さびしんぼうのレビュー・感想・評価
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この頃はJAZZばかり聞いていた
大林監督はギャグのセンスが無いと僕は思う。下品なシモネタばかり。それを省けば、物凄く良い映画だと思う。
だから、正味、1時間30分位の映画だと思う。
ショパンはこの映画では好きにならなかった。この頃はJAZZばかり聞いていた。
また、母親に似た子を好きになるという事も無かった。
ここから、ネタバレです。
橘ゆり子が立ち去る時、買い物かごから赤いラッピングリボンが落ちる。その赤が、僕の青春の心に暫く留まっていた。今日5年ぶり位で鑑賞し、その感情が少しだけ、蘇った。
富田靖子さん、最高です。
久しぶりにAmazonプライム・ビデオで観たんですが、歳とってから観ると、本当によくできた映画だなあと思います。
富田靖子さんが藤田弓子さんの若い頃という設定が、今見ても良くできてたなあと。
藤田弓子さんのあの演技なので、良かったんじゃないかなと。結果、
お二人にとって、最高傑作だと思います。
また、映画で音楽の大切さを再認識させてくれます。
別れの曲は、それは名曲なんですが、ここまでぴったりくるのもないように思います。
尾美とりのりさんと小林稔侍さんのお風呂のシーンもいいですよね。
ハッピーエンド過ぎるとも思いますが、富田靖子さんの横顔を見て幸せな気持ちになれるので、最高です。
再見して時代を感じた部分と年を取ってから見たからこそ良かったと感じたこと。
当方50過ぎです。初見はまだ学生でした。そのせいか藤田靖子の白塗りの顔しか印象に残っておらず、出川哲朗の某番組で尾道を旅する時に連絡船に乗るところでこの映画のことに触れ、とても大好きな映画と言っていたことに驚き、そのシーンは記憶に残っていなかったので、今回見直して確かに連絡船に乗るシーンがあることを確認しました。聖地巡礼する人は間違いなくこの連絡船に乗るのでしょうね。
他の人のレビューで英語の先生のスカートが3回落ちるところと主人公の母親の様子がおかしくなったことが学校中知れ渡り、みんなが様子を見に来る辺りについて不快、そのためこの映画の評価自体が★1という人がいました。確かにこの辺りはのシーンは時代を感じました。このころは香港映画でもそうですが、無意味に女性を性的に軽く扱ったりするシーンが散見され、同じ女性として当時から不快に思ったものですが、この映画が作成されたとき、監督は47歳、当時のこの年齢の男性の思考が良く反映されていると思います。当時は今ならセクハラと言われる行為が普通に行われている時代でしたから。また学校生活の描写がドタバタすぎてかなり興ざめしてうのも事実。終盤、あこがれの少女が長い髪を垂らして赤い着物を着ている姿も監督の中にあるあこがれの少女像を表現していると思われます。当時(1985年)でも普段の買い物に若い人が着物を着ていることはまずありえませんでしたから。
しかし、そういう描写を上回る感動が終盤押し寄せます。それまで一切のセリフを語らなかった父親が息子にお風呂の中で語るシーンに、落涙してしまいました。たぶん結婚していない人にはこの場面が十分に咀嚼できないのではないかと思われます。この映画の良さがわからない人はそういうことだと思います。
ただ、私としては悲恋に終わると思われたこのストーリーがハッピーエンドに終わることには少々納得が行きません。「別れの曲」がこれだけ繰り返し流れるというのに?それは母親の青春の方の結果であって、主人公とは別ということでしょうか。思うようにならなかったからこそ永遠に思いが残る、そんな映画にしてほしかったと思うのは私だけでしょうか。
最高だ
以前にパロディ漫画を描こうとしたら何も思いつかなかったのだが、改めて見ると確かに分かりやすく説明できない話だった。20代の時以来で何度目かの鑑賞。
尾見としのりがこれまでの尾道三部作では脇だったが、いよいよど真ん中に現れ、大林監督の理想の少年時代を体現する。二人の友達が素晴らしくて、ファンタジーのレベル。
さびしんぼうの富田靖子と藤田弓子があんまり重ならない。現在アラフィフの富田靖子と、この役で42才の藤田弓子を見比べて、富田靖子は藤田弓子を通り過ぎていない。橘百合子もいいけどさびしんぼうはとことん優しく寄り添ってくれて、そんな彼女に冷たくする尾見としのりは最低だ。また、ストーキング対象である橘さんに自分のストーカーぶりをべらべらしゃべりすぎで、当時のことを現在で言うのもなんだけど、ダメだぞとハラハラする。
入江若菜のPTA会長が作りこまれていてすっごい面白い。友達のメガネは所さんのギャグを真似する。藤田弓子が背中にゴキブリが入って発狂する場面も圧巻。
少女時代の母親が現れてまるで恋人のようにいちゃいちゃするというマザコン全肯定映画だった。いつキスしてもおかしくない状況だったのでハラハラした。
尾道の商店街が活気があって楽しそう。
瀬戸内に夕焼けはよく似合う
物語は後半に畳みかけてくるんやね💦
1時間ぐらいで修めてくれたらなぁー、、
この歳になって
『大林ワールド』がしみてくる。。
俺の「さびしんぼう」は、、
男の方がロマンチックやと思います。
(出張で尾道いった時
山の上からの景色も渡し船も乗ってみた。
また尾道行きたいなぁー)
さよなら。ありがとう。またね。…さびしんぼう(=大林監督)
大林宣彦監督1985年の作品。
“尾道3部作”の第3作目。
寺の息子のヒロキは勉強嫌いで毎日母親や学校の先生を困らせてばかりの高校生。
カメラが好きで、望遠レンズ越しにピアノを弾く名も知らぬマドンナに想いを寄せ、いつしか“さびしんぼう”と呼んでいた。
そんな彼の前に、“さびしんぼう”と名乗る不思議な少女が現れた。ピエロのような白塗りメイクの“なんだかへんて子”。
ヒロキの母が“さびしんぼう”を叩くと自分が痛がり、ヒロキの母の事を自分のように知っている“さびしんぼう”。
ふとした事でマドンナの“さびしんぼう”とも知り合う。
ふたりの“さびしんぼう”とヒロキの、交流と仄かな恋と、別れ…。
大林監督が本作に特別な思い入れがあるのは見れば分かる。
まず、タイトルの“さびしんぼう”とは監督の造語。広島弁でわんぱく男の子を指す“がんぼう”を女の子に置き換えた造語とか。
それを基に構想し、『HOUSE/ハウス』の前後から映画化を熱望。
一応原作はあるが、原案程度で、ほぼ監督のオリジナル作。
開幕のスーパーにある通り、痛ましくも輝かしい、わが少年の日日に捧げた、自伝的作品。
だからか、ずっと舞台にしている尾道の風景も、群を抜いた美しさを感じる。
そこを舞台にしたノスタルジックな青春ファンタジー。
わが故郷と少年の日日へーーー。
我々映画ファンにとって、尾道は現実と非現実が入り交じるリリカルな世界。
コミカルなシーンは漫画みたいなドタバタだが、誰にも覚えあるやんちゃだったあの頃を思い出させ、愛おしい。(それにしても、こんなにキ○タマを連呼する映画もそう無いのでは…?(^^;)
ふたりの“さびしんぼう”との別れのシーンは本当に切なく、涙ナシには見れない。こういう出会いと別れがあっての青春。
コミカルなシーンは映画的に楽しく、切ないシーンはまるで詩の如く。
それを、ショパンの『別れの曲』が情緒たっぷりに。
冬の尾道が舞台だが、温もりを感じる。
ラストもとても温かい。
『転校生』が大林監督心の映画ならば、本作は大林監督自身の映画。
やはり、尾道映画では一番好きだ。
『転校生』では女の子演技、『時をかける少女』では引き立て役。本作では実質主役で、尾身としのりの自然体の好演。
そして勿論、大林映画=ヒロインが輝く映画。
富田靖子のKO級の魅力!
麗しの“さびしんぼう”と不思議で快活な“さびしんぼう”の一人二役。
どちらも最高だが、敢えて指名出来るなら(←コラッ!)、快活な中にも悲しさ滲ませる後者の“さびしんぼう”。
他キャストもこれまでの尾道映画を彩ってきた面々。
無口だが優しい父・小林稔侍、学校の先生・岸部一徳、本物の親子のようにそっくりな樹木希林&小林聡美。尾身と小林と富田が集うシーンは、さながら大林版『アベンジャーズ』!?
中でも、母親役の藤田弓子。わんぱく息子に振り回され、顔を合わせればガミガミガミガミ勉強勉強!…の肝っ玉母さんだが、愛情深く、ひしひしと。
富田もそんな“母さん”を魅力的に。
男の子にとって母親はずっと理想の女性(ひと)。
ひょっとしたら本作は、大林監督が母親に想いを寄せた、究極のマザコン映画であり親孝行映画なのかもしれない。
“さびしんぼう”だった僕。
“さびしんぼう”だったあの娘。
“さびしんぼう”だったあの頃…。
いつまでも“さびしんぼう”では居られない。
いつかは“さびしんぼう”と別れの時が。
そして“さびしんぼう”は大人になっていく…。
我が家にあった監督作をかき集め、連日鑑賞。
『別れの曲』が奏でられる本作で一応の終わり。
でも、これっきりじゃない。
さよなら。
ありがとう。
またね。
『転校生』『時をかける少女』に続く、尾道3部作の最終作
『転校生』『時をかける少女』に続く、尾道3部作の最終作。人が人を好きになると、さびしんぼうになる。そういうキンタマに僕はなりたい(笑)
中盤まではさほど感銘を受けない、ただノスタルジックな純朴な高校生活。いたずら好きな3人組といった、どこにでもありそうな素材だった。さびしんぼう(富田二役)が現れてからは、コミカルでもあり、母親(藤田弓子)との関係を想像する楽しみが増えてくる。ヒロキにしか見えない?と考えていたが、みんなに見える存在だったことにビックリ。恋する人にそっくりな想像物だと思っていたのに・・・彼女をみつけた母親が頬を引っ叩くと自分の頬が痛い。さびしんぼうは(16歳の頃の)母親自身だったのだ。
憧れの少女、橘百合子(富田二役)とは、自転車のチェーンがはずれて困ってるというきっかけで近づくことができたのに、結局はすぐに振られて(?)しまう。人には誰でも失恋という大切な思い出がある・・・父親(小林)と一緒に風呂に入ったことで、喜びも悲しみも人生の中の一コマとして妻を愛していることがわかる。
渡せなかったクリスマスプレゼント(ピアノ型のオルゴール。曲はもちろん別れの曲)をチョコレートのお返しにと渡すシーンは、本来なら悲しいはずなのに、それよりもさびしんぼうとの別れの方がジーンときてしまう(母親だとわかっているのになぁ)。
さびしんぼう
この作品は、20歳の時初めて見た。感動、感動で泣けてしょうがなかった。富田靖子の可憐で清楚な様子は正に一般男子が描く理想の女子であり、劇中で演じるキャラクターは、果たしてこの世に実在するのか・・一体なんなんだ・・表現するにはうまく言葉が見つからない不思議なキャラクターを見事に演じていた。中盤からラストまでの流れ、そして雨の中の名シーン、本当に人生最高の傑作だと思う。年齢を重ねた今、あらためて見るとさすがにあの時の感動とはいかないだろう。それは、それだけ自分が汚れたのかもしれない・・。が、それはどんな作品でも同じであってこの作品の評価はゆるがない。最近、「君の名は。」を見たけど、とても良かった。そして鑑賞後。「さびしんぼう」を思い出した。
なぜか尾道が自分の故郷のように感じてしまった映画
坂道の多い尾道の風景、ひろきの片思いの女子高生の存在、彼女をファインダーから覗く、さびしんぼうはひろきが好きなのに最後は消えるしかない存在等、切ないシーンがいっぱい。とくに自宅のお寺の階段でさびしんぼうが待っているシーン。2回あるが、2回目の雨のなかのほうは何度観ても泣けてくる。女子高生に会いに行った帰りを待っているしびしんぼう、「どうだった?」と、ひろきに聞くシーンが特に切なくなる。さびしんぼうはいつもピエロのようなメイキャップであるが、それがまた泣いているような感じで切ない、しかもここは雨でメイキャップが流れるのだが、確かに目からは涙を流している。雨に濡れると死んでしまうのに、彼を待っていたのである。結局、濡れたために消えてしまい二度と会えなくなってしまう(消える時期でもあったが)。
劇場で観たあとは、ビデオで何度も観ているが、他の部分は飛ばしてさびしんぼうが出てくるシーンばかり観ている。
話としては、さびしんぼうの存在自体は母親の高校生のときの幻影のようなもので、それを考えると、ひろきのことを想うさびしいぼうの存在はイマイチおかしな存在になってしまう。個人的には、片想いだがひろきのことが好きな女子高校生として捉えている。さびしんぼうの部分だけ何度も再生していくと、それが正しい理解だと思えてくる。原作とは違うかもしれないが、そのように観ているせいか、私にとってかけがえのない映画となっている。
切ない初恋
『好きになれ。思いっきり好きになれ。その人の喜びも悲しみも、みんなひっくるめて好きになれ』
主人公ヒロキ(尾見としのり)の父親役である小林稔侍のセリフにハッとする。
或いは、そのちょっと前のシ―ンで富田靖子が魅力的に好演する“さびしんぼう”が、こんなセリフを言う。
『人を恋する事は、とっても寂しいから、だから、私は“さびしんぼう”。でも、寂しくなんかない人より、私ずっと幸せよ』
大林宣彦監督の最高傑作『さびしんぼう』は、昔、誰もが経験したであろう片思いの切なさをまざまざと思い起こさせてくれる映画だ
とは言え、本作は完璧な映画ではない。
前半にあるギャグの部分はやり過ぎだし、入江若葉や樹木希林、小林聡美や岸部一徳の演技は悪ノリしている(俺はキライじゃないけど)。
しかし、後半の物語の急激な転換は見事としか言いようがない。
かつて、映画評論家の淀川長治先生は本作を“合わせ鏡の映画”と評していた筈だが、まさに言い得て妙だ。
ヒロキの百合子(富田靖子二役)への思いが、“さびしんぼう”のヒロキへの思いに変わり、やがて、ヒロキの“さびしんぼう”への思いが母親(藤田弓子好演)の初恋に重なるという重層的な物語の素晴らしさ
俺も本作を初めて観た時は、まだホントの恋愛も知らない中学二年生だったけど、あれから随分と時が立ち、いつか大人になってしまった。
だからこそ、冒頭に書いた小林稔侍のセリフが胸に沁みる。
恋愛とは、相手の現在も過去も全部ひっくるめて愛する事だから
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