永遠の人のレビュー・感想・評価
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【”未来永劫憎み合う夫婦の姿。そして、恩讐の彼方に。”今作は、全編に流れる心ざわつかせるフラメンコギターの音色が印象的な、物凄い一組の男女の愛憎劇なのである。】
ー 名匠・木下惠介監督作品は、ソコソコ見て来たが、今作は凄かった。良くこのような作品を思いつくな、と唸った作品である。勿論、木下惠介監督のオリジナル脚本である。-
■昭和7年。さだ子(高峰秀子)には隆(佐田啓二)という恋人がいたが、戦地から帰ってきた片足が不自由になっていた大地主の息子・平兵衛(仲代達矢)に乱暴されてしまう。
絶望したさだ子は濁流の川に身を投げるが、隆の兄・力造に助けられる。
やがて隆も戦地から凱旋してきた。
隆は事情を知り、一緒に村を出ようと決意する。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・今作は、5章立てで構成されている。そして、夫婦になったさだ子と平兵衛がお互いに憎み合う中、起きる数々の悲劇的な出来事が、かき鳴らされるフラメンコギターの音色と共に描かれるのである。
正直、観ていてシンドイ。
・長男の栄一(ナント、物凄く若い田村正和である!)は、母さだ子から愛されないが故に、学校で問題行動を起こしてしまう。
だが、その理由は、彼がさだ子が平兵衛に乱暴された時の子である事が、噂で広まったからである。
栄一には何の罪も無いのに、出生の理由で、彼は行方不明になってしまうのである。
・年は更に過ぎ、隆の妻、友子(音羽信子)は、隆のさだ子に対する諦められない想いを知り、悲嘆に暮れる。
そして、体調を崩して行くのである。
・二男の守人も家を出て、さだ子に金をせびりに来る。彼はあっけらかんとした口調で、”うちは、代々村人を搾取してきた一族なんだ。”と母に語るのである。
<今作は、矢張りさだ子を演じた高峰秀子と、平兵衛を演じた仲代達矢の、お互いに一度も笑顔を見せない壮絶な心理戦と、相手を憎む口調にラストまで引き込まれる作品である。
だが、ラスト。
さだ子は病に罹り、死が直前の隆を見舞ってくれと平兵衛に、初めて頭を下げるのである。そして、二人は阿蘇の山麓の舗装されていない道を、歩んで行くのである。
今作は、名匠・木下惠介監督の、人間の業を切り取った見事なる作品であると思う。>
お母さんがお父さんを憎むのをやめたら、僕もお母さんを憎むのをやめます
すごいドロドロのドラマだった。なんだか、横溝正史とか、手塚治虫の「奇子」の世界に通じるかも。
昭和7年から36年まで、恨み一筋に生きてきた、さだ子。でもわかるよ。だって、平兵衛すごいやなヤツだもん。いくら上の立場でも、義理の父親を呼び捨てで叱りつけるなんて、人としてアカンよ。わがまま放題だから、家庭がギスギスして、子供が犠牲になるんだよ。さだ子も情の強い女かもしれないが、発端は平兵衛だから。冷えきった夫婦の長男・栄一が若き日の田村正和で、母とうまくいかず傷ついている青年をナイーブに演じていた。次男も兄の件で傷つき、東京の大学まで行って、たくさんのことを知り、自分の家や両親を客観的に見たからこそ、こんなせりふが言えた。「お母さんがお父さんを憎むのをやめたら、僕もお母さんを憎むのをやめます」…あまりにも鋭くてグサグサ刺さるねぇ。末娘の直子はまあまっすぐ育ったらしく、村の男と好き合って、駆け落ちした。相手が若い頃さだ子の思い人だった隆の息子ってのが、因縁だなあ。
最後は、死が近い隆のために、さだ子と平兵衛が和解しようとする。30年近い時間を経て、やっと歩み寄る夫婦にとって、「永遠の人」とは誰のことなのだろうか。
熊本の夏の、空と雲と山が美しい。阿蘇山の煙も、あぜ道も、白黒のコントラストがすごくいいな、と思う。
BS松竹東急の「生誕100年高峰秀子特集」放送を録画で鑑賞。
憎しみでは終われない
主人公(高峰秀子)は相思相愛の恋人(佐田啓二)が出征中、大地主の息子(仲代達矢)にレイプされ、結婚させられ、帰ってきた恋人は出て行ってしまう。
恋人は妻(乙羽信子)をもらい、子供を連れて戻ってくる。
主人公は夫を憎んでおり、子どもたちにも影響していた。
昭和の愛憎劇で、許すということは相手ではなく、自分を許すということらしい。
歩調
他の木下作品もそうだが高峰は幅が広い。憎しみに満ちた声が低く伸びてくる。結構な年齢差であるし、キャリア的にも差があるはずだが仲代は魅せる。用心棒と同じ年。三船に高峰。すごいもんだ。
話の視点がすばやく切り変わる。母の視点から息子の視点、夫の視点から父の視点。泣き出す娘。おっと、今度はこっちか。感情が連鎖して幾重にも重なる。恐るべき脚本。風景になるような登場人物はいない。全ての者が個々に考え言動する。
田村正和を探す高峰と再会を果たす佐田であるが、あれあれと先に行ってしまう。ラストも足の悪い仲代を後に置いて行ってしまう高峰。足の悪さもメタファーかも知れぬ。不器用や心の狭さも人の個性。ガチガチとぶつかる不幸。一緒であろうがなかろうが、結局は自分のペースでしか歩けない。
二人の距離に燻るは、和解ではなく憎悪の残火
異様な緊張が全編に漲った圧巻の憎悪劇だった。間違っても愛憎劇ではない。憎悪劇。
さだ子と平兵衛が互いに向け合う憎悪は、さだ子の想い人である隆とその妻であり小清水家の女中である友子や、二人の3人の子供(栄一、守人、直子)といった周辺人物にも波及する。それによって二人がそれぞれ抱く憎悪の善悪の基準は絶えず混線し、錯綜し、やがて誰が善人で誰が悪人であるのかが曖昧になっていく。もはや大義名分を喪失した憎悪はひたすらに増長し、狂った化物のごとく周囲の人間を次々に不幸へと陥れていく。己の恥ずべき出生を知り自ら命を絶った栄一、兄の死を母の憎悪のせいだと詰る守人、そして年を重ねるごとに弛緩するどころかますます張り詰めていく小清水家の空気。
地獄のような夫婦生活の開始から28年が経過したある夏、隆が病に倒れる。さだ子は生と死の淵を彷徨う彼を懸命に看病する。そのうち隆が息も絶え絶えに自分の人生を回顧しはじめる。そしてあれだけ憎悪していた元妻の友子に「かわいそうなことをした」と後悔を滲ませる。それはごく個人的な反省でもあり、無際限に波及していく憎悪への供養でもある。それを聞いたさだ子は、自らが生み出し、世に放ってしまった憎悪にもいよいよ歯止めをかけなければいけないと腹を括り、平兵衛に謝罪することを決意する。
ここで読み違えてはいけないのは、さだ子は全くもって平兵衛を許す気などないということだ。隆の場合、自分の息子とさだ子の娘が結ばれたことでさだ子との擬似的な結婚を果たすことができた、という人生単位のカタルシスが彼にあったからこそ、本心から「許したい」という言葉が出てきた。しかしさだ子の場合そうはいかない。平兵衛がおよそ褒めらるるべき点の何一つない自分勝手な冷血漢であることは28年の夫婦生活が証明している。さだ子は平兵衛の「人間性」なるものに関してはとうの昔に諦めている。ゆえにさだ子が打診するのは、個人的な位相での「許し合い」ではなく、憎悪の解消だ。これ以上憎悪を募らせれば、子供や周囲の人々のみならず、ようやく生まれた孫にまでそのカルマが波及してしまうことは自明だ。それだけはどうしても避けたいし、避けるべきだということをさだ子は平兵衛に力説する。そのためにもここは便宜上手打ちにしましょう、と。平兵衛は散々迷った挙句にさだ子の申し入れを承諾する。そして二人は今にも息を引き取りそうな隆の家に向かっていく。
とはいえこの憎悪の主たる原因を考えてみたとき、それはどう考えたって小清水家側の人々にある。そこを「みんな違ってみんな悪い」的な安易な相対主義で片付けてはいけないと思う。百姓一揆の頃には村人を裏切り一揆を全壊させることで地主の地位を手に入れ、許嫁のある娘を強引に犯し、子供まで産ませるような小清水家の血は到底度し難い。次男坊の守人は兄の死をさだ子が過度に平兵衛を憎悪したがゆえの悲劇と見做しているが、友人へのコンプレックスを愛情と混同し一人の女の心身を滅茶苦茶に破壊するような精神未熟者を憎まないでいられるほうがおかしい。彼もまた「兄を失った可哀想なボク」という陳腐な感傷主義にいつまでも浸っているだけの精神的未熟者にしか見えない。
終盤の玄関先でのさだ子と平兵衛の問答に関しても、さだ子の決然とした態度に比して平兵衛の幼稚さが際立つ。急拵えの美辞麗句で相手の同情を引こうとし、それが無理だとわかれば「俺は孤独だ」と仰々しく悲嘆に暮れる戦法に切り替えるというのは、自意識ばかりが尊大で相手に対する敬意が根本的に欠如していることの表れだ。平兵衛はさだ子を愛しているのではなく、結局のところ彼女を美しい宝石か彫刻品のように所持したいだけなのだと思う。隆に自慢するための。
それゆえ、上述の通り二人は最終的に「手打ち」を果たすことになるものの、その足並みは最後まで揃わない。さだ子は隆の家に向かって駆け足に去っていき、足の悪い平兵衛がそれをゆっくり追いかける。二人の距離はぐんぐんと開いていく。そしてその決定的な距離には、死ぬまで止むことのない憎悪の残火が燻っている。
アカデミー外国映画賞ノミネートは当然の名作です
圧倒的な名作です
強烈な印象で打ちのめされました
胸が張り裂けそうです
タイトルからは熱烈な恋愛を描く物語を連想しますが、内容は異なります
その恋愛が壊れたことで、永遠に手に入れられない人になってしまった何人もの男女の28年に及ぶ愛憎の物語です
さだ子自身、平兵衛、隆、その妻
さらには、さだ子の父、さだ子の子供達のことです
そのたったひとつの忘れられない恋愛が壊れたことで、彼ら彼女達は29年もの間苦しむ事になります
中には自殺を図るもの、死んでしまうものまででる程に苦しみ抜くのです
物語は昭和7年、19年、24年、35年、36年と5章に分けて進行していきます
高峰秀子は公開時の実齢は37歳
彼女が演じるさだ子の年齢は、第1章が20歳とするなら、それぞれ32歳、37歳、48歳、49歳となります
彼女はそれを見事に演じ分けます
恋愛をし、結婚し、子供を産み育て、娘を嫁に出し、孫の顔を見る
女性の一生のその全てが憎しみで塗りつぶされたとしたならどうでしょう
その悲しみ怒りの大きさはどれほどのものでしょう
それをもたらした犯人はもちろん平兵衛の人の道に外れた所業です
しかし彼一人だけが悪いのでしょうか?
隆かも知れません
彼がさだ子を見捨てたからこうなったのです
平兵衛が反論するようにさだ子だったかも知れません
罪の無い子供までも許さなかったほどに、平兵衛を絶対に許さなかったからです
あるいは登場人物全てが荷担したと言うべきかも知れません
人によれば、戦前の大地主と小作人の関係性、つまり資本家の横暴が全ての元凶なのだと言うかも知れまん
次男なら、千両塚の伝説の後にそのように続けて話したかも知れません
そうした一面はあるかも知れませんが、それがテーマでは有りません
愛の純粋性
それは突き詰めるほどに不幸になるものなのでしょうか?
ラストシーン
恩讐の彼方に向けて、さだ子と平兵衛の二人は田畑の中の一本道を歩きます
あの29年前と同じ夏の日射しの中を急ぐのです
感動しかありません
熱い思いが次々に去来してしばらく動けませんでした
木下惠介監督の圧倒的な演出力!
雄大な阿蘇の麓を舞台にロケ地に選び、あの屋敷のセットの見事さ、そしてあのフラメンコギターの音楽!あの歌詞!
浄瑠璃の謡曲にも似た圧倒的な効果と感情の破壊力をもたらしています
アカデミー外国映画賞ノミネートは当然
日本映画オールタイムベストの上位に名を連ねて当然の名作です
第1章:駆け落ちしなかった隆とさだ子。身分の差、小作人へのひどい...
第1章:駆け落ちしなかった隆とさだ子。身分の差、小作人へのひどい扱い。仲代達矢が極悪人のように思えるほどだ。
第2章:昭和19年、結婚して3人の子供。隆もとも子(音羽信子)という嫁をもらったが、思いを捨てきれない。鈴の音が聞こえたら義父の元へ介護に走らねばならないばかばかしさ。3人の過去を知ったとも子は実家へ帰ってしまう。
第3章:昭和24年、息子・栄一は学校では暴れン坊。父が母を犯した際に出来た子供だと知ったためであった。そんな折、広島で療養中だった隆が戻ってくる。父には甘やかされたが母には辛く当たられていた栄一は家を飛び出して、阿蘇の火口を降りてゆく
。
第4章:昭和35年、さだ子の娘・直子と隆の息子が駆け落ちした。28年前に二人ができなかったことを子供たちがやってのけたのだ。次男は全学連にて暴れまくり、逮捕状が出ていた。
第5章:昭和36年、肺病の隆の命はあと僅か。駆け落ちした二人は赤ん坊を連れて戻ってきた。
30年続いた愛憎劇。まるで復讐するために結婚したさだ子。千人塚というエピソードやほっぺをつねったシーンなど、印象に残る場面とともに高峰秀子の怨念にも似た心がドロドロ劇を盛り上げている。章立ての合間に流れるフラメンコのようなラテン系音楽がちょっとマイナスだが、単に笑えばいいのかもしれない。重厚な一大叙事詩。ラストには心を打ち解け、ようやく和解する二人が爽やかに映り、希望も持てるが、不幸な人が多すぎた・・・
作品中で、所々流れる物語の流れを説明する曲って言うか歌が印象的。 ...
作品中で、所々流れる物語の流れを説明する曲って言うか歌が印象的。
「それはですなぁ~♪それはですなぁ~♪」が頭の中でヘビロテする凄い作品。
その辺のホラー映画なんか相手にならない程の恐ろしさ
雄大な阿蘇の山並みを背景にして、30年に及ぶ男女の愛憎劇。
観ていて、人間とはこれ程まで《鬼》になれるモノなのか?と思う位に、体中に震えが来る。
その辺のホラー映画なんか全く相手にならない位の恐ろしさだ!
映画は1章から5章まで時代事に展開される。
とにかく主演の高峰秀子と仲代達矢の間で、延々と繰り返される罵り会いの凄まじさ。
♪それはですね。それはですね。♪
果てしもなく凄まじいです。
一見するとなだらかな稜線をしており、見る人の心を和やかにさせてくれる阿蘇の山並みだが、火口では絶えず噴煙が吹き上げている。
そんな30年に及ぶ夫婦間の罵り会いは、お互いに身内からも怨まれ続け、地域の住民達からも陰口を叩かれる。
果たしてその結末は…。
♪それはですね。それはですね。♪
各章の度に報われ無い自分の運命を呪い、時にはうずくまり。また時には走り回る高峰秀子。
それに被さるは大胆不敵なフラメンコの響き。
木下恵介監督の人間観察の凄さが光ります。
最後の纏め方もお見事!
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