浮雲のレビュー・感想・評価
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願いかなって
第二次世界大戦中のインドシナ。
戦時中とは思えない平和、豪華な暮らし。
公的機関にタイピストとして赴任して来た
高峰秀子扮するゆき子、若い❣️
直ぐに妻ある富岡とねんごろになる。
終戦となり、富岡が先に帰国、
しばらくしてゆき子も帰国。
ゆき子が富岡の家を訪ねると妻が出て来た。
富岡と会いなじるゆき子。
奥さんと別れてないじゃない嘘つき、って。
富岡は、向こうでは別れようと思って帰国したが、帰るとずっと耐え忍んでくれていたと思い別れられないんだよ。←ずっるい言い分。
ゆき子が怒る内容は筋通っている。
富岡は妻へも嘘ついてゆき子と伊香保旅行❣️
宿近くで時計を売り資金調達する富岡。
ドリアン、マンゴスチンと話に花が咲き、
旅館の主人と意気投合する富岡。
主人には、
わっかい妻岡田茉莉子演ずるおせいがいた。
えつ、⁉️おせいとお風呂⁉️
勘の鋭いゆき子が言ったこと、当たり❣️
この男すご〜⁉️
富岡が脱いだのだけが包まれていた。
ゆき子泣く。
自分のことばかりかわいいんでしょう←当たり❣️
富岡とゆき子のやり取り。
富岡が引っ越したと葉書での知らせ。
行くとおせいと出くわす。
おせいが自分の部屋だよ、と。
足だまりだよ、と。
伊香保の旦那とも別れた、と。
富岡はいないと言うおせいの言葉を疑い待つと
富岡が帰って来た。
問い詰めるゆき子に嘘ばかり言うクズ富岡。
バラック小屋のゆき子のもとに
義兄伊達が訪ねて来た。
怪しげな宗教の教祖だと。
この男、ゆき子を犯している卑劣な奴。
そのせいでインドシナに行ったのか⁉️
ゆき子は売春婦になっていた。
新聞でおせいが殺された記事を見るゆき子。
犯人はあの陽気な旅館の主人だった⁉️
ゆき子、子供のこと、当たり❣️
心中計画も当たり❣️
富岡がゆき子と伊達の家に訪れる。
履き古した靴👞
要件は富岡妻の葬式費用を借りることだった。
お互いを慰める言葉。
ゆき子は富岡の子を堕していたのだ。
ゆき子の心の内を探ると❓❓❓
老舗旅館で富岡と逢引するゆき子。
伊庭から30万円取って出て来たのだと⁉️
生き方変えようと、富岡言うが、
お前が言うか⁉️
ゆき子、歯がゆい富岡にやけになる。
富岡は元の職場に戻るが、赴任が決まった。
屋久島だった❗️
どうしてもついて行くと、言い張るゆき子。
身体が弱っているゆき子を案じて
富岡は止めるが。
列車で何時間も乗り鹿児島着。
医者に診てもらうと、船内でも診察。
大きな船から小さな船に乗り換え到着。
富岡と一緒になることだけを願って生きて来た
ゆき子。
辺境の地でやっと二人になれたが、‥‥。
林芙美子さん原作、名作。
男二人に人生を弄ばれる女の生き方を、
フワフワ浮かぶ雲に例えたのか⁉️
時代と男の犠牲になった薄幸女性の生きた証
女性映画の名手成瀬巳喜男監督の代表作として今も語り継がれる名作。原作の林芙美子に脚本が水木洋子、そして主演が高峰秀子と日本映画史に遺る三名の女性が揃い、女性の立場から見た男女の抜き差しならない愛欲関係を率直且つ綿密に描き上げています。今回46年振りに見直し、漸くこの映画の良さを理解出来て、とても満足しました。と言うのも、若い頃の洋画偏重から日本映画の良さにも関心を持ち、フィルムセンターによく通っていた1978年に観た日本映画の傑作選(溝口健二の「西鶴一代女」「近松物語」「残菊物語」「雨月物語」「山椒大夫」、小津安二郎の「東京物語」、黒澤明の「羅生門」「生きる」、木下惠介の「二十四の瞳」、内田吐夢の「飢餓海峡」)の中で、この成瀬作品の完成度の高さにとても感心しながらも、他の名作と並ぶような感動は得られませんでした。思うに二十歳の若さからか、好きな男をひたすら追い掛ける女と浮気男の腐れ縁の内容が面白いと思えず、また愚かな女とズルい男のよくあるストーリーに葛藤や感情の激しさは薄く、大人のための穏健な映画という印象でした。それから翌年に「おかあさん」「稲妻」「山の音」「鰯雲」を観ています。特に「稲妻」の演出に感銘を受けて、一気に成瀬巳喜男監督のファンになりました。
最初のシーンは昭和21年の初冬、敗戦から1年以上経って漸く本土に引き揚げてきた幸田ゆき子が向かうのは、3年前の仏印(インドシナ)で一緒の職場で出会い知り合った農林省技師富岡健吾の東京の家。後から分かる妻と離婚して待っていると期待したゆき子が最初に挨拶を交わすのは、母親と妻邦子のふたり。そこで富岡の着替えを待つゆき子が2人の馴れ初めを回想する。タイピストとして赴任した初日、不愛想な富岡に戸惑うも、次のシーンで2人が行くのが闇市の裏町通りからの連れ込み宿。戦時下とは思えない平穏でエキゾチックな仏印の居間と古びて薄汚い内地の部屋の対比で分かる、2人の関係と置かれた状況描写の巧さと無駄の無さ。異国では自信に満ち溢れ女性を蔑視する嫌な男だった富岡が、敗戦国日本ではうだつが上がらず妙に物分かりが良くなっている。温暖で開放的な異国の地で男女の関係になってしまったゆき子と富岡の出会いと再会が、この冒頭の約20分で簡潔に巧妙にモンタージュされている。しかも、この富岡という男の嫌らしさを決定付けるのが、仏印の事務所で働く現地の女中が富岡に注ぐ怪しげな視線のワンカット。表向きは女性に興味がない仕事人間に見せかけて、実は無類の女性好きな富岡に、何故幸田ゆき子は夢中になり騙されたのか。結婚を口約束したのは、現地で二人の関係を継続させるための男の詭弁ではなかったのか。
この幸田ゆき子の過去をワンカットでフラッシュバックしているのが衝撃的だった。それは東京の親戚を頼りに義兄の留守宅に入り込み布団とマフラーを拝借したゆき子が、再会した義兄の伊庭杉夫とラーメンを啜りながら会話する場面です。伊庭から性被害を受けていたゆき子は、富岡に裏切られた失意もあって(元どおりの娘にして返してもらいたい)と言う。ゆき子はこの一生消えない心の傷を抱えたまま富岡と出会い、自分から人を愛することで記憶を消し去りたかったのかも知れません。しかし、その一方的な愛は叶わず、どう生きて行くのか思案中に啜るラーメンの味は、決して旨いとは感じない。仕事も決まらず、行きずりに出会ったアメリカ兵の情婦になるゆき子。敗戦直後の貧困からその身に堕ちた女性の歴史の事実。そのお蔭で一寸したおしゃれが出来る最低限の生活になった時、心配した富岡が訪ねてくる場面では、工面したお金を渡そうとするが、もう遅いわと言う。連れ込み宿では手切れ金として渡されたお金を拒否したゆき子は未練を残したままで、今度は機嫌を取る男の狡さに辟易する。ゆき子の富岡に抱く愛には、お金の価値が最優先でないことが分かります。この小さい炬燵に当たりながら交わす会話には、ゆき子の本音と悟り、富岡の下心と偽善が良く表れている。それでも出て行った富岡を追い掛ける幸田ゆき子の一途さは変わらない。心と身体のバランスが崩れた女性をさり気無く表現したシーンです。
そして、千駄ヶ谷駅で恋人同士のように待ち合わせしたゆき子と富岡が思いついた伊香保温泉に流れ行く展開で、2人の関係を更に暗転させる脚本の構成は(序破急)の破にあたり、女性にだらしない富岡の本性がここで露になります。宿泊費に困った富岡の時計を高額で譲り受けた上に、宿の面倒も世話する飲み屋「ボルネオ」の主人向井清吉。その善人の持て成しを裏切る形で清吉の若妻おせいと関係を持つ富岡の身勝手さが救われない。しかし同時に、この時代の温泉が男女混浴の風俗にも驚きを隠せない。これは古来より続く性に開放的な日本の文化なのだろうか。翌日の朝湯に向かう富岡に連れ添うとするおせいと、疑念を抱き同行しておせいに遠慮させるゆき子の、この3人のやり取りと微妙な心理描写の細かさ。成瀬監督の演出が見事です。石階段の行きと帰りの使い方の映画的な表現もさり気無く巧い。2人で東京に戻った後のゆき子の家で会話する場面では、富岡の欠点や悪いところを鋭く指摘するゆき子の言葉が次々に出てくる。恋愛とは相手の欠点を許せるかどうかで決まるとはいえ、富岡の見た目と内側の隔たりは大きい。それは男女関係で言えば、相手を騙しやすいことにつながる。ここで富岡はおせいと恋仲になったことを正直に告白するが、きれいさっぱり分かれてきたと付け加える。そして次のカットが家出したおせいを探し求め、ゆき子宅を訪ねる清吉と、富岡の家を訪ねて引っ越したことを初めて知るゆき子の短い説明ショット。富岡の葉書から高瀬という人の住所を探し辿り着くが、この高瀬という名字がおせいの旧姓だったというオチのゆき子の驚き。ここで下心をもったままおせいと別れたと嘘を言った富岡の狡猾さが浮き彫りになる。それはおせいと富岡の同棲の過程を描写しない省略による効果でもある。観客の視点をゆき子の視点と一緒にさせて、ゆき子の心理に観る者を惹きつけるから、同棲の痕跡を確かめるように部屋を見回すカットも生きる。それだけでなく、このシークエンスでは、ゆき子の体調が思わしくないことと妊娠したことが分かります。富岡にどうするか相談するために訪ねたら、別れたはずの若い女性と一緒に生活している衝撃。だが、ゆき子の人の良さが、富岡の置かれた立場を理解します。妻の病気が悪化して、仕事も転職したばかり、おせいも正式に清吉と別れた訳でもなく、そこへ我が子を身籠ったゆき子が現れる。富岡の自業自得とは言え、愛する男が惨めに見えるゆき子は根は優しい女性です。
後半は再び伊庭杉夫が現れて、戦後の荒廃した社会不安から派生した新興宗教を扱っているのがユニーク。人の弱みに上手く付け込んで、楽して金儲けする杉夫に1万円を工面してもらうのは中絶費用だった。その病院で痴情のもつれからおせいが清吉に絞殺された事件の紙面が目に入ってくる。そこで富岡の元を訪ねて、ゆき子の感情が爆発する場面がいい。出産か中絶か悩んだゆき子は富岡の無関心に呆れ果て、彼の心にまだいるおせいに女として嫉妬しながらも憐み、ひとりの女として富岡の男としての不甲斐なさを責め立てる。この嘆き泣き崩れる悲痛なシーンにインサートされるのが、長屋の中でままごとに興じる子供たちのショットです。ゆき子の本当の願いに寄り添い、女の幸せとはを可視化した表現のモンタージュ、それによって今現実に生きて苦しむゆき子の感情を深く描き出します。これこそ映画ならではの表現と言えるでしょう。
しかし一転、仕事に行き詰まり落ちぶれて妻邦子を亡くし、大日向教の教祖杉夫の世話になっていたゆき子を訪ねて葬式代2万円を借金する富岡。その彼を思いやり見送るゆき子のショットから物語はテンポを加速させ、舞台も南洋に近い屋久島に向かい、ふたりの道行きのような道づれを描きます。ゆき子が選んだのは、ひとり身になった富岡を無理やり自分にもう一度向かせること。それは大日向教の杉夫の大金30万円を横領して温泉宿に逃亡し、そこで自殺を仄めかす電報を打ち富岡を呼ぶという、かつてのゆき子からは想像できない悪徳の行動でした。一緒になりたいゆき子と違う道をお互い進もうとする富岡に妥協点はありません。しかし、杉夫がゆき子を探し出そうとしていることを知って仕方なく新天地の赴任先屋久島まで付いて行くことになる。長旅の疲れからか途中の鹿児島の宿で倒れてしまい不安が過ぎります。当時の医療技術のレベルの低さを想像すると、寝たきりで家で長期療養するのは珍しくなかったので、最後の流れは理解します。ゆき子が元々身体が弱いのは妊娠した時から描かれていたし、中絶もけして上手くいった訳でもない。当時の栄養状態も現代と比べて悪かった。ゆき子の悲劇は、好きな男と一緒になりたいがために、無理に大胆な行動に出て、自分の身体を労わることが無かったからでしょう。問題は、最後遺体を前に泣き崩れる富岡の姿です。妻がいながら占領地の職場でゆき子と関係を続け、内地に戻れば事情が変わったと身勝手に棄て、縒りを戻すかに見せて若い人妻と同棲して死に追いやり、そして屋久島で短い期間なら一緒にいてもいいという無責任さ。結局この富岡という男は、ひとりの女性も幸せにしていない。そんな男の涙になんて、誰も同情は出来ないでしょう。ここは原作と違うようですが、富岡の涙でゆき子を送りたかった映画としての終わり方を選んだようです。
不倫男を愛し追い掛ける薄幸なゆき子と、時代の波に乗れず不安定な生活でも女を渡り歩く富岡の結局は離れられない女と男の関係。この女性作家の厳しい視点で描き通した脚本を、成瀬監督は女性心理に集中して演出し、主人公幸田ゆき子の悲劇を見事に映像化しています。脚本を読んで主人公の破滅的な生き方を演じれるか躊躇したという高峰秀子の演技は、それまでの長い芸歴と女性として美しく魅力に溢れた30歳の年齢から、一つの集大成的な名演を遺しています。最後の死に化粧を施されたゆき子の美しさ。時代と男の犠牲者としてのゆき子を演じ切った高峰秀子の名女優たる存在感が素晴らしい。そしてこの高峰の演技に呼応する森雅之の演技もまた素晴らしい。日本映画では男優の演技に不満を感じるのが時にありますが、富岡の嫌らしさと狡さを見事に表現しています。おせいを演じた岡田茉莉子の鮮烈な美貌と強かな役作りも良く(何とこの時21歳!)、加東大介、山形勲の脇を固める俳優陣の充実度の高さにも感心しました。
採点は文句なしの☆5個が相応しい完成度と思います。ただ描かれた内容の好みから個人的に評価しました。それでも、「稲妻」と「あにいもうと」に加えて、成瀬巳喜男監督の凄さに敬服した愛すべき名作には違いありません。
戦前からのアプレガール♥
この原作や映画が戦前であるなら、少しは評価出来ようが、アプレゲールが百科騒乱の1950年代。朝鮮戦争が始まり、日本の復興が早まる。ある意味、『漁夫の利な特需景気』の時代。
新しい女性の生き方を描いたと過大評価するが、女性が男に食い物にされる女性の黎明期の様な話。男の為に、性の仕切りを低くした女性の顛末。この波は何一つ反省する事無く現代に続くが、何故かこう言ったストーリーがもてはやされる。
1949年に『情婦マノン』と言う男女関係を描いたフランス映画があるが、凄まじい男女関係を描いた映画だった。我が亡父はその映画の話は良く話してくれた。しかし、この類の映画を『アプレガールは不道徳だ』とディスっていた。後に情婦マノンは鑑賞したが、情婦マノンの方が毒々しい男女関係だった。この映画には笑いも危機感も緊張感も不条理すらない。戦後メロドラマの元祖なのだろう。
鹿児島から安房、宮之浦まで3時間で行ける。10時発だったら午後一番で着く。映画に出てくる様な船ではない。屋久杉の島ですよ。放浪の末の旅路の果ては普通『鹿児島』だろう。
出鱈目そのもの。
僕には最後だけが笑えるし、ザマァ見ろって思ったが、不謹慎だね。賢明に一生懸命に生きて欲しい。これからの女性には。こんな映画見て心動かさないで。
離れられない男女の成れ果て
成瀬巳喜男監督による、終戦前から直後の混乱期、男女の不倫の哀しさと成れ果てを描いた映画。林芙美子原作。予備知識があまりなく、観るまで、二葉亭四迷の「浮雲」だと思っておりました。
成瀬巳喜男氏、2作目の観賞でした。初見は『歌行燈』でした。こちらに比べると、ずいぶん重くて心にのしかかるストーリーでした。森雅之氏は以前、『白痴』(黒澤明)で観てすごく印象的でしたが、この人って「目」で演技しているような気がします。
観ていて腹が立つほど、ええ加減な口先だけの無責任男に何故、惹かれるんだろう? でも、女性の方がゾッコンという気がしますし、悲しいかな、「この男に惚れる」のも、理屈抜きで、わかってしまうところが怖かったです。ずるいのも卑怯なところも女好きでどうしようもないところ……すべてを知っているのに、離れられない、離れてもまた巡り会って追い掛けてしまう、結びついてしまう、女のサガなのか。ダメ男なのに、女をぱっと引き寄せてしまうところなどは、うまく描かれていました。(富岡とおせいの目が合い、ねんごろになる予感など)性描写はないのに、身体でつながっている男女であるのは明白だったし。温泉宿で、入浴中に、脱衣籠だけが映し出されるところなどの演出もよかったです。
雨が降り続ける、湿った屋敷、屋久島で、ゆき子が病に伏してしまい、最期を迎えるシーンは本当に哀しいですが、ゆき子の死に顔が美しく、くちびるに紅を差して、むせび泣く富岡の姿にある種のカタルシスがあったかのかもしれません。
現代風にリメイクしたら、きっと、この作品の良さは出ないでしょう。
映画の世界に呑まれる
息つく間もない2時間という上映時間。どこまでもすっきりしない腐れ縁の男と女が出てくる。ただそれだけの物語なのだが、最後まで映画の中に埋もれる感覚。少し鼻にかかった声の高峰秀子の色香と倦怠感がスクリーンいっぱいに満ち溢れている。屋久島で最後のときを迎える高峰の美しさにも感動。
宿命なるくされ縁によって繋がれた男女の至高のラブ・ストーリー
「くされ縁」とは「運命」以上の「宿命」のようなもので、切りたいと思った時に切ることができず、自然と切れそうな時は、自らそれを繋ぎとめてしまう。
本作は感傷的なメロドラマだが、その感傷を閉口ものにせずに、情感豊かに描きあげた成瀬演出は見事だ。戦中、外地の異国情緒の影響もあってか、ロマンティックな恋を初めた2人は、戦後の混乱と同時に、愛の行方を見失う。どうしようもない男に執着したがために、時代に流され最後には、故郷から遠くはなれた屋久島で病死する薄幸のヒロインの悲恋物語・・・否、そうではない。これは自分を一途に想ってくれる女の心を尊重し、いかに幸福にしてやれるかという、「男の優しさ」を描いた物語だ。このラブ・ストーリーが、特異な形をなしている最大のポイントは、戦後の時代でありながら、男がとてつもなく現代的(平成的)であることだ。この男の優柔不断さ、芯の無さは、公開当時ではどうしようもないダメ男と思われただろう。しかし、この男の優柔不断さ、芯の無さは、今現在の若者の典型であり、今現在の女性が求める理想の男性像(それが虚像であろうと)そのものなのだ。つまりは、ヒロインが彼と別れられない唯一の理由は、幸せにはなれないことがわかっていても、抗えない理想の男の魅力に他ならない。たとえ優柔不断であろうと、甲斐性がなかろうと、いつでも自分を受け入れてくれる男を、何時の時代も女は求めるのだから。
富岡は、ゆき子と初めてあった時、わざと冷たい態度をとる。故郷から離れた外地では、当然、日本の若く美しい女性はチヤホヤされるはずのところを、そのような接し方をされたため、ゆき子は急激に富岡に関心を持つ。ここですでに女は、女使いのうまい男の罠にはまってしまった。富岡には、故国に妻がいることを知りながら、彼女の方から彼の部屋へ行ってしまう大胆さ。勝気だが、マジメな女をこの行動に走らせる男の魅力は、まだこの時点ではわからない。それは、外地でのほんの火遊びで終わらせることのできない「運命の力」だ。ここから2人の流転の人生がスタートする。
戦後、外地から引き上げて来たゆき子は、富岡の実家を訪ねる。そこには男の妻の姿があった。頭では解っていながらも、現実に見る彼の妻にショックを受ける女を、男は妻の見ている前で連れ立って外へ出る。妻の姿を見ても、「俺と一緒になっても不幸になるだけだ」と男が言っても、今、自分のすぐ横にいる男の「大きな存在」をあっさり捨てることはできない。ゆき子の数奇な人生のスタートだ。彼女は生きるため、ある時はアメリカ兵相手に娼婦まがいの生活をしたり、昔馴染みの金貸しの情婦になったりと、女としては最低の生活を送る。ここまで身を落とせば普通なら、身も心もすさんで自暴自棄になるものだ。しかし、彼女には「人生をやり直して幸福になる」という強い希望を実現させようとする不屈のパワーがある。そしてその「幸せ」には「富岡の愛」がセットになっているのだ。たとえ1人の力で成功したとしても、富岡のいない人生は意味がない。しかし富岡との生活は、必ず不幸が付いてくるのだ。
さて、富岡は「優しい男」だと前に述べた。何故優しいのか?それは、「来る者をこばまず」という姿勢だ。一見これは、節操のないことのようにも思えるが、ゆき子のような女にはとても大切なことだ。この時代で、娼婦まで身を落とした女を受け入れてくれる男がどれだけいるだろうか?いや、この時代だけでなく、「女の貞操」など死語となったフリー・セックスの現代でも、男性はえてして、不特定多数の男と交渉を持つ女を嫌うものだ。ましてや男尊女卑の時代では、たとえ自分がその原因となっていようと、他の男に抱かれた女を、男は決して受け入れないものなのに。しかし、富岡は、女の身の上全てを承知していながら、久しぶりに逢った時でも、「やあ、どうしたの?」と、つい昨日別れたばかりのような、さりげない挨拶のできる男なのだ。女が言いたくないことは何も聞かず、当たり前の笑顔を返してくれる男の温かさ。どんな犠牲を払ってでも、それは繋ぎ止めておかなくてはならないものだ。ただ、富岡の場合、その「優しさ」はゆき子だけに向けられているのではないということが玉にきずなのだが・・・。そのよい例が岡田茉莉子演じるおせいの存在である。富岡はこともあろうにゆき子との旅先で、知り合った男の若い妻、おせいに好意を持ち、同棲するに至る。しかもゆき子は富岡の子供を妊娠していたのだ。この行為、富岡が極悪非道のようにも思えるが、私の「富岡=優しい男」の法則から考えると、いたしかたないことなのだ。富岡が一目でおせいに興味を持ったのは、もちろん彼女が若くて美人なこともあるが、「ここから逃げたい」と思っていることを感じ取ったからなのだ。その強烈なSOSサインを、優しい富岡にはとうてい無視できるものではなかったのだ。富岡はおせいを捨てることはなかった。富岡には、「遊び」という付き合い方はできない。その証拠に、おせいの夫は、富岡ではなくおせいのほうに制裁を加えたのだから。そう、「優しさ」というものはこの世で最も恐ろしい行為なのである。
さて、ゆき子はおせいとは違い、富岡に助けを求めたことはない。彼女は決して従属型の女性ではないのだ。彼女は自分の行動には全て自分で責任を持っている。富岡の子供を墜ろす決心をしたのも彼女1人でであった。基本的に彼女は1人で生きていける強い女性だ。だからこそ、富岡のように、ふと気弱になった時に、黙って受け入れてくれる男性が必要なのだ。自分をひっぱっていってくれる強い男でも、始終べったり一緒にいてくれる甘い男でもなく、富岡のような優しさの男でなければならないのだ。
皮肉なことに2人が真の幸福を掴んだのは、ゆき子が病で世を去る時だった。ここまで、一方的にゆき子の富岡へ対する激しい想いしか表立って描かれていなかったが、2人が新たな人生をスタートさせるべく選んだ屋久島への道中で、富岡のゆき子へ対する深い愛がはっきりと感じられるようになる。重い病にかかり、動けなくなったゆき子を献身的に介抱する富岡。ゆき子を置いて、先に島へ渡ろうと思えばできた富岡だったが、彼は彼女を置き去りにすることはなかった。港を出てゆく船を見送り、ゆき子のためにみかんを買う富岡の複雑な心中は察するにあまりある。ようやく2人で島での生活をスタートするも、湿気の多いこの地では、ゆき子の病状は悪化するばかりだ。それでも、2人は絶望することはなかった。最後の朝、軽口を叩き合う2人。そう、このシーンが私はとてもとても好きだ。表面的にはふざけたような軽い会話だが、その中に秘められた2人の深い愛が、たとえ死を目前にしていようとも、幸福であることを物語っているからだ。富岡はゆき子の死に目は会えなかったが、最後に安らかなゆき子の唇に口紅を塗ってやる。そして、それまで飄々としていた彼が、ここで初めて声をあげて泣くのである。この涙、悲しみか?哀れみか?絶望か?それとも安堵か?何であろうとゆき子の前では決して涙を見せなかった彼は、やはり優しい男なのだと私は思う。
これは宿命なるくされ縁によって、愛に流されたのではなく、愛を貫いた男女の至高のラブ・ストーリーだ。
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