「男と女、戦争と人間の構図から浮かび上がる、男の愚かさを追求した溝口監督の映画美術」雨月物語 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
男と女、戦争と人間の構図から浮かび上がる、男の愚かさを追求した溝口監督の映画美術
1952年の「西鶴一代女」からこの「雨月物語」、そして「祇園囃子」「山椒大夫」「噂の女」「近松物語」までの3年間の溝口監督晩年の成熟の頂きを呈する作品群は、日本映画における最重要な遺産と云わざるを得ない。国際映画祭においては黒澤明監督の「羅生門」に触発された溝口映画の3年連続ヴェネツィア銀獅子賞受賞の快挙と、ワン・シーン₌ワン・ショットの演出技巧に影響を受けた映画人が後にヌーベルバーグという映画革新を生む切っ掛けの素養になった。それは、ジャン=リュック・ゴダールやテオ・アンゲロプロスなどのヨーロッパ映画に引き継がれている。なかでも「雨月物語」は特別な存在です。後に公開された戦前の傑作「残菊物語」と「元禄忠臣蔵」や戦後の「近松物語」が日本的風習や価値観で西洋人に理解しきれないハンディキャップがあるのとは別格で、「雨月物語」が持つ広いヒューマニズムと日本的幽玄美が称賛をもって迎えられました。ただし、金獅子賞を狙っていた溝口監督は、惜しくも銀獅子賞に終わって後悔したといいます。それは最後の結末をもっとカラいものにしたかったのを、制作会社の大映の商業主義の介入で甘くせざるを得なかったというのです。その影響か、審査委員の評価では、筋を作り過ぎている点でグランプリの資格なしと言われました。しかし、その甘さ故に、映画的な感動があることもまた事実です。
日本的な怪奇譚の独特な味わいと幽玄美を極めた宮川一夫カメラの映像美。京マチ子の演じる死霊若狭の怪しげな美しさと恐ろしさ。幽霊屋敷の幻想的な雰囲気。源十郎がいる岩風呂に若狭が入るとお湯が溢れて池のカットに続く流麗な映像のイマジネーション。帰郷した藤十郎を温かく迎える妻宮木を映すカメラの一回転。その幻影から現実の世界に転化する映像演出の鮮やかさと美しさ。そこに描かれた田中絹代演じる宮木の夫と子を思う、妻として母としての無償の愛。これこそ文学や舞台では表現しきれない、映像が持っている表現の技術力であり、素晴らしさである。
地道な仕事に就く男兄弟が出世の欲と女性の色気に迷い、再び元に戻る男の愚かさを描いて、現世に想いを遺した妖艶な女性と献身的な女性の対比を巧みに加えた脚本の厚み。男と女の闘いを描いてきた溝口監督が辿り着いた一つの回答が、ここに見事に描かれている。また美術、撮影、音楽の三位一体となった様式美がその人物の構図を生かしている。その為、時代劇と認識しながらも、普遍的な男と女、戦争と人間の関係性に思いを馳せる世界観が構築されているのだ。
この映画が公開された昭和28年の日本映画は傑作揃い。小津安二郎の「東京物語」成瀬巳喜男の「あにいもうと」木下惠介の「日本の悲劇」がある。
1978年 7月19日 フィルムセンター
約40年前の感想にその後得た資料を追加してレビューしました。しかし、この「雨月物語」を語る上で、私個人の記憶に深く刻まれたことは、当日の上映が終わったフィルムセンターでの出来事です。20代半ばと見られるひとりの青年が周りに憚らず号泣し始め、男泣きしながら劇場を後にするのを間近で接しました。映画を観て感激しても、涙を少し流す程度の自分には衝撃でした。「道」のアンソニー・クインの嘆きとは比較にならない、その青年の止められない男泣きは、「雨月物語」に描かれた男の罪深さと償いのように感じられて、衝撃と冷静の入り混じった不思議な心境になりました。それはまた、人に感動を与える名作の素晴らしさを、改めて私に認識させてくれた貴重な体験でもあったのです。
赤線地帯の最後の場面が思い浮かんで、男だけどもさめざめと泣けますね。この映画は。
親父はこの映画見て言ってました。「良い女房だねぇ」って。その時は理解出来ませんでしたが、僕のDNAには贖罪の如く親父の血が流れて入ることを今は恥じています。