あ・うんのレビュー・感想・評価
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俳優とドラマの中の人物とのミスマッチ?
以前、やはりTVで観た記憶があるが、
詳細については忘却の彼方だったことや、
不倫まではいかないとしても、
誰にでもあるであろう伴侶以外の異性への
想いを描いた作品ということで、
自らの胸に手を当てて再鑑賞してみた。
己の果たせなかった異性への想いを、
同じ経験をさせたくないとして、
その娘の想いを遂げさせようとする
ラストシーンでのテーマへの集約性の狙いは
分からなくもないが、その前提になるのは
あくまでも“忍ぶ”想いだ。
しかるに、本来はそんなキャラクターに
ピッタリのはずの俳優をキャスティング
しながら、
やたら陽気に振る舞ったり、
照れ隠しのためとしたいのか、
“忍ぶ”想いとは懸け離れてしまった男女二人
の描写は残念と言うしかないし、
温泉での夫婦が間違えられるエピソードや、
想う人妻を泣かせたくないから
親友の浮気相手を囲うとした点も、
この作品のテーマの補強のつもり
なのだろうが、
高倉と富司二人のキャラクターからは
懸け離れ浮いてしまったギャグのようにしか
感じられなかった。
しかも、本来は、想いを寄せる人に会わない
とする決心のために
親友を怒らさせたはずなのに、
三木のり平扮するスリに言われて、
簡単に翻意して彼女に会いに行く設定など、
一貫性を感じられない展開に
安易さを感じる。
果たして向田邦子の原作は
どうなっているのだろうか。
せっかく高倉健と富司純子という、
“忍ぶ”に相応しい俳優を配しながら、
彼らの俳優気質から遠く離れて見えるのは、
そもそものミスキャストなのか、
配役に応じた改変が不充分な脚本
の問題なのか分からないが、
残念に思わされた作品だった。
高倉健、富司純子が主演する映画となればヤクザ映画を即イメージしますが、芸者はでますがヤクザは一人も登場しません
あ・うん
高倉健、富司純子が主演する映画となればヤクザ映画を即イメージしますが、芸者はでますがヤクザは一人も登場しません、全員真っ当な堅気の人間ばかりです
なので東映ではなく東宝の映画です
高倉健、富司純子の黄金コンビ主演の映画はたぶん1972年の富司純子引退記念映画 関東緋桜一家以来で17年ぶりです
物語の時代も昭和残侠伝の昭和初期でほぼ同じ頃の設定です
この二人の出演なれど、いつもの雰囲気の映画では全然違うので、肩すかしを食らった気分です
ところが、映画が終わってみると、これは確かに健さんや富司純子の映画を観たとという満足感があるのです
タイトルを漢字で書くと阿吽だそうです
辞書によると、 「梵字の12字母の、初めにある阿と終わりにある吽。密教では、この2字を万物の初めと終わりを象徴するものとし、菩提心と涅槃などに当てる」とあります
また、「仁王や狛犬などにみられる、口を開いた阿形と、口を閉じた吽形の一対の姿」のことや、
「吐く息と吸う息。呼吸」などとあります
転じてあ・うんの呼吸という言葉の方が一般的ですね
互いの気持ちや息がぴったりと一致していることです
本作では門倉と水田の戦友という間柄がそれを意味しています
どけども門倉、水田の2組の夫婦があ・うんの呼吸とはいえません
たみと門倉の間も気は通じていてもそこまではとてもとても
本作はやはり元プロ野球選手の板東英二につきます
彼でなければ成功しなかったとおもいます
数々の映画賞で助演男優賞に輝くのは当然の名演です
上手い下手で言えば下手なのですがなんとも味わいがあるのです
これを演技の上手い劇団出身の俳優がやっても嘘ぽくなるだけです
本作以後四十七人の刺客や鉄道でも高倉健さんと共演されて活躍なされたのはご存知のとおり
まさに富司純子のためのあうん・・・
徘徊型映画かな
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戦友の高倉と坂東は仲が良く、高倉は坂東の嫁が好きだった。
坂東が遊びすぎでその嫁が心配がるのを高倉が注意する。
高倉は偉そうに言っておきながら自分は浮気してる最低野郎。
坂東の娘はお見合いで知り合った青年を好きになるも坂東に却下される。
それでも密会を重ねていたが、坂東がジャワ島かどっかへ転勤に。
行きたくないとゴネる中、青年に召集令状が届いて終わり。
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うーん、高倉健は嫌いじゃないけど、主演映画は大体つまらんの法則。
全体にダラダラ徘徊型で、日常を描いただけって感じ。
藤さんは久しぶりに見たけど、可愛らしい人やなと改めて思った。
富田靖子も久々に見たけど、可愛いなあ。
純愛の三角関係
特高批判
寝台戦友で20年来の親友である門倉(高倉)と水田(坂東)。門倉は水田の妻たみ(富司)に好意を持っている。それを水田の娘さと子(冨田靖子)はプラトニック・ラブと称し、お見合い相手の石川(真木)と破談になったにも拘わらずこっそりと付き合い、その石川は特高に捕えられてしまう。 水田は芸者のまり奴に惚れて通い詰めるが、そのまり奴を門倉は大金をはたいて芸者をやめさせる。ときは日中戦争前夜。門倉の会社も軍需景気によりアルマイト弁当箱で急浮上した会社だった。
どちらかというと、女が憧れるような男の友情。助け合い、罵り合い、それでいて言葉に出さない奥底にある絆。その嫉妬にも似た憧憬は修善寺温泉で眠りこけた男たちに豆をはじいてぶつける富司純子の映像が象徴している。狛犬の“あうん”を見るシーンは冨田と真木。
ラストでは石川が召集令状を受けたと水田家を訪れる。「追いかけなさい。責任は俺が持つ」と諭す門倉。「特高に睨まれて召集された者は必ず戦死する」などとドキリとする発言を平気で取り入れるところが憎い。
ライトな中にもチラつくシビアな面
冒頭、鼻歌を歌いながら旧友を迎える準備をする高倉健。
こんな高倉健を見るのも珍しい。
寡黙で無骨で漢の中の漢のイメージが定着しているが、今作では、よく笑っておちゃらけてライトな印象、それでいてダンディーで優しいおじ様。
プライベートでは面倒見が良くてお喋り好きでユーモラスな面もあったという高倉健。ひょっとしたら素の顔に近いのかも。
でも、ぐっと内に秘めたもの、雨や雪の中に佇む姿などはやっぱり格好よく映える。
監督は降旗康男、撮影は木村大作とお馴染みだが、原作は向田邦子。
高倉健が向田邦子作品に出演というのも何だか新鮮。
映画はほのぼのとした文芸作品、上品で感動的な大人の喜劇になっているが、ちょっと調べてみたら原作はシビアな要素もあるようで、映画もその影がチラつく。
20年来の戦友にして親友である門倉と水田。
門倉は水田の妻・たみに想いを秘めている。たみも門倉に想いを秘めている。
それを知りながら友情を続ける水田。
不思議な三角関係はずっと平穏である筈だったが、ある時から亀裂が。
昔、女関係で女房泣かせだった門倉。その妻には嫉妬深い面が垣間見れる。
水田の娘・さと子は一度見合いを断るが、その相手と密かに“プラトニック・ラブ”な交際を続ける。が、その青年はアカの容疑で特高に捕まる。
時代は昭和初期。
木村大作の撮影、村木忍の美術、ベテラン二人の手腕でモダンでノスタルジックな昭和の雰囲気を醸し出すが、日本はこれから…。
作品の中からも戦争の足音が聞こえる。
それを思うと、さと子と出兵する青年の別れ、門倉と水田とたみの雪の夜のラストシーンは悲しく、儚く、温かくさせるものを感じさせずにはいられない。
●役者がみな輝いてる。
この時代らしい、奥ゆかしい恋と友情
総合70点 ( ストーリー:70点|キャスト:80点|演出:70点|ビジュアル:70点|音楽:65点 )
坂東英二の演技が上手とは思わないのだが、この作品の中で高倉健と対した時には、自分が彼に敵わないと達観しつつも信頼して友情を保つ三枚目役が良く似合っていた。富司純子は秘めた胸のうちを明かすことなく謙虚に貞淑な妻を演じて家庭を守る。健さんと織り成す人間模様が、礼節を持って謙虚に生きる姿と相まって奥ゆかしい。
しかし、健さんは坂東のその家族への態度はかっこいいが、実は自分の妻をないがしろにし家に帰らず女遊びもする男である。だから彼の妻はかなり不満たらたら。健さんの見せるいい男っぷりは彼の演技でもたらされていて、役柄上の二面性はどうしようもない駄目な部分ということだろうか。だが、そこがあまり描かれていなくて、健さんと坂東家の綺麗なだけの話になっている。そのあたりが何かすっきりしなかった。
『あ・うん』
恋の不自由さ
映画の中で富田靖子が、「大切なことは誰も口にしない」と高倉健に話す場面がある。向田邦子の原作は、この登場人物たちが口に出しては語らないことを、中心に語っている。原作を読んだことはないが、登場人物が口にしないことを語ることは、やはり、紙に印字された小説よりも、映画のほうが得意とするところだろう。ただし、映画では、語らないことが主題なのではなく、口にすることのできない不自由さ、優しさが、すなわち恋をしている状態というものの不自由さや優しい気持ちが主題として描かれている。
健さんの恰好良さは、ここで駄文を捏ねて言及するまでもないが、板東英二と富司純子の演技の素晴らしさは、一言述べておきたい。
健さんが見ているとも知らず、健さんの名前を刺繍した手拭いを手におどけている富司の、少女のように無邪気でコケティッシュな様子。落ち着いた大人の女性を演じている富司しか知らない私にはとても新鮮で、何とも言えない可愛らしさが感じられた。今リメイクするなら、ぜひ息女、寺島しのぶに演じさせたい役柄である。
そして板東英二。これほど、女房を寝取られることに諦念を抱く役がはまる俳優がいるだろうか。この物語では、実際に寝取られることはない。しかし、自分の妻を寝取られても仕方がないし、友情を裏切ってそのようなことは決してしない男だと、心から惚れ込んだ男に対して、ある意味負けを認めて付き合っているのだ。
もしこの役が、健さん同様、映画でのキャリアが長い手練れの俳優が演じていたらどうであろうか。画面は落ち着きを取り戻し、くさい芝居は見当たらなくなるだろう。しかし、この作品に見られる何とも据わりの悪い感覚、自分の女房でありながら、目の前で繰り広げられる恋愛模様にたいしてぎりぎりで体面を保たねばならない男の切なさを観客は体感できただろうか。おそらく、観客の頭の中では、そうした男の感情が想像されることは難しくなかっただろう。しかし、画面から直接に感じ取ることができたかどうか。健さんと板東。この組み合わせであったからこそ、観客は、二人の、いや富司も加えた三人の、温かく幸せなのだけれど、少し居心地の良くない状況を体感することができたのではなかろうか。
今リメイクをするにしても、板東の役を担える役者がいるだろうか。
巷に雨が降るごとく、わが心にも雨ぞ降る
映画「あ・うん」(降旗康男監督)から。
若い頃の高倉健さん、けっこう笑っているんだなぁ、と
ひとりで苦笑いしながらメモを取っていた。
その高倉健さんが、フランスの詩人「ポール・ヴェルレーヌ」の
「言葉なき恋歌」(訳:堀口大学)をさらっと口にするあたり、
昔の人は教養があったなぁ、なんて妙に感心したりした。
「巷に雨が降るごとく、わが心にも雨ぞ降る」
堀口大學がこの詩を訳して発表したのが「昭和12年」だから、
作品冒頭に映し出される「昭和十二年春」の文字ともピッタリ。
当時の人は、普通の会話や呟きにも「詩」が引用されたりして、
そのちょっと気取った会話が、私のアンテナに引っかかる。
「会いたいときに、会うのを我慢するのも愛情なんだよ」
なんて台詞を、サラッと言ってしまう高倉健さんが、輝いていた。
脇役の「板東英二」さんって、野球の選手だと思っていたら、
こんな映画にも出ているなんて驚きであった。
タイトルの「あ・うん」は、2人の関係を表しているのだろうが、
なかなか分かりにくいかもしれない。
作品の中では「(あの2人)狛犬ですね、似てませんか?」
「父と門倉のおじさん?」
「狛犬さん『あ』」「狛犬さん『うん』」だけだからなぁ。(笑)
P.S.
「修善寺・新井旅館」、昔の映画にはよく使われていたなぁ。
健さんと英二
健さんはかっこいいなあー。
ほんと惚れ惚れする。
健さんと共演する俳優さんも相乗効果なのか何なのか
他の映画に出ている時より、かっこよく見えてくるから不思議だ。
例えば
「昭和残侠伝 唐獅子牡丹」の池部良とか。
(化粧が濃すぎてちょっと笑うけど)ピストル持った姿はもう悩殺もんです。
「君よ憤怒の河を渉れ」の原田芳雄なんて存在感ありすぎで主役をくっちゃう渋さです。
「駅/STATION」の根津甚八…すごかったー。夜の線路のシーンは日本映画史に残したいくらい美しい。
「夜叉」の北野武。若かったというのもあるけど北野作品に出てる時よりも、何をするかわからないヤバさに溢れてる。
健さんは、男を美しく照らす光だ。
(「海へ See you」みたいに健さんの力をもってしてもどうにもならなかった映画もあるけど…)
本作「あ・うん」の共演者は板東英二なわけで。
本作観てない人は板東英二がかっこよくなる筈がないとお思いでしょうが…。
健さんは板東英二ですら美しく照らすのですよ。
「あ・うん」の坂東英二は本当に素敵だ。切ない。そしてかっこいい。
こんな素敵な板東英二はこの先見ることは絶対にないだろうが…。
健さんと英二の神社のシーンがいいなあ。全然悲しいシーンじゃないのに涙がでる。
健さんには、これからもたくさんの男たちを美しく照らし続けて欲しい。
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