが当時の評価としてはそこまでだった様子。
公開から長い歳月をかけて再評価され神格化された様子はブレードランナー味を感じさせた。
ガムを噛みながら、抜けかけた髪を搔きむしり、虚ろな目つきで街を彷徨うジュリーとバックに響き渡る爆弾の時計の針の音がとても印象的で、ラストシーンがとてもカッコよかった。
エネルギッシュ!
シュール
太陽を盗んで…
猛毒爆弾
菅原文太さんが死去された頃に、日本映画専門チャンネルで特集で放映されたと思うが、沢田研二主演の『太陽を盗んだ男』。赤か黒かどちらかの線を切らなければ東京都心で原発が爆発する交換条件に5億円をビルの屋上からばらまけという犯人の指示を警察がしたところ、もしかしたらすぐに原爆が爆発するかも知れないにばらまけれた5億円に熱狂して拾い集めようとする群集のシーン。これは何か多くを表していたように思う。1979年にハリウッド級に荒唐無稽なアクション映画が製作されていたのだが、池上季実子はわざわざ精神を病んだ犯人に接近して怖くないところが、堂々たるフィクションである。以前海に突き落とされていたのに。それで敵か味方かわからない不可解な女をみせる。敵でもあり味方でもあったということなのか。カーチェイスの場面が哀愁ある音楽になる所なども気になる。犯人の心理を問うのも何か大きい所があるのかも知れないが、アクションとサスペンス映画としても、ハラハラする。東宝映画だが、角川映画の『野性の証明』のようなのも思い出した。だいたい、菅原文太はあんなに上空のヘリコプターから飛び降りたら現実なら即死なのだが、重傷を負いながらも迫っていった。沢田研二も原爆を作る過程で被ばくしていて、症状が出て来る。楽しく遊んでいる子どもたちのプールに犯人が放射性物質の破片というのか、それらを入れてしまい、公害で仰向けに浮いてしまった魚たちのようになるイメージが出てきて、犯人まで一緒に浮いているような場面があった。これはわかりにくい。大体、猛毒の放射性物質は茨城県の東海村から盗み出したのだった。なぜヘリコプターで追った所で逃げられて、ローリングストーンズが来日した場面に移れたのか現実ではないのだが現実的ではない。後に、菅原文太さんも沢田研二さんも反原発の姿勢を打ち出している。この映画の影響もあるのだろうか。この映画の長谷川という監督は、この作品以降映画監督をしていないという。被ばく二世だという。なにかしらそういう所に本音があるのか。菅原文太が最後にあんなに撃たれたのにどうしてまだ闘えたのかも現実では無いのだが。そして、最悪の結末を予感させて終えた。ネタバレだらけに書いてしまった。
ただ衝動だけがあった
長谷川和彦監督作。寡作な監督でこの映画以降撮っていない。狂気とコメディ、アクションが混在するいい意味で狂っている傑作。脚本はバイリンガルで日米両方で書いていたレナード・シュレーダー。音楽は井上バンドで主演は人気絶頂の沢田研二と東映の顔役菅原文太。
主人公城戸誠はバスジャック事件で山下警部の揺るぎない正義を目の当たりにし、自分というものを失ってしまった。空虚さを埋めるために誠は愛と狂気を込めて原子力爆弾の製造を進めていく。何がしたいかも分からず純粋に禁忌を犯していってしまう。作ることが目的であってその先には何もないのだ。何を考えているか分からない誠を沢田研二が熱演している。
アトムを歌いながら原爆を作り、猫の死を悲しむ。とことん純粋。狂人へと変貌していく誠は沢田研二が演じているだけあって美しいの一言。変わらない日常とのギャップが鮮烈でカメラワークも秀逸。キューブリックぽい画作りだったり、コメディありと全編飽きない。
音楽も秒針の音やガイガーカウンターの音が効果的に使われ緊張感が凄まじい。スコアもよくて当時の空気感が伝わってくる。
同士を求め続けたた哀しい男、何と戦うかも知らず何をしたいのかもわからないままだった。被爆し朽ちていく自らの身体とは対照的に衝動だけはあった。既にこの街は死んでいたのだ。何もない、ただ何もなかった。
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