劇場公開日 1956年3月18日

「赤線地帯の倫理と資本主義の精神」赤線地帯 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)

3.5赤線地帯の倫理と資本主義の精神

2014年10月4日
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鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

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二度目の鑑賞。原作の「洲崎の女」の洲崎は川島雄三「洲崎パラダイス 赤信号」の舞台となった赤線。
やはり悪い女を演じる若尾文子がいい。金、金、金。金こそが次なる金を生み出すことを骨身にしみて理解している遊郭の女を、肩の力、目の力を抜いて、淡々と演じて見せる。
これぞ「赤線地帯の倫理と資本主義の精神」である。
これは幾つかの家族のあり方についての物語である。ここに出てくる女郎たちは、それぞれの事情があってその家族から離れて、遊郭「夢の里」で働いている。親の犠牲になってここへ来た者、子の犠牲になってここへ来た者。職を失った夫に代わってここで働く者。父親への反発から出奔してここへたどり着いた者。結婚生活の夢破れてここへ戻ってくる者。
家族という近代の作り上げた枠組みが破たんした結果、女たちが「夢の里」へやってくるのである。彼女たちは生きていくための金を稼ぐためだけにここにいるのではない。あるものは失われた誇りと経済的自立の回復を企図し、あるものはここ以外の居場所を見つけられずにいる。そして、この夢が醒めたら行くはずの世界が失われたときに行く先は精神病院なのだ。
「俺たちは政治の行き届かないところで社会事業をやっている。」
遊郭の旦那がうそぶく言葉の欺瞞を糾弾することはたやすい。しかし、もともと政治の及ばない領域のはずの家族や性の問題に、法律の光が当たるようになってきたことに、旦那も女郎たちも当惑していることは確かである。
そして件の「売春防止法」によって、政治権力、警察権力の空白地帯を埋めていく結果となるのだ。
今や、家庭と学校とを問わず教育の問題にも権力が介入する事態が日々報道される。幼児虐待、度を越したいじめなどの問題は社会として解決の迫られる問題なのかもしれない。
しかし、そうした問題の解決策として、政治権力が人間関係のあらゆる部分に介入する。赤い線の中も黒い組織もすべて漂白されていくのが現代なのだ。溝口健二は、このように社会の隅々までに政治的な正しさが要求される時代の戸口をこの作品で素描している。

佐分 利信