「リアリズムと物語の平明さが生むヒューマニズム映画の理想形、その美しさと感動がある」山椒大夫 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
リアリズムと物語の平明さが生むヒューマニズム映画の理想形、その美しさと感動がある
「西鶴一代女」「雨月物語」「祇園囃子」と優れた女性映画を世に送り、女性崇拝と人道主義の美徳を知らしめた溝口監督は、そのテーマをもっと広く伝えるために普遍性と平明さに拘って、この歴史小説を映像化したのではないだろうか。この作品によって、溝口健二の作家としての良心が完成したように感じられた。それは、戦前のサイレント映画「故郷の歌」から数えて23作品の溝口監督作品を観て来て、(客観的な評価を別にして)個人的に最も感動し、映画の世界観に一番共鳴したからに他ならない。中世の荘園制度や奴隷制度の背景の描写力は勿論、ラストの母と子の再会シーンまで映画全体が人道主義の核心にあり、古典物語の映像美を見事に作り出している。このような美しく純粋な精神性を備えた映画こそ、総ての若者に見せるべきなのではないかと真剣に思い、映画の素晴らしさとその存在理由まで考えるに至った。
平安時代の末期、越後の浜辺を旅人が通る。農民の窮乏を救うため朝廷に反発して左遷された平正氏の、妻玉木とその子供厨子王と安寿、そして女中の姥竹の4人である。平正氏の政治は本来の人道主義で、当時の身分による差別社会の苦労を教える。これを現行の場面とモンタージュして分かり易い導入部になっている。野宿をしようとした4人のところに巫女が現れ宿を案内してくれるが、翌朝母と子は引き裂かれ姥竹は海に落とされる。この残酷な場面の非情な美しさというのは見事に尽きる。溝口演出の厳しさと宮川一夫の撮影の美しさ。リアリズムに徹した現実凝視は映像空間をここまで重々しく強固にするのかと感銘を受けた。母は佐渡へ連れられ、子供たちは山椒大夫に売られてしまう。
それからは、山椒大夫の残虐非道の振る舞いが真正面から描かれる。右大臣へ賄賂を貢ぐ一方、奴隷たちには過酷な労働を強いる様子は、いつの世にも存在する社会の縮図を教え、政治と産業のひとつの典型として実在するものだ。大人に成長した厨子王と安寿は、佐渡から来た女の唄に母の消息を知り、厨子王は逃げ出すのに成功するが、安寿が犠牲となる。この兄妹愛が、自然を背景に切なく訴えかけてくる。冒頭の海辺の厳しさに対して、湖水の静寂の悲しさ。都に上った厨子王は関白藤原師実に会えて出自が明らかになり、丹後の国守に抜擢される。そこで山椒大夫の荘園に駆けこむが、妹の死を知ることになる。厨子王は国守の身分では不十分ながら強引に山椒大夫の財産を没収する仕事をやり遂げ、最後母を探しに佐渡島に渡る。このラストシーンの感動的な演出の素晴らしさ。人の世の罪をすべて見据えた、作者の悟りのような語り。それは、人間を厳しく批判すると同時に愛して止まない人間性を印象付ける。
溝口健二の悟りの境地にあるヒューマニズム。リアリズムの演出は相変わらず徹底した時代考証の上でなされているが、原作の物語風な平明さにより、描かれた情感が素直に感動を呼ぶ。役者では、田中絹代と香川京子、進藤英太郎が素晴らしく、撮影宮川一夫の功績も高く評価しなくてはならない。ここには、ヒューマニズム映画のひとつの理想形がある。
1978年 7月21日 フィルムセンター