地獄門のレビュー・感想・評価
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【邦画の哀愁漂う独自の美意識を世界に発信した作品。袈裟御前の悲恋を鮮やかな色彩に乗せて描いた日本映画の魅力を世界に知らしめた逸品でもある。】
■ナント、70年以上も前の作品である。それが、総天然色になると(この言葉も相当に古い。)見応える作品になり、当時の海外の方々のベールに包まれた日本の魅力を伝えた作品である。
■平清盛の留守を狙い起こされた平康の乱から上皇とその妹を逃すため、平康忠は身代わりの袈裟(京マチ子)を乗せた車を遠藤盛遠に守らせて敵を欺く。
その時袈裟の美しさに心を奪われた盛遠は、戦いの後に清盛に望みを聞かれて袈裟を乞う。
だが既に袈裟は人の妻だった。
◆感想
・「羅生門」を筆頭にした、当時の京マチ子サンの美しさは、筆舌に尽くしがたい。
ー アンナ、美しい人妻を見たら、長谷川一夫が演じた遠藤盛遠でなくとも、それは惹かれるであろう。-
・袈裟御前を演じた京マチ子サンが自ら、夫の身代わりとなって切られるシーンなどは
今では予想通りであるが、当時は斬新だったのであろうな。
<今作は、カンヌ国際映画祭グランプリを受賞した作品だそうであるが、正に当時の海外の方が抱いていた謎の東洋の国、”ジャパン”を具現化している作品である。
海外の方に取ってみれば魅力的にしか見えない平安時代の衣装も、驚きの対象であっただろう作品である。>
人妻京マチ子は衣装も含めて実に妖艶だが、主人公長谷川一夫の彼女に対する言わばストーカー的しつこさ・強引さに辟易
衣笠貞之助 監督による1953年製作(89分)の日本映画。
原題:Hell's Gate/The Gate of Gate、大映。
御所侍(山形勲)の妻、袈裟御前役の京マチ子は流石というか、様式的だが妖艶さを醸し出してとても良かった。芥川也寸志による音楽も東洋的雰囲気を演出し悪く無い。ただ、力づくで他武士の妻を自分のものにしようとする、平康の乱で平家側で戦った若き武士遠藤盛遠を演ずる長谷川一夫の大袈裟な演技に、今の観点から見ると、どうしようもない古さを感じてしまった。
また、夫の方の山形勲の誠実さと潔よさと対照的な、長谷川一夫の言わばストーカー的しつこさ・強引さに辟易としてしまった。まあ、袈裟御前がその強引さに抵抗を諦めて、夫の身代わりとなって彼に殺されるのも、説得力があったとは言えるのだが。
袈裟が身につける衣装の美しさや住んでいる家の造形、琴の使い方などはまあ良かったが、カンヌ・グランプリと言われると、脚本等それ程の映画ではないな,とは思ってしまった。
監督衣笠貞之助、技術監督碧川道夫、脚色衣笠貞之助、原作菊池寛、製作永田雅一、撮影杉山公平、美術伊藤熹朔、音楽監督芥川也寸志、録音海原幸夫、照明加藤庄之丞、色彩指導和田三造。
出演
長谷川一夫盛遠、京マチ子袈裟、山形勲渡、黒川弥太郎重盛、坂東好太郎六郎、田崎潤小源太、千田是也清盛、石黒達也彌仲太、植村謙二郎政仲、清水元三郎介、毛利菊枝左和、南美江刀根、荒木道子真野、澤村國太郎盛忠、荒木忍家貞、香川良介康忠、小柴幹治宗盛、南条新太郎胤成、近衛敏明真澄、殿山泰司加喜助。
醜い日本のフィルム・ノワール
『盛遠はつらいよ』って、心が醜くて、格好悪い男をイケメン俳優が演じる。
素晴らしい日本映画と言えないか?
『田舎侍!』と言われただけで、お上の廊下で斬りつけ、お家を断絶まで追い込む君子を『忠臣』とか言って正当化するような日本文化の醜さ。しかし、
1950年に『羅生門』
三船敏郎、森雅之、京マチ子
1953年に『地獄門』
長谷川一夫、山形勲、京マチ子
さて、三角関係の成れの果て。
地獄門は色彩も撮影方法も芸術の域だが、ストーリーは羅生門を意識し過ぎている。
だから、どっかの映画賞をとっているようだが、そこまでの傑作とは思えない。
『なぜうちあけてくれなかったか?』って、その訳が分からないのが、この映画の結論だろう。でも『渡』は少なくとも最後に学習している。
長谷川一夫あんまりひどい男で
日本最初の総天然色?美しいカラーに二つ星。
まあとにかく長谷川一夫ひどい男で、坂東武者かなんか粗雑な男なら、仲の良い夫婦のかみさんに横恋慕して許されるのか。もう少しでレイプするんじゃないかとヒヤヒヤした。こんな野卑な男を長谷川先生にやらしちゃいかん。顔が違うだろ。あげく自分が女を殺した後、夫が自分の首を切らないのは臆したか、とは最低。
キモの女が入れ替わるプロット、山崎ハコの兄妹心中を知っていたのですぐ読めた。
これでよくカンヌグランプリ。脚本も他の大物連に比べれば無駄が多く冗長だと思った。
山形勲の立派な顔が印象に残った。
ワンマンの作った「時代絵巻」
大映のワンマン社長、永田雅一が 周囲の反対を押し切り製作
海外の賞を 数々、取って勝ち誇った訳だが(永田が) やはり周囲の意見が正しかったように思う(笑)
原作に あまり魅力がないのだ
主人公が 三者共、別々の方向をむき 無情感はあるのだが、弱い
盛遠の愚かさも、貞女の鑑の様な 袈裟も、時代と共に ますます観客を白けさせる ばかりである
永田が「映画向き」と考えた、装束や日本家屋独特の装飾(とくに風に揺れる 御簾の美しさ)と和色の活用、騎馬競争などに 見処はあるが
原因となる盛遠に、見るべき所が 全く無い
そんな男を、堂々と演じる 長谷川一夫
繊細さも まるで感じられない
映画的リアリズムも 欠けているのでは?
最後はストーカー盛遠が 袈裟の家に乱入する訳なのだが、(簡単に侵入出来る)日本家屋の構造について、考えさせられた(笑)
門番とかいないの?
庭から 誰でも入ってこれちゃうの?
渡の居ない時は、女ばかりで平気なの?
日本の治安は どうなってたの?
(あの頃から、神話的に安全なのか)
等々
いまでは「ワンマン」という 言葉は死語になったが、「パワハラ」「セクハラ」「ストーカー」等の
言葉が隆盛なのは 残念である
信頼…
三角関係。終盤まではよくある話なんだけれど、最後のオチがそうくるかと多少唖然。ふっと、胸の奥をつかれてしまった。
思いやった行為のつもりが、大切な人を地獄に落としてしまう。想像していた”地獄門”とはだいぶ違ったけれど、”信”を信条として生きている人には確かに地獄だわ。
最後の最後のオチで、主役が交代してしまうところも、ズドンとくる。さすが菊池寛氏原作。
とはいえ、終盤で緊張感高まるけれど、物語はありきたりの筋で、ちょっとイライラ。舞台を水増ししたかなという感じ。
それでも見惚れてしまうのは色彩。絹の光沢・色重ね。御簾を多用した画面作り。その御簾が風になびく様がなんとも心地よい。後半の青や黄を基調とした映像もとりこになる。
ああ、こういう空間て、背筋が伸びて、気持ちが清々しくなり優しくなる。日本画の大家が監修していると知って納得。
御所方=雲上人に近い人々 VS 六波羅方=裏切ることも兵法な粗野な乱暴者。
その対比・確執がもっと出ていたらわかりやすかったのだろう。
天女をどうしても手に入れたい六波羅の武士。
天から落ちたくない女。
そんな気持ちに疎い雲上人。
みっともなく袖にされた女にしがみついて仲間に笑われるようなことを恥じる見栄。
どんな手を使っても狙った獲物を手に入れることが称賛されるのに、手に入れられずに笑われることを恥じる見栄。
育った環境によって、こだわりたいところがこんなに違う。
男女の機微も交錯している。
舞台は、平安から鎌倉への移行期。平安時代は基本、妻問婚。男がモーションをかけ、女が応じればOKの頃。もちろん二股かければ「実がない」となじられるけれど、男は何人もの女のもとに通い、財産を受け継ぐのは男ではなく女であるものの、その財産を維持するためには男の力を必要とし、そのためにも男を乗り換えたりもするのも処世術とされた時代の末期。
でも、原作者の菊池寛氏は「貞女二夫にまみえず」映画にも出てくるが、男にそんな懸想を起こさせる女がはしたないとされた時代に生きた人。
そんなベースだが、反面、女は”ご褒美”。袈裟とて、御所勤めの中で、渡に下賜された(御所方の口利きで結婚した)女。
御所方の男・渡は、御所から絶世の美女を賜り、自分の価値を知る。
鄙の女・袈裟は、普通ではかなわない教養ある立派な御所侍を、夫とでき、自分のステータスをあげる。(叔母が、御所に上がって「出世した」と言っていることからもそれは知れる)
盛遠にしたって、袈裟は”ご褒美”と認められた”もの”。それが御所方の女だからとなかったことにされたのも、御所方との確執が混ざってエスカレートしたのではなかろうか。袈裟が六波羅侍の女房なら、仲間内のことと断念したのではないか。
なんて、背景を想像してしまうが、映画で見る限り、
二重顎のもういい年の壮年男が、だだをこねるようにしか見えない。
危機管理能力は袈裟の夫も欠けていて、あの状況で、妻を一人で出すかと、あんぐりする。妻の感じていた危機感をたわいのないこととしてしか見ていなかったんだよな。
そんな中で袈裟がどれだけ苦しんだかの描写がなおざりなので、ただの犬死になってしまう。
いじめ等を苦に自死する子やストーカー・DV被害を訴えていたのに残念な結果になってしまう人たちが、その苦しみを周りに真剣に取り合ってもらえていないのと一緒。
だから、感動するはずの最後のオチもしらけてしまう。いまさら何言っているの?
そこが残念。
舞台なら完璧。
でも映画だと、もう少し踏み込んでほしかった。
主演・長谷川氏は元歌舞伎役者。京さんへの演技指導もなさったと聞く。
女形は基本男を立てる存在。そのシーン・シーンで美しく魅せればよい。だからか、袈裟が時に幼稚に、時に妖女に見えてしまうのが残念。
ストーカー。
結局、ストーカーする心理って、愛じゃないんだよね。
単なる所有欲っていうか、自分を認められたい自己愛でしかない。自分の小ささが駄々洩れになっているだけなことに、この映画を見て気が付いてほしい。
日本初?のストーカー殺人
こんな男に執着された日には、本人はもちろん家族まで人生がめちゃくちゃだ。でも、よくある話なんだろう、どこまでエスカレートするかは別として。
だからこそこの製作年代にこのテーマありきなのだ。いつの時代にも面倒で危険な男がいて、その被害をこうむる女とそのその家族がいる。
しかしこの映画、京マチ子の衣裳が素晴らしい。豪華な着物がつぎからつぎへと現れる。この絢爛たる絵巻を堪能するだけでも観る価値がある。
映画も物語も古い
総合:55点
ストーリー: 55
キャスト: 65
演出: 70
ビジュアル: 60
音楽: 60
長谷川一夫演じる盛遠は、今で言うところの立派なストーカーである。相手の意思も関係なく、脅してでも自分の好きな女を自分のものにしたいという自分勝手な役である。もちろんこの時代の映画であるから彼はストーカーなのではなく、男尊女卑で権力者が他人のことを好き勝手が出来る時代であることを考慮に入れての役の設定だろう。しかし力でなんでも出来るとかなり勘違いしたこの役は、現代の価値観からするともう見ていて痛々しいくらい情けないものであった。
そして京マチ子演じる袈裟もそうである。この時代の貴族の箱入り娘であるから、せいぜい文学以外にまともな教育もないだろうし危険にどうやって対応していいかなどわかりはしないだろう。とにかく叔母を人質にとられ、夫を殺すと言われているのである。自分が死ねば万事収まると考えたとしても致し方ない。
彼女の夫は、妻に信用されていないからこの事件を打ち明けられなかったと嘆いた。製作者は妻が夫を信用していないからというつもりで作ったのだろう。しかし彼女が夫を信じられないから危険を打ち明けなかったのか、単に危機対応能力がないから打ち明けなかったのか、本当のところは謎のままである。現代犯罪科学を多少知っていれば、弱い者は簡単に力の強いものに従ってしまうものということは常識。製作者はそこまで理解してこの物語を作ったのかどうか疑問である。ただ少なくとも自分を犠牲にしてまで家族の命を守ろうと必死なことだけはわかった。
そして最終的には非常に拙い結末となる。それもこれも盛遠が愚かな振る舞いをして、それに対して袈裟がつたない対応をしたからである。どうも現代の価値観の中で生きていると、このような彼らの行動に共感できない。当時の時代背景や価値観を考慮して彼らの行動を理解しようとは努めるのだが、それでも駄目なのである。こんな行動とっていればこうなるのは仕方ないだろうし自業自得だろうと、少し距離をとりながら半ば呆れつつ彼らを眺めてしまう。
それはまるで無能な経営者が拙い経営をして会社が倒産するとか、ろくに練習しない野球チームが試合に負けるくらい当たり前の光景を見ているようである。結論に何も意外性がない。
NHKのBSで今回の放送を見たのだが、映像はデジタルリマスターなんだそうで古い割には見やすくなってました。でも音声が良くなくて、侍たちが低い声で早口で喋っているところは時々聞き取れない部分もありました。あまり快適に見れたものではなかったです。
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