劇場公開日 1991年10月19日

「日本映画の歴史に残る名作です」あの夏、いちばん静かな海。 あき240さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0日本映画の歴史に残る名作です

2020年6月11日
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鑑賞方法:DVD/BD

一切の無駄を削ぎ落とした傑作
その上で、様々な小ネタのギャグをチャップリンの無声映画よろしく要所要所に挿入してあり退屈しない娯楽作品としてキチンと成立させています
決して独りよがりな映画ではないのです
北野武監督の才能は物凄いと思います
また巨匠久石讓の音楽が素晴らしく、これは反則というほどに感情を揺さぶります
正直、涙腺が始終緩み放しでした

主人公とその彼女に台詞を話させない設定は、無駄を削ぎ落とす、そのためにあると思います

周囲の人々には台詞がありますが、それは状況とか展開の説明としてどうしても必要な場合のみ
無声映画での文字画面の役割を担っているのです

その他に会話はあっても、それはその場の騒音の一つ、効果音の一つでしかありません
だからはっきりとは聞き取れない程度の録音にわざとしてあります

ほとんど全て、観ればわかるでしょ、という方針と態度で撮影と編集をしてあります
正に無声映画としての撮影態度だと思います

そして、それは観客を信頼している態度なのだと思います
自分の作品を観にくるお客さんは、必ずついてこれるはずだと
つまり観客を馬鹿にしていないのです

近頃のテレビは、なんでもかんでも会話にテロップを入れるのが風潮のようです
テレビ局は視聴者を信頼していないのです
馬鹿にしているのだと思います
どうせ真剣に視てくれてないでしょ、という絶望なのかも知れませんが

そうして不要なものをできる限り排除したとき、残ったものは、純粋で繊細な心の動きなのです

私達は若い二人の恋心の動きを瑞々しく、自分のものとして感じることができるのです

キタノブルーとして有名な青のモチーフが冒頭から多用されています
処女作のその男、凶暴につきでも、印象的な青のシーンが見られました
しかし本作では、明らかに意図的に青を使っています
もちろんサーフィンと海岸が舞台になりますから、青空と海の青は必然的に増えます
しかし青をだすために、かなりの工夫と努力で撮影に取り組んでいます
白っぽく抜けてしまったりするシーンはありません
青空に露光を合わせると、被写体の人物が黒く沈んでしまうのを強力な照明で防いでいます
確かに若干色調を青みかかったように調整しているシーンもありますが、青フィルターでごまかすような安易なものではないです
例外なのは、終盤の雨の降る曇天の海岸シーン以降だけです
悲劇の暗示をそれを持って代弁させています

青とは、ピカソの青の時代の絵画と掛けて有るのかもしれません
漠然とした不安、寂寥感、陰鬱な気分を象徴するものかも知れません

清掃車も青、拾ったサーフボードのサイドラインも青、雨の日に彼女がさす傘も青でした

また、その他のカメラワークも素晴らしいものがあります

夜のバス停で別れてからのシーンは屈指のカメラワークです
団地の前で、やっぱり彼に会いたいと、停車ボタンを押して、彼女はバスを降ります
カメラのピントは、当然彼女の顔に合わせてあり、次止まりますの赤いボタンのランプはボケて背後に写り込んでいます
ところが彼女がバスを降りても、カメラは彼女を追いません
余韻を持ってそのままボケたままランプを写すのです
まるで彼女の瞳が、涙で潤んで滲んでいるかのように

そして彼女が駆け戻って、歩いて帰る彼に再開してからのシーン
二人ならんで夜の暗い歩道を歩き去って行く、背後からのショットは殊の外美しく、心に残りました

真っ直ぐな歩道、黒々とした団地の屋上の稜線、歩道の白い街灯、車道の黄色いナトリウム灯の灯り
それらが遠近法の消失点に向かっ定規で当てたように直線的に延びているのです
二人はその消失点に向かって歩いていって、もうちいさくなっています
二人の幸せな恋愛の始まりです

こうした撮影のこだわりがラストシーンに結実します

あの夏、いちばん静かだった海

タイトルがエンドマークの代わりにでます
強烈な感動です
ここで涙腺が決壊してしまいました

あの夏とは、
あのサーフ大会のあった夏のこと

そして、いちばん静かだった海とは、
あの雨の日の三浦海岸の浜辺に打ち寄せられている彼のサーフボードを見つけた時の海のことです

そして、いま彼と二人で写っている記念写真とそれを貼ったサーフボードと共に海に入っていく今現在の千倉の海のことでもあったのです
ラストシーンにタイトルが初めてでるのです
つまり現在とはラストシーンなのです

全編が総て彼女の回想シーンだったのです
今彼女は彼の遺したサーフボードにあの夏の思い出の写真を貼り付けて、彼の元にいこうとしているのです

黒澤明監督は、あの結末は不要なのではと感想を述べられたところ、北野武監督はあれは観客へのサービスです、とお応えになったとのことです
確かに青春物語としてはそれで完結しています

しかし自分にはこれは北野武監督らしい照れ隠しの受け答えのように思えます

何故、本作のタイトルはこれなのか?
何故、それがエンドマークの代わりにでるのか?
最初からこれこそが主題であったのは明らかです
決して観客サービスというものではなく、本作の核心をなしていたのだと思うのです

日本映画の歴史に残る名作です

あき240