劇場公開日 1978年10月7日

「隠し子三人を伴って突如現れた愛人」鬼畜 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0隠し子三人を伴って突如現れた愛人

2025年6月4日
PCから投稿

原作は松本清張の1957年作の短編小説。

宗吉(緒方拳)は女中の菊代(小川真由美)と懇ろになり不倫の末、三人の子供をつくるが養育費を払えなくなると、菊代は宗吉の本妻のお梅(岩下志麻)の前に現れ、子供らを残して出奔する。
子供らはお梅の目の敵にされ、宗吉に始末するようけしかけるなか、弟は病死、妹は行方不明となり、兄も命を狙われる。

IMDBの野村芳太郎には79個の監督作品があったが点がついていたのは23個で、いちばん得点が高いのがこの鬼畜、二番目が砂の器、三番目が疑惑。すべて松本清張作品であり、それ以下も松本清張と組んだ「霧プロ」作品が並んでいた。
鬼畜は野村芳太郎の代表作といえる。

鬼畜がよかったのは職人型の野村芳太郎が監督したからだと思う。子殺し願望をもった正に鬼畜な夫婦の話なので、鬼才型が監督すると監督の自我が絵に乗ってくる。
日本映画において、非道な話に鬼才の自我が乗ってくると園子温や蜷川実花に代表されるようなこけおどしなバイオレンスができあがる。

鬼才とは映画制作よりも自身の箔付け、功名や映画祭受賞を目的とした監督のことを言い、日本映画界は鬼才だらけなので、もはや日本映画の特徴と言える。
鬼才監督は非道だったり衝撃的だったりする題材をもってきて箔付けにつかうのが常套手段なので、鬼畜は願ったり適ったりなストーリーといえる。
しかし職人型監督野村芳太郎によって淡々と描かれた結果、鬼畜は野村芳太郎の代表作になった。

概して野村芳太郎の映画からは、野村芳太郎の個は見えず、たんに松本清張原作の映画を見たという感じになる。味付けをしないこと、そこに職人型の価値がある。

とはいえ映画鬼畜は1978年の作品なので、現代日本映画と比較するのは無理がある。
そもそも昔の映画を見ていると10分に一回あるいはそれ以上の頻度で「今ならコンプラ的にぜったい無理だろう」という描写が出てくる。
ひるがえって我々が生きている現代というのは、現実にあることを「いやそんなことはありませんよ」と、そらとぼける時代と言っていい。

つまり現代社会に生きるわれわれというのは謂わば一億が芽郁の気分であって、じっさいに男とっかえひっかえの不倫やっていてもぜんぶ誤解だと言ってしまえる厚顔で生きていると言っていい。それを評してしばしば彼女はメンタルが強いと言われるが、メンタルが強いわけじゃない。単に彼女のやったことがコンプラ的に無理なだけで、あるいは彼女のやったことが単に放送コードの限界を超えているというだけのことで「いやそんなことはありませんよ」と、そらとぼける以外に彼女に手段はなかったのだ。

その芽郁の気分と、現代社会のコンプラというものが同質なので、わたしたちは現実に有り得ることを「いやそんなことはありませんよ」と、そらとぼけながら生きている。と言いたかったわけである。
スマホもインターネットもない昭和では誰かに連絡をとるにしたって出向いて行くか家に一台ある据え置き電話に電話するか手紙に頼る他に手段はない。そんなだから隠し子が発覚するにしたって菊代がいきなり三人の子供をつれて宗吉の家にやってくるわけだ。現代はそんな怒濤の修羅にはならないが、ならないかわりにLINEのトーク履歴が発覚して相思相愛すぎだよねとか言っておきながら、そんな事実はないと、そらとぼけるしかない。
言ってみれば昔とは比べようがないほど不正直な時代である。とは言える。
一億総民がコンプラや体裁のために、そらとぼけながら生きている、と言っていい。
したがって現代では、愛人が突然隠し子三人を伴って会いにやってくることはなくても、その代わりSNSで拡散され、あとからもっと大きな負債や罰が降りかかってくる、という感じだろうか。

これと翌年の今村昌平による復讐するは我にありによって、緒方拳は演技派かつギラギラした男の代表格のようになった。岩下志麻はきれいすぎる汚れ役だった。緒方拳岩下志麻小川真由美のほかにも、蟹江敬三大滝秀治田中邦衛大竹しのぶ、濃く懐かしい顔ぶれがあった。

みんな汗しており暑さがよく描出されている映画だった。IMDB7.4。

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津次郎
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