「新珠を撮った小津」小早川家の秋 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
新珠を撮った小津
20年近くの間を空けての鑑賞。この間に自分自身も歳をとり、映画の観方も変わってきた。
この作品は小津安二郎が、所属の松竹ではなく、当時の新興映画会社である東宝で撮った。しかも、東京ではなく宝塚映画であり、舞台は関西である。松竹製作ではないという以上に、関西が舞台であることに小津作品としての特殊性があるといえよう。
原節子以外の役者はみな関西の言葉を使っているのだが、そのイントネーションにはぎこちなさを否定できない。名優・杉村春子をしてそうなのだから、観ているほうも諦めがつく。
しかし、当然関西出身の役者のそれは堂に入っており、中村雁治郎や浪花千栄子は言うまでもなく、新珠三千代(奈良出身)が圧倒的な存在感を放つ。
原、杉村、司葉子など松竹の女優の中で、一歩も引けをとることなく、ついつい老父に辛くあたる娘の役を演じている。川島雄三の「洲崎パラダイス 赤信号」でも見せた勝気な女性、それを後悔する女性を見事に表している。
小津は、華やかな松竹の常連たちを周囲に配しながらも、雁治郎と新珠の父娘の物語を浮き上がらせている。例によって、司と原の結婚話が出てくるが、それを横糸にしながらも、消えゆく老舗の造り酒屋を盛り立ててきた父を娘が送り出す縦糸にドラマを織りあげている。
この作品の最大の見どころは、新珠と雁治郎の丁々発止のやり取りである。全てお見通しの新珠の口撃に対する雁治郎の切り返しは、同じく小津の「浮草」の京マチ子と雁治郎が雨降る軒下での口論を思い出させる。
もちろん、「浮草」での口論は冷たい雨の降る中の寒々しい言い争いなのだが、こちらのは親子であるが故の遠慮なしの物言いがむしろ滑稽で、コミカルなものに仕上がっている。
このコミカルな雰囲気は雁治郎が亡くなっても続くのだ。それは、ミンクのコートを買ってもらい損ねたと言って、肉親的な感情を出そうとはしない団令子。どうせなら一度倒れた時に死んでいてくれれば二度も出てこなくて済んだという杉村。極めつけは、「そうか、これで終いか、、」だけ言うて死んだと、自宅から駆け付けた家族に淡々と説明する浪花である。影の女としての後ろめたさや、遠慮など微塵も感じさせない。
観ているこちらが可哀想になるほどに、雁治郎の死を囲む人々は淡々としており、悲哀よりも笑いを誘う。そんなコメディだからこそ、新珠のカラッとしたイメージが活きる。