限りなく透明に近いブルー

劇場公開日:

解説

米軍基地に近い福生に生きる若者たちのドラッグとセックスを描く。第七十五回芥川賞を受賞した村上龍の原作の映画化で、脚本、監督は原作者の村上龍、撮影は赤川修也がそれぞれ担当。

1979年製作/103分/日本
配給:東宝
劇場公開日:1979年3月3日

ストーリー

窓の外を巨大な米軍機の轟音がかすめ去る。ここは東京都下、基地に接した町、福生。もう陽射しが高い午後、一九歳のリュウはノロノロと起き出した。部屋には昨夜のパーティの男女が死んだように寝ているがリュウは気にもせずアパートを出た。フラフラと街を歩くリュウは、飯場のアルバイトの金を届けに来たヨシヤマと会った。油くさいスパゲッティを胃につめ込みながら、ヨシヤマはとめどなく喋り続けた。女、仲間、ヘロインのこと、麻薬まがいを血管に打って死んだ男のこと……。リュウの一日はこのように始まる。明日も、その次の日も同じようなものだろう。そんなリュウの空虚な毎日に存在感をえる人間がいた。リリー、すでに三十歳を過ぎた子持ちで、外国人バー街に店を持つヤクの常習者だ。リリーと会っている時だけリュウは人間との触れ合いを覚え、十九歳の少年に戻る。リリーとりュウはしばしばベッドをともにしたが、リリーはリュウの他にも幾人かの情夫を持っていた。リュウはリリーに「ヒロポンやめたら?」「他の男と寝るなよ、金だったらなんとかするから--」と忠告するのだが、彼女はそんな子供じみた台詞に虚ろに笑うだけだった。その夜もリュウとリリーは危険な“メスカリンドライブ”に出た。強烈なロックとドラッグに酔いながら二人は猛スピードで深夜の街を突っ走る。トマト畑に迷いこんだ二人は、イルミネーションのように光る赤いトマトの間を歩き回る。そしてリュウは、リリーのぬくもりをすがるように求めた。降り出した雨にずぶ濡れになりながら、リュウはリリーに「好きだって言ってくれよ、俺が必要だって……」と言うのだった。ドラッグ、女、酒の虚無的な毎日に満足できないリュウだが、日々の繰り返しを急にたち切れない。しかし、真夏の暑い或る日、突然仲間が死んだ。そして、その死を契機にリュウは日々の繰り返しからの脱出を決意するのだった……。

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映画レビュー

2.5小説の個性が映画に転化できなかった村上龍監督の初挑戦

2021年11月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

今年の映画界は、芥川賞受賞作家の監督進出が話題の一つに挙げられる。この村上龍作品と池田満寿夫氏の「エーゲ海に捧ぐ」である。新人作家の感性が映画に新しい刺激を与えてくれるのではと期待したが、どちらも満足できるものではなかった。特にギリシャの観光映画に終わる池田作品には失望した。この作品は、そこまでではないが、映画について多くを語る村上監督の処女作としては凡庸としか言いようがない。もっともっと冒険を試みて欲しかった。
先ず第一に、ストーリーに面白さがあるわけではない物語の登場人物に存在感や魅力が感じられないこと。台詞以外で性格を表す人物の動きがなければ、映画の中の人間として生かされない。次に主人公リュウとリリーの男女関係の進展や変化が盛り上がりに欠けること。説明不足もあるが、俳優の演技も表面的に終わっている。だから米軍兵から袋叩きに合うリュウのシーンがあるが、同情も衝撃も無い。唯一映画らしいシーンが、“メスカリングドライブ”と云われる幻想世界でリュウとリリーが生きる目的を失いながら何かを求めて止まない苦しみが表現されているところだった。
ドラッグ、酒、女に溺れる虚無的な日常を、ただ緊張感なく描いては映画にはならない。村上監督自身が発言している“映像のスペクタクル”を、今までにない感覚で演出して貰いたかった。映像のイマジネーション不足と言わざるを得ない、おとなしい映画挑戦であった。

  1979年 9月5日  飯田橋佳作座

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Gustav
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