生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件
劇場公開日:1985年3月2日
解説
実際に起きた無差別凶行《新宿バス放火事件》に遭遇した女性の愛と苦悩を描く。杉原美津子の手記『生きてみたい、もう一度』の映画化で、脚本は「イヴの濡れてゆく」の渡辺寿、「ザ・オーディション」の中岡京平、「しあわせ」の恩地日出夫の共同執筆。監督は恩地日出夫、撮影は「F2グランプリ」の上田正治と「逃がれの街」の岸本正広がそれぞれ担当。
1985年製作/126分/日本
原題または英題:I Want to Live Once More
配給:東映クラシックフィルム
劇場公開日:1985年3月2日
ストーリー
1980年8月19日、夜、京王バスが浮浪者・丸山博文によって放火された。乗客の一人・石井美津子は、全身やけどをおい大学病院に運ばれる。プロカメラマンの彼女の兄・義治は、妹が乗っているとも知らずシャッターを押していた。美津子は浦安の葛南病院に転院、中島医師の治療をうけ、長期間の入院加療が必要であり、生命の危険を有すと診断される。植皮手術のあと、彼女はリハビリを受け、母なお子と外出できるまで回復した。そして、植皮手術完了後、美津子は同じ編集プロダクションに勤めていた愛人・杉原荘六と喫茶店で会った。彼女はバスが放火された時、今死ねば楽になると一瞬立止ってしまったことを告げた。荘六には妻がおり、当時、美津子は彼のため金策に走りまわっていたのだ。春になり、荘六の妻がガンで死んだ。美津子は退院した。ある日、荘六が美津子に結婚を申し込みに石井家を訪れた。二人は一緒に暮らすようになる。美津子は以前、自分を取材しにきたNHK社会部の記者・斉藤に頼み、丸山の初公判の際の検事側冒頭陳述書を見せてもらう。美津子は荘六の妻が死んだことで丸山と自分が同じなのではないかと思いはじめていた。荘六の事業がうまくいかなくなり、美津子は家賃が滞納になっていることを知った。また、借金取りからの電話が続いた。美津子は留置場の丸山に手紙を書いた。後日、彼女は丸山に面会に行くが拒否される。翌日、丸山からの返事が美津子のもとに届いた。喜ぶ彼女に荘六は死のうと言いだす。二人は北陸本線に乗って東尋坊に着いた。その夜、美津子は斉藤にいますぐ来てほしいと連絡した。それを知った荘六は、舌をかみ切ろうとする。暫くして、斉藤がやって来た。彼は二人を東京に連れ帰って、弁護士に紹介した。美津子は荘六とともに生きたいと心の底から思った。二人は債権者から逃げるため、一時東京を離れた。戻ってきた美津子に、なお子は家に帰ってくるように説得するが、美津子は聞きいれない。そして、丸山に無期懲役という判決がでた。