GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊のレビュー・感想・評価
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さすが、マトリックスの元ネタ。先進性が尋常じゃない!!
この作品は、どうしてもビデオではなくスクリーンで観たかったので、まさに「待ってました!」の上映だった。
いつかはリマスターのリバイバル上映があると思っていたが、95年に見逃して以来、25年以上もかかってしまった。
95年に見逃したのは、80年代後半のAKIRAアニメ版で、手書きアニメの表現力に限界を感じたのが原因で、特にSFモノは、CGが格段に進歩するまで殆ど見る気になれなかった。だが、やはり、この作品は観ておくべきであった。
実際、CGも多少は入ってるようだが、あの圧倒的な情報量とリアリティを殆ど人力だけで作り上げたというのは、本当に凄い。
今回の4Kリマスターは、押井さん本人も、画像が精密になり過ぎて粗が目立つのでは?と心配だったようだが、むしろ手仕事の良さの方が前面に現れていて、その予想以上の仕上がりには、ご本人もとても満足だったようだ。
確かに手書きセルゆえの線の太さは否めないが、しかし、そんな物理的な制限を超越しようとする当時のアニメーターのバカテクぶりには、本当に圧倒された。
しかも、あれだけの密度と気が遠くなりそうな情報量にも関わらず、実際の作画期間は正味3カ月なかったらしい。
本当に驚異的としか言いようがない。
驚異的と言えば、もちろん今更言うまでもなく、本作品の先進性は本当に凄い。
なんと言っても、あのマトリックスの元ネタだ。
冒頭から会話に出てくる「バグ」にしろ「デバッグ」にしろ、今や当たり前に使っている「ネット」や「ハッキング」にしろ、あの時代にリアルタイムで見ていた人達は、殆ど「ポカ〜ん…」だったのではないだろうか?Windows 95 ですら、まだ発売直前の時代だ。
特に生命体を主張する人形使いが放ったあの台詞…
「DNAもまた自己保存のためのプログラムにすぎない…(中略)コンピュータの普及が記憶の外部化を可能にした時、あなた達はもっとその意味を真剣に考えるべきだった」などのくだりは、先進性を通り越して予言的ですらある。
これが95年というのは、本当に凄いのだが、原作は更に前だ。凄すぎる。
当時、リアルタイムで観ていたら、その数年後のマトリックスを見ても、別に「ふ〜ん、パクリか…」といった感じだったに違いない。
ただし、プロット的には、部分的に全く腑に落ちない箇所も幾つかある。
❶冒頭で、人形使いの正体を知った某国の外交官を射殺するのは外務省としては都合がいいが「プロジェクト2501」の事を明かされていない9課が、そこまでの任務をする理由が明示されてない。
認定プログラマーの国外への拉致誘拐の容疑だけで射殺は有り得ない。
❷ガベル共和国の前政権の親玉(らしき人物)と接触した人形使い(おそらく6課の仕込んだダミー)を強行突入により捕獲したはずが、その後、何も無かったかのようにストーリーは進む。
本来ならここは、外務省が画策したはずの「元指導者が人形使いの協力で、会談を潰そうとしたが、それを事前阻止し、世論にアピールした」という自作自演のシナリオを見せて、捕獲した人形使いはダミーだったとすべきでは?荒巻部長の台詞「人形みたいな奴だ」が暗に示唆しているが、あれだけでは説明不足だ。
❸戦車のハッチを義体を壊してまで開けようとするが、片腕だけで操縦士を仕留める流れであれば、そこはキッチリ決めるべき。バトーの到着なしでは自滅行為だったのであれば、ここは御都合主義に見えてしまう。素子の義体を壊すシーンが、どうしても必要だったのだろうが。
そして、素子と一体化しようとする人形使いとの会話が始まった時点で、素子の声色が変わっていたが(自分の脳が他者に制圧される事への不安?)これは少し演出過剰だった気がする。
それにドラマとしては、電脳クライム・サスペンスとして見せつつも、その一方で素子とバトーと人形使いとの三角関係の映画だったりするのだから、もう少し素子には女を見せて欲しかった。
バトーが後ろから見ているのを分かっていてウェットスーツを脱ぐシーンなど、あまりにエロスが無さ過ぎる。
あえて一線を越えようとしないバトーを揶揄い挑発する風情も微量ながら必要だったはず。
キャラ的に女要素の絶妙なバランス配分は難しかったかもしれないが、それこそ演出の見せどころだったのでは?
全体が素晴らしすぎるゆえ、以上こういった所は結構、残念ではあった。
とまあ、色々そんな部分もあったりするし「自分の記憶は本当に自分のモノなのか?自分を自分たらしめているモノとは一体なんぞや」という問い掛けは、既にブレードランナーでもあったりしたが、それにも増して、この作品が映像作品として到達したレベルが、前人未到の域であったのは間違いない。
ラストの台詞でも引用されていた「コリント人への第一の手紙」第13章だが、最終節は以下となっていた。
「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」
素子が人形使いと融合した瞬間、祝福感に満ちた天使のシルエットが舞い降りてきたが、あの瞬間、まさに素子は、人形使いとの融合を経て、全能なる何者か、あるいは全世界と自分との一体感を予感したのだろう。
それは、古来の生命誕生の際から世界を世界たらしめているモノ(例えば神)に対する「信仰と希望と愛」の予感だったのかもしれない。
しかし、そこにはキリスト教的なるもの(神との契約)は感じられない。
当然といえば当然。契約を結べば、そこには制約が課せられるのだから。
自分を制約しているものから解放されたい素子が新たな制約を望む筈もない。
但し、直観的に信じられる何ものかによって、希望や愛とでも言うべき普遍的な何かは発生したのかもしれない。
なんと言ってもアクセス先が、全人類のナレッジ全ての集合体なのだろうから。
そして以前から、人形使いはコリント人への手紙を通じて、最新の知識も技術もいずれは廃れるが、決して滅びない愛の概念を知り、己はAI(愛を知らないプログラム)ではないと言い切り(しかしAIとしての限界も知る事となり)この手紙を引用して、素子にボートの上から求愛(己の求めるシナリオへの誘導)をしていたのだろう。
己の破滅を回避するため、多様性を得るために生命体と融合したいというのも、実は本物の愛を知りたい口実だったのかもしれない。
融合直後に危機一髪でバトーに助けられるが、その直後、新たな素子の脳が一瞬見たのは、バトーの無償の愛だったのだから。
生命体(人間)として素子を求めた人形使い、自我(自分を制限し続ける自分)からの解放を願う素子、お互い進化への欲求があり、この二人の欲求が一致したブレイン・セックスであったからこそ、この異種配合によりアップデートされた素子は、ある意味、神に近づいたのかもしれないが。
この先も永遠に名作として世界中で語り継がれるだろう本作品。
まさに国宝として指定すべきだと思う。
以前見たときと印象の違い
劇場で見るのは最初の公開以来です。
DVDで何度か見たけど、最近は見てなかったですね。
IMAXの大画面で見られるというので、行ってきました。
でもなんか、昔見た印象と違いますね。
なんでだかよくわかりませんが。
元々、押井監督の風景が流れるだけのシーンが余り好きではないのですが、
今回はより長く感じて、少し興ざめしてしまいました。
年食ってせっかちになったんですかね。
私見
ヤンマガ連載時 なんかスカしててとっつきにくい
映画公開時 アニメあまり興味がなくて
パチスロ タチコマー!もっと増えろや 単行本購入
IMAXで鑑賞 陰鬱でしんどい 現実もしんどいのに
観念的な台詞に忍び寄る眠気 素子の眼が怖い
『ネットは広大だわ』
余すとこ無く造形美としての”とっ○れす”です 電脳なのだからもうジェンダーフリーなのにそこにメランコリックさを感じるのは自分だけだろうか・・・
IMAX鑑賞
こりゃ、実写化したくわるわ。
初鑑賞。1995年公開作。カルト的人気を誇り、多くの作り手に影響を与えたのも納得の映画でした。
本編内容については、散々語りつくされているのだろうから割愛。
最近、ブラック・ウィドウで話題になった、スーパー・ヒーロー・アクション、点着地も2回確認。あれ、エヴァの3号機も、同じ1995年にやってるそうで。作画は、どちらも村木靖さんとの事なので、3点着地の生みの親は村木靖さんと思われ。
個人的な趣味で、一番カッコいいと思う3点着地はトリニティ。一番萌えるのは『エンジェル ウォーズ』のエミリー・ブラウニング達です。
ストリーもアクションも、良かった。
25年前!今こそ観るべき圧倒的傑作!
25年前もリアルで観てスゲエと思ったが改めてIMAXで観てまた腰抜かすくらいスゲエなと
今でこそネットの中での人格もイメージしやすいけど当時Windows95の時代にあんな設定考えつくかね しかもそこから生命の話まで持っていってちゃんと昇華させるって 逆に現代の方がネットからの生命論まで追いついてない 外交、組織論とかもしっかりサスペンス的になっていてストーリーが骨太になっている
士郎正宗ホントスゲエ…圧倒的…
原作と押井守のやりたいことが一番ハマっている作品
イントロからラストの決め台詞まで最高にカッコいい!
歳とってから今の視点で観るとより面白い!
四半世紀のSF映画史を俯瞰するかのような鮮烈な映像とスコアに溺れる至福の85分
2029年の近未来、サイバーテロやネットワーク犯罪に対抗するために組織された超法規特殊部隊公安9課は国際手配中のハッカー“人形使い”が密かに入国したとの情報を入手、“少佐“こと草薙素子以下9課のクルーは捜査の網にかかった情報を追いある男を拘束するが、その男は記憶を“人形使い”に書き換えれて操られていただけだった。なおも“人形使い”を追う少佐達のもとに持ち込まれたのは高速道路で撥ねられた全裸のサイボーグ。彼女が語り出した話は・・・。
四半世紀ぶりの再鑑賞でしたが原作のエッセンスをギュッと凝縮したかなりシンプルな物語であることに少し驚きました。これでもかとブチ込まれている近未来描写のイメージの豊かさに当時圧倒されたことを覚えていますがその衝撃は今でも全然鮮烈。映像的には『ブレードランナー』や『ロボコップ』の影響が濃厚であることが見て取れますが、一方で本作の随所で挿入されるビジュアルが今度は『マトリックス』に多大な影響を与えたことも今となっては常識、本作がSF映画史において大変重要な作品であることを改めて思い知らされます。そして映像とほぼ同等に鮮烈なのが川井憲次によるスコア。『謡III - Reincarnation』が劇場を後にしてもなお脳内に響いていました。
今なら理解できた
「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」
IMAX4Kリマスターで公開。
1995年公開時は劇場で見れてなくて、ビデオ出てから見たはず‥
当時、携帯もガラケーでネットも微妙な時代だったのでぜんぜんピンと来てなかったけれど、今見るといろいろ理解できるのにびっくり
光学迷彩なんてアメリカで研究してるのみたし
昔の印象だとアクション少なくて退屈していたんだけど、タチコマの原型のようなロボとのバトルあったの忘れてた、よかった
雨に濡れたアジア的未来都市はブレードランナーとは別物して幻想的だった。
毎回、見る事に気になる台詞が変わる
この作品を見たのは3回目でしょうか。
今回気になったのは、素子の台詞の中で、
自分が自分であるための必要な物、の話の中で出た
「私という意識そのものを生み出し、そして同時に、私をある限界に制約し続ける。」
そして人形使いとのやり取りの中でも
素子は、人形使いと融合した後、自分が自分で居られるか尋ねるのですが、
人形使いは、それは変わると答えてました。
ただ、制約から抜け出せるとも答えてました。
ここは、今迄、自分として認識してた肉体を捨てる意味もあるのでしょうが、
自我、というか、
普通、人は自身がどうゆう人格か自分で認識していて、それによって、行動選択をすると思うのですが、
それがある為に、行動の幅が狭められる。
自分への認識を捨てる事によって、
つまり誰にでもなれて、様々な選択肢が増えるという事なのかな、、と思っています。
こうゆうお話があって、
犬が仔犬の頃から、ずっと首輪と鎖で地面の杭に繋がられている。一度も外された事はなく、鎖の長さ以上は引っ張られて行動範囲は取れない。
だから、自然と鎖の長さ迄しか動かない。
もし、その首輪や鎖を外してあげても、
自由になった事が分からず、ずっと鎖の長さでしか行動しないそうです。
それに似た話なのかなと。
自由に動けるようになった素子は、ある意味、神に近い存在になるのでしょうか、、
時代が経つ程見どころが増える名作
IMAXで鑑賞。自分の中では最初から評価が高かったというより、幾度もの鑑賞を通してじわじわと評価が上がっていった作品。というか、90年代に初見でこの作品の全貌が掴めた人ってどれぐらいいるんだろうか?その頃は「ただかっこつけて、衒学的に台詞を適当に並べ立てているだけなんじゃね?」と思ってたが、今見ると、ま、そういう所も若干あるが、時代がこの映画に少し追いついたおかげで、話がわからないような所はあまりない。こんな哲学的な内容で商業作品として成立させてたのも、その当時見に来てたアニメファンのSF偏差値の高さも凄い。パトレイバーにしても、この頃の押井監督、時代の先、行き過ぎ、読め過ぎである。アニメーションの素晴らしさは言うまでもなく、IMAXだとAKIRAの時同様、音楽、音響の立体感も存分に楽しめる。また、今回の新たな気づきとしては、今まで地味だと思っていたこの映画独特の淡い色彩設計も、時代を経てアナログの着色ならではの繊細で、非常に魅力的な色彩だと感じられた。
我思う、故に我あり
攻殻機動隊
人の脳とネットワークが繋がっている大戦後の近未来
そのネットワークにまつわる犯罪を専門に取り締まる
「公安9課」を中心とした物語
士郎正宗原作の漫画作品で氏特有の作り込まれた世界観は
多方面に影響を及ぼしいまだにSF作品はオマージュとも
とれる要素の繋がりを持っている不朽の名作
GISはその映画版として押井守を監督に
人間とプログラムの狭間で人間とは何か
人間を縛る国家国境とは何かといった社会状況に
切り込むよう大胆にアレンジ
その圧倒的な作画や表現
川井憲次氏の壮大なテーマ曲と共に
世界中の人々に影響を与え
「マトリックス」のウォシャウスキー兄妹は
公然とその世界観をプレゼンに用いたと言う
…って書いちゃうとそれで終わっちゃいますが
個人的に攻殻機動隊に触れたきっかけは
プレイステーションのゲームからでした
GISには出てこない漫画版のAIサポート戦車「フチコマ」
をプレイヤーキャラにしたアクションゲームで
独特の多彩な操作性と浮遊感
石野卓球が音頭をとったテクノサウンド固められたBGM
が何ともクセになる快作でした
そのPS版は漫画版をベースに作中のムービーも
士郎正宗版に寄せたものでこのキャラクターは
GIS異なるものでした
ただその後のメディア展開の草薙素子は
GISに準じたものになっていきます
電脳と繋がってネットの海を自由自在に行き来している
自分の考えることは果たして自分の考えなのか
周囲に左右されたプログラムなのか?ってのは
今のネット社会でも十分感じられる疑問かも
しれません
それくらい新聞テレビの論調とネットの論調に
剥離も生まれたりしています
改めて観るとその先進性には
驚かされるばかりでした
正直4Kリマスターの画質的なものは
そこまで感じられなかったですが大スクリーン
はやっぱり印象が異なりました
当然、というか義務(ほぼ)でIMAX鑑賞
なんとなくバルト9上映でないのが残念でしたが、平日にもお構いなくゴジラのTOHOで観ました。
シアター内は、私のような1995年以降メガテクボディ社で電脳・義体化したハードコアなGITSサイボーグや押井教の信者さん、アニメ賢人でほどよく埋まっていました。同じアニメ映画でも、鬼滅やコナンやドラえもんとは明らかに違った玄人たちの雰囲気、ちょっと引きますが同時に心地よい…。
内容は、すでに自分の歳と同じくらいの回数を観ているので特に驚きはありませんが、自由に監督させると難解な間(ま)と偏った思い入れシーンばかりで意味不な映画になってしまう押井監督(信者さんゴメン)が、まだ若い1995年に多種・極度の制約の下それでも自らの主張や芸術性を入れ込んで作った本作は、やはり“日本SF映画・Japanimationの金字塔”といえる傑作です。
なお自分にとって攻殻=Priceless(但しarise=黒歴史は除く)なので、劇場物は基本的に全ておさえる必要があります。特に最近は、Netflixの新作が神山版にもかかわらず不安だらけなので、精神の保養のため次の4K版も観ることになるでしょう。
ただ冷静に一言いうと、過去にNASAの宇宙ドキュメンタリーや「1917」をIMAXで観た時のような圧倒的な広大さ・没入感は、この「GHOST IN THE SHELL:|| IMAX」では得られませんでした。あぁ画面がおっきいなー、くらい。
無理とは分かってますが、SAC世界観の続編や外伝新作を観たいものです。
元祖Three Point Landing
攻殻機動隊のIMAX版のニュースを聞いてから鑑賞できる日を心待ちにしていたが、IMAX Enhancedであることにまず驚いた。巨大スクリーンに目一杯に広がる画角でまず気が付いたことは、背景のリアルさ。看板、ポスターのフォント、文面に至るまで緻密に作り込んである。自分自身が、中華難民街に迷い込んだ感覚に陥る。セル版ディスクを持っていて何度も見ているが、ここまで感じた事はない。
それと音響。体に振動を感じながら見る戦闘シーンは、迫力が全然違う。傀儡謡が始まると、全身があの独特の歌声と和楽器の音に包まれて、鳥肌が立つ。
四半世紀前に攻殻機動隊が予見していた近未来の世界が、本質的な部分において当たっていることに改めて驚いてしまう。「ネットは広大だわ」という素子のセリフは、今となっては解説なしで多くの人が理解できる。
記憶なくして人間足り得るのか、AIに記憶や自我があればゴーストは宿るのか。見る度に深く考えさせられる。A Iが創造主である人間を超えた時に答えが出るのかもしれない。
電脳世界にアイデンティティはあるか?
四半世紀以上前に、押井監督がこれだけ独自の世界観を構築しているのに、改めてビックリしました。人間と機械のボーダーがあいまいになり、アイデンティティすらも危うい世界のお話しは、非常に難解かつ内省的です。主人公が、自分の記憶の真偽すら分からないと呟くのはショッキングで、ある意味突き放したような幕切れも呆然とするばかりです。ストーリー自体の背景や情報が少ないので、さらに分かりにくくなります。とは言え、その難解さや情報の少なさゆえに、観客が色々解釈できると言う魅力があるのも事実。だからこそ、世界中に多くのファンがいて語り継がれているんですね。
【今再び大きな意味を持つ、”自分はいったい何者か”という問い】
前に、何かのレビューで、哲学的な問いかけのあるような、頭を揺さぶられるSF小説が読みたいみたいに書いたことがあったけれども、今回、「GHOST IN THE SHELL」の4Kリマスターの上映で、この原作はそうだったと思い出した。
今見直しても、この作品は、古さなど微塵も感じない。極端な話、リマスターしなくても大丈夫のようにさえ思う。
いや、逆に、AIに対する研究が進み、技術革新し、理解が深まるにつれて、この映画の問いかけ...生命とは何か、人間とは何か、自分とはいったい何者かということの意味は、更に重要さを増しているように感じるし、”人形使い”が話す、「子孫を残して死を得る」とか「個性と多様性」、少佐が問いただす「多様性の揺らぎ」とは、代を重ねることによって、そこから得られる”進化”をも表しているのではないかと自問自答を繰り返したくなる。
少佐が話す、この作品の有名なセリフ、新約聖書のコリント人への手紙13章の第11と12も、観る者に、その意味の理解を要求する。
「童の時は語る時も童の如く、想うことも童の如く、論ずることも童の如くなりしが、為人(ひととなり)ては、童のことを捨てたり」「今我ら、鏡もて観る如く、見るところ朧なり」
実は、これには更に続きがある。
「然れど、かの時には顔を対せて相見ん。今我が知るところ全からず、然れど、かの時には我が知られたる如く全く知るべし」
僕は、これを省くことに重要な意味があったのではないかと考えている。
人は、子孫を残して自らは死んでいく、実は、その中に多様性や個性があり、そこから生じる多様性の揺らぎは、すなわち進化をも意味していて、”常に”完全なものなどないのだと。
つまり、いつまで経っても、僕たちは全てを知ることなどないのだと。
だが、しかし、今、僕たち自身は、悠久の時を経て今ここに存在しているのであり、(頭で理解しているかは別にして)それは僕たち自身に蓄積されて、変化も含めて残っていることに他ならないのだ。
それが僕たち自身なのだと。
新約聖書に書かれた言葉だが、この思考のスパイラル感は、考えようによっては仏教哲学のようで、”無常”とか、”色即是空 空即是色”に通じるものがあるようにも思える。
少佐がもう一つ興味深い言葉を残している。
「恐れ、不安、孤独、闇、そしてもしかしたら、希望。海面に浮かび上がる時、もしかしたら違う自分になれるんじゃないか。人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには驚くほど多くのものが必要なのだ。他人を隔てるための顔、それと意識しない声、目覚めた時に見つめる手、幼かった頃の記憶、未来の予感」
そう、僕たちは僕たちでしかないのだ。
最期に新しい身体を得た少佐の言う言葉「ネットは広大」。
1995年当時の、この作品の斬新さや、それを背景にした哲学的な問いかけは、色褪せず、今更に意味を増している気がしてならないと考えるのは、僕だけではないと思う。
相変わらずおもしろ!ꉂ(ˊᗜˋ*) 草薙素子がビルから飛び降りる冒...
相変わらずおもしろ!ꉂ(ˊᗜˋ*)
草薙素子がビルから飛び降りる冒頭シーンを大画面で観れた。やったぁあ。
やっぱり大画面で改めて観れて良かった。YouTubeなどにも動画が上がってたりするけど、やはり大画面で観ないと。
ストーリーは難解だ。観客を置いていく。
草薙素子たち公安9課は、、、ストーリーはwiki見てね。
最後の戦車との戦闘シーンで、草薙素子は戦車の蓋を開けようとして手足がバラバラになるんだけど、これが理解できなかった。バトーがいなければ多分死んでいた。何故こんな判断ミスを少佐がしたのか不思議。
Wiki見ると人形使いと草薙素子は融合したみたいだ。
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