ひなぎくのレビュー・感想・評価
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デザイナーが作ったような、THEオシャレ映画
岡崎京子、矢川澄子、小泉今日子、野宮真貴、ヴィヴィアン佐藤、SCANDALのRINAや、
ファッション誌を飾る水原希子、まつゆう*、青柳文子、AMOなどのモデル達も、
「大好きな映画」と絶賛する60年代ガールズムービーの決定版!!
だそうです。
キュートな白人の女の子ふたりがオシャレな服を着て、ドタバタふざけてる。
ほぼ、そんな内容ですが、まーオシャレです(笑)
1966年チェコスロバキア作で、センスいいファッションデザイナーが作ったような、オシャレ映画。
ストーリーを追うってより、画を観てるだけで楽しめます。
この映画が好きだと言うだけで、オシャレな人なんだなと思う(笑)
そんな映画です(笑)
もっと、この監督の作品を観たくなりました。
デザイナー、モデル、オシャレさん、必見です!!
最後に苦言を…
肉などをワザと踏んづけたり、食べ物を粗末にするのはダメだ。
唯一無二のスペシャルな映画だった!
初めは、久々にこういう筋書きの無いアート映画観るなー、最近そういうの無いもんなー、ゴテゴテの伏線回収とかそんなんばっかだもんなーと思っていたら!
なんと、この作品アート映画でありながらも、きちんとコンセプトを持った作品だった(ように思った)
ラストの
「これしか浮かばなかった」だとか
「サラダを踏み躙られて気分を害する人にこの映画を贈る」だとか、
笑ってしまったけど、同時に盛り上がる感覚もあって。
本当に何も無くて取ってつけたのかもしれないけど、それでも良いじゃ無いか。スカッとした。
人間、労働が無いと生きていけないのかもなーなんて、ラストの掃除シーン見て思いましたよ。
誰かが「労働以外に生きてるって実感できることある?」って言ってたけど、それを思い出したり。
途中の部屋が燃えるのとか、
ハサミでチョキチョキしたりとか、
どうやってやったのこれ!?ってシーンが多くて
初めて観るような本当にスペシャルな映画だなと思いましたよ。
こんな映画あって良いよな、
こんな映画あると助かるよなって映画でした。
全然、現代に贈れるフェミニズム映画であった。
1960年代、女子ふたりが破天荒にやりたい放題する様子。 言葉や振...
1960年代、女子ふたりが破天荒にやりたい放題する様子。
言葉や振舞いにどこまで共感するかはさておき、
色や音の使いかたがアート的でした。
出だしから半ば過ぎぐらいまでは、共感をもって観られましたが
他人のお食事をむさぼる、食材や食器を破壊し踏みつけるところは、理解が追い付かず。
この映画の作り手さんの価値観・表現手段も、有りえるものだとは思うのですが、
食べ物を作る・耕す・養う側の目線でみると、正直、耐えられませんでした。
物語として考えず、絵面や音遣いのアート作品として割り切れば、たしかに楽しめました。
ガーリーは正義! 60年代のパパ活&クチャラー! 戦争にひた走る時代にこそ必見の映画。
イメージフォーラムのレイトショーはなかなかの入り。
若い女の子も多数。大切だよね。
こういう「元祖」みたいな映画が、世代を超えて継承されるのって。
もともと『ひなぎく』といえば、イメージフォーラム。
VHSやDVDがダゲレオ出版から出ていたこともあって、
恵比寿や新宿のTSUTAYAでは、同じ版元のシュヴァンクマイエルやブラザーズ・クエイ、イジー・バルタ、スーザン・ピットあたりと、「カルト」「クィア」みたいなコーナーを形成して、並べて置いてあったのだ。
今回は、『栗の森のものがたり』と『メドゥーサ デラックス』を観に来たついでに、せっかくなので観て帰った次第。
昔、大学時代に観たときは、単にアーパー娘がわきゃわきゃアホやってるだけの前衛映画ってイメージが強かったのだが、こうやって数十年ぶりに改めて観ると、ずいぶんと政治的メッセージ性の強い映画だったんだなあ、と痛感。
シブヤ系アーティストや岡崎京子あたりがやたら絶賛してることから、世の中的にはファッション映画と捉えられる傾向が強いけど、作られた60年代チェコの政治状況からすれば、これはまさしく反骨の映画であり、自由を求めて権力に公然と抵抗するリベリオンの映画である。
まず、出だしのクレジットから、陸軍の十字砲火や爆撃機による地上や空母への爆撃のフッテージ映像と、グルグル回るフライホイールの映像が交互にモンタージュされる。背後では、小太鼓の連打とラッパのプップクプー。
その後、自由を奪われて人形のようにへたりこんだマリエ(偽)姉妹が登場し、ぎりぎりときしんだ関節の音をさせながら、ぎくしゃくと動きだし、左のマリエは鼻をほじり、右のマリエはラッパを吹き鳴らす。
2体の人形はしゃべりだし、次第に生気をその身に宿し、やがてこの穢れた世界に放たれる。腐敗した世界を笑い、放縦と蹂躙の限りを尽くすために。
この流れで吹き鳴らしている以上、ここでのマリエのラッパは「進軍ラッパ」なのだ。
この映画は、少女たちが「ガーリー」を武器に世界と闘う「戦争映画」なのだ。
一方で、このいかにも人形に命が与えられて下界に遣わされる(そして、知恵のリンゴの実をたわわに実らせた木を中心とする、デイジーが咲き乱れるエデンの園に転送される)ように見える冒頭からは、監督のヴェラ・ヒティロヴァーが素養として、チェコ・アニメーションの伝統をも継承しているのではないかと感じざるをえない。少女二人の扱いが「人間の演者に演技させている」というよりは、ストップモーションの監督がすべてを決めてコマ撮りで動かしている感覚にとても近いからだ。
この映画におけるマリエ1とマリエ2は、能天気に好き勝手を繰り広げているかに見えるが、実はヒティロヴァー監督が手足を動かしている「傀儡(くぐつ)」なのであり、彼女たちの自由意志で動いているわけでは必ずしもない。
二人は、すべてをヒティロヴァーが「やらせたい」ように、一挙手一投足に至るまで振りつけられた「人形」なのだ。だからこそ、二人は街で見つけて来た演技経験のない素人でなければなかったし(マリエ1はシネマクラブで見つけた帽子屋の店員、マリエ2は共産党のマスゲームでビラを渡した女子大生だそうな)、監督によって起動させられた人形であるがゆえに、ここまで「無垢」で「無軌道」で「向こう見ず」な存在たりうるのだ。
チェコ・アニメーションとのつながりでいえば、途中で木のくるくる丸まったおがくずを用いたコマ撮りの部分があって、あそこらへんはほぼほぼシュヴァンクマイエルそのまんまである。
なんにせよ、『ひなぎく』が呈示した「無敵の女の子二人組」というキャラクターは、間違いなくその後量産される「二人セットの女子」のアイコン――規範となった。
身長差のある凸凹コンビ。
かたや金髪のボブに、無垢の象徴たるデイジーの冠をかぶり、
かたや黒髪のツインテに、堕落の象徴たるヴェールをまとう。
Aラインのワンピで街を闊歩し、ときには水着、ときには裸で観客を蠱惑する。
つけま。ぶっといアイライン。大口。ケケケ笑い。
『ひなぎく』の二人がいなければ、もしかするとPUFFYも、ゆいかおりも、harmoeも存在しなかったかもしれないし、『少女革命ウテナ』の影絵少女も、『パンティ&ストッキング』も、みんな生まれなかったかもしれない。
少なくとも『ひなぎく』のアイコンは、間違いなくシブヤ系歌姫のヴィジュアルに強い影響を与えたし、ファッション界やCM界にもそのセンスは援用されてきた。昔のレナウン娘だとか、今のルミネあたりで流れているガーリーなコマーシャルなんて、まさに『ひなぎく』チルドレンのようなものだ。
『ひなぎく』の中身自体は、それこそどうでもいいことの詰め合わせだ。
マリエ1とマリエ2は、既存の権力を蹂躙する。
「父親のような齢の紳士」を籠絡し、食事をおごらせ、身体も与えずに電車に乗っけて追い返す。まさに今でいうところの「メスガキパパ活」である。
あるいは、「大人の社交場としてのナイトクラブ」に闖入し、ボックス席で暴れまわったあげく「1920年代スタイルのダンサー二人組」のショーを徹底して妨害する。
あるいは、豪勢なお屋敷の「奢侈なシャンデリア」にぶらさがって、ブランコにして猿のように遊びまわる。
あるいは、デコレーションケーキの置かれたパーティ会場で、ひたすらケーキ投げにいそしむ。
あるいは、共産党の幹部連中のために用意されたと思しき饗宴のテーブルで、くちゃくちゃ汚い音を立てながら、食べて食べて食べ倒す。最後はテーブルにあがって、料理を踏みしだきながらランウェイよろしく闊歩し、転がり回り、「豪華な食卓」それ自体をめちゃくちゃに壊し尽くす。
とにかく、二人の言動は「アナーキー」で「破壊的」。
しかもそれを、「怒り」や「思想」に基づいて行うのではなく、
子供の「笑い」と「遊び」と「いたずら」の延長上で、
あくまで「無垢」に「無邪気」に、やってのけるのだ。
だから、観客も怒らない。みんな半笑いで観ている。
少女であること――可愛いことは、既存の権力に立ち向かうにあたって、圧倒的な「武器」たりうるのだ。
権威と戦うためには、それを破壊するだけの野放図さが必要で、
単に野放図であるだけでは、大衆がそのレジスタンスに共感してくれない。
大衆を味方をつける野放図さ、誰からも許される反権威というのは、
極限までカッコいいか(チェ・ゲバラとか)
極限までバカまるだしか(チャップリンとか)
極限まで可愛いかしかない。
それが、武器としてのガーリーだ。
常に適当であること、真剣でないこと、いつも笑っていること、世間の無用者であること。
それが、彼女たちが世界を破壊するための免罪符だ。
結果的にやらかしていることが、ただのパパ活だったり、パリピ飲みだったり、くだらないパイ投げもどきだったとしても、それが一体どうしたというのか。
ここでバカのかぎりをつくしているアーパー娘×2は、民衆に満ちるエネルギーの象徴だ。
チェコスロヴァキアを支配する共産党とソヴィエトという圧倒的な権力に立ち向かい、それを内側から破壊し尽くそうとする、哄笑するジャンヌ・ダルクであり、イノセントな文化的反骨心そのものの具現化なのだ。
― ― ―
そのほか、観ながら思ったことを箇条書きで。
●この映画を観ていてつとに思うのは、その貪欲なまでの「食」への執着だ。
彼女たちは、パパ活中でも、ナイトクラブでも、共産党幹部の邸宅でも、とにかく食って食って食いまくる。それから飲んで飲んで飲みまくる。
ただ食べるだけでなく、彼女たちはとことん「遊び食べ」「遊び飲み」をする。
長いストローで吸ってみたり、ぶくぶくしてみたり、酒の泡でシャボン玉作ったり。
食事も、こぼすわ、手づかみするわ、踏むわの乱痴気騒ぎ。しかもくちゃくちゃくちゃくちゃ食べ方が汚い(笑)。あと、牛乳風呂に入ってぺろぺろしたり、部屋の中で紙を燃やしてソーセージを炙って、それを手槍みたいなもので刺して食べたり。
ケーキを前にすればさっそく投げ合い。マリエ1が足で投げられたケーキを防ぐアクションは、さりげに奇跡のショットだと思っている(笑)。
要するに、コントロールを喪った幼稚園児がやるような食べ方・飲み方なのだ。
あと彼女たちは、なんでも食べる。調理済みの食事だけはなく、生のニンジンも生のトウモロコシもかじるし、あげく料理のプリントされた「紙」まで食べる。
食べることへのあまりのこだわりの強さは、ちょっとマルコ・フェレーリの『最後の晩餐』(73)を思わせる偏執ぶりで、監督の幼いころに何かあったのか不安になるくらいだ(笑)。
一つ言えるのは、彼女にとって「豪勢な食事」というのは権力の象徴・搾取の象徴でもあって、それを踏みにじることもまた戦いなのだということだ。
有名な最後の一節、「サラダを 踏みにじられただけで 気分を害する人々に この映画を捧げる」は、かつて誤訳され、逆の意味で字幕がついていた曰く付きの代物。それは一流の皮肉であると同時に、検閲への反逆でもあり、かつ共産主義に付和雷同する「道徳的な」大衆へのアナーキーな当てつけでもある。
●この映画を観て、何を一番連想するかというと、実はマルクス兄弟の無声映画だったりする。要するに、このアヴァンギャルド・ムーヴィーは、間違いなく「サイレント映画への憧憬と懐古」に満ちた、「悪戯とスラップスティックに満ちあふれた古き良き時代」へのオマージュ的な作品でもある。
すべての所作や演出が、トーキー的というよりはサイレント的だし、ナイトクラブでのダンスシーンなど、66年の映画というよりは、20年代の映画だといったほうがしっくりくるほどに古風。マリエ1&2と舞台上のカップルを対比するシンプルなモンタージュも、古めかしいが効果的だ。
そういえば、チャップリンもマルクス兄弟もキートンも、こうやって周り中に悪戯を仕掛け迷惑をかけ続けることで、既存の世界を破壊し、変革しようとしていたのだった。
●この映画では、音楽も比較的古いダンス・ミュージックや鼓笛隊風の音楽、チェンバロを用いた古楽など、昔志向のもので固めている。饗宴を踏みしだいてのランウェイ・ウォークでは当時のポップスがかかっていたけど。
とくにクラオタとしておっと思ったのが、紙に火をつけて燃やす美しいシーンでかかるブラームスの「ドイツ・レクイエム」と、終盤の戦争と関連付けてナチスを想起させるようにかかるベートーヴェンの「第九」の断片と、ワーグナーの「神々の黄昏」の葬送のライトモチーフあたりか。
●総じて前衛的なカットや色彩設定、コラージュのようなぶっ飛んだ技法が目立つ一方で(概ね監督の夫君でカメラマンのヤロスラフ・クチェラによる貢献が大きい)、部屋の背後に鏡を置くことで空間の奥行きを明示し、死角で起きていることを映し出して見せる演出があちこちで多用され、ヒティロヴァー監督の手堅い技術を見てとることができる。
●「最もつよいのは戦争に対する恐怖です。人間の愚かさ、不寛容さへの恐怖です。私は映画の中でそれと戦いつづけてきました」「私が最もいらだつのは、保守主義です。おしつけがましい態度、愚かさ、怠けもの根性です。この三つは男たちがつくりあげたもののうちで、つくづく私が考えさせられるものです。そのどうしようもない不寛容さ、無邪気さ加減、あどけなさぶりは、私が男社会をつよく批判する要素です」
と主張していたヴェラ・ヒティロヴァー監督(1981年11月)。
彼女がもしまだ生きていて、ウクライナやアルバニアやガザでまさに大規模な戦闘と殺戮が発生し、今にも第三次世界大戦がはじまろうとしている現在の世界情勢を見たとしたら、いったい何を語ったのだろうか。
左翼諸氏が言っていたのとはまったく別の方角からマジで「軍靴の音が近づいてきている」。戦争を知らない我々世代として、どうやったらそれに対処できるのか。あるいは無力なまま途方に暮れて見守るしかないのか。
「ひなぎく」の再上映には、おそらくなら、そんな意味合いも込められていると思う。
フォーマットに違和感あり
大林宣彦『時をかける少女』を初めて観たとき、これは優れた映像作品であっても優れた映画ではない、と思った。本作に関しても全く同様の所感を抱いた。映像の切り刻み方が主に悪い意味で映画史の文脈を外れている。どっちかといえばアニメっぽいというのだろうか。カットの割り方やオブジェクトの配置なんかは『ぱにぽにだっしゅ』以降のシャフト作品を強く想起させられた。演劇チックなボイスオーバーや過剰なメタ演出なんかもかなりアニメっぽい。ゆえに映画としての必然性を感じない。
完全に映画を観るモチベーションだったこともあり、当時のチェコ情勢に関する政治的コノテーションを類推するより先にまず睡魔に襲われてしまった。オッサンを騙す一連のくだりなどはフランスのヌーヴェル・ヴァーグっぽくてそこそこ面白かったが、それ以降はあんまり惹きつけられるショットがなかった。唯一、畑から野菜を盗み出した主人公たちの脇を自転車に乗った無数の労働者たちが通り過ぎていくショットだけは割と好きだった。つげ義春『ヨシボーの犯罪』にこんなシーンがあった気がする。
個人的には最後の最後にデカデカと掲げられる献辞が低評価への決定打だった。「サラダを踏みつけられた程度で怒り出す人々に捧げる」というのはあまりにも社会挑発として浅はかなのではないか。そもそも劇中で散々食べ物を粗末にしている時点で挑発として完成しているのだから、わざわざそれを言葉で説明する必要はない。政治に舵を切りすぎたせいで寓話としての強度はかえって下がってしまっている。
予告編でも強調されていたフェミニズムの文脈で本作を読み解くにしても、作品自体のとっつきにくさに比して描写に込められた寓意はけっこう単純なのではないかと思う。ハサミによる切断が男根主義への批判であることや、男が常に遠近法によって物理的に矮小化されていることなどは一目でそれとわかる。この作風ならもっと人を食ったような描き方もできたはずだろうからやや不満が残る。
ヴェラ・ヒティロヴァが実際に何をどのように考えていた作家なのかということは本作だけでは判断しかねる。他の作品も観てみたいんですが、何とかなりませんかね、イメージフォーラム様…
どっと疲れた
2人のマリエ(女の子)を主軸に物語は進んでいく。
とにかく空腹を満たすため、時にオトナ(経済的に余裕のある)にくっつき、時に畑に侵入する。
彼女たちは限られた範囲でめいっぱいのお洒落と狂ったように遊びに惚ける。
1960年代のチェコ・スロヴァキアの施策に対する、その破壊的行為が痛烈に、観るものの心を揺さぶる。
ポップでお洒落な空間演出、映像のマジックだけを切り取ると、BGC(backgroundcinema)として部屋で流しておきたいと思う一方で、その行為自体を真剣に見つめれば見つめる程、彼女たちの存在が消された世界で必死に生きる2人の姿は、やり切れないただ見つめるしかない自分の無力さを痛感するようである。
可愛いだけじゃなくて良かった
1966年の映画。こっちはまだ見てないけど市民ケーンと同じ年公開らしい。なんだかジュリマリのMVとか思い出す。この時代に既にこの感覚の映像があったなんてすごいな〜と鑑賞。
で、見た結果そのあと検索して当時の社会情勢を一通り確認してから見た方が映画のバックボーンが分かって面白いと思いました。
冷戦真っ只中資本主義国と社会主義国の境にあった社会主義国のチェコスロバキアで1968年の「プラハの春」の直前に作られたってのが大事で、その後ワルシャワ条約機構で軍事介入される1969年からこの作品の監督は長期で活動停止になってる。
ひなぎくはチェコの花言葉では貞淑って意味らしいよ。
マリエ2人とも少しも貞淑じゃなくて良い感じでした。貞淑を頭にのせて自由奔放に振る舞うってのは意味ありげで皮肉。
最後のオチを見るとプラハの春後に作られたのかと思ったけど、その前の民主化運動の盛り上がりの中で出てきた作品みたいですね。当時の映画は国家予算で作られてたっていうから、これが支持されていたってのは政権への国民不満がめちゃくちゃ高まっててガス抜きとして放映が許される状況だったのかもね。
2人のマリエの奔放な熱量で民主化への期待みたいなものも感じるし、社会的メッセージを当時の人たちがどう受け取っていたのか想像すると中々面白く調べるのも楽しい。あと、可愛いには力があるね、可愛いからこそ見て面白いし良かったなって思います。
食べること、食べるを冒涜すること、
おじさまたちにご馳走させて、おいしいものをたくさん食べて笑い、家の中で好き放題果物を食べたり、牛乳風呂に入ったり、彼女たちの食欲は止まることを知らない。
後半で、党のパーティーに忍び込み、ご馳走を楽しく食い散らかす。手でソースを鷲掴みしたり、、どんどんエスカレートして、ケーキを食べては互いの顔面に投げ、最後はテーブルもその上の食事もぜんぶぜんぶ踏み潰してランウェイのように歩き回る。そのうえ、2人を照らすシャンデリアに乗り、落として壊す、混沌。ここまでくると、食べるという表現に、嫌悪感すら感じられる。でも、おそらくその嫌悪感は正しくて、当時のチェコの
政治を、その政治を動かしている党への何らかの批判が現れているのではないか、と、そう感じた。
楽しくておいしい「食べる」を冒涜しなければいけないとき、そこには何が暗示されているのだろう。ポップで可愛いガールズムービーという裏に隠された政治的メッセージは何なのだろう、(当時のチェコは政治的なメッセージはそんな可愛い女の子映画で包み隠さねばならないほど検閲などが厳しかった、?)そして、罰として、自分たちで掃除をする。でも破壊されてしまったものは、当たり前に元に戻ることはない。
映画の最後、「サラダを踏み潰されただけで怒りを感じる人にこの映画を捧ぐ」というメッセージは、おそらく当時のチェコの社会状況、政治、党について知識がないときっと読み解くことはできない。
そのメッセージは覆い隠さないと放映できない
個人評価:3.2
これほど社会性が強い作品は滅多に無い。
その強烈なメッセージを、ポップなガールズムービーというパッケージで覆い隠す。そうしないとこの時代は放映できなかったのだろうか。
女の子映画の決定版という間違った冠は、誰がつけたのだろう?政治に興味を引かない普通の人達にもメッセージを届けたい監督の意向を、まだ現在もメディアを通し汲んでいるのだとしたら納得する。
最初は自由を奪われた姉妹や市民の願望を投影しているのだと見ていたが、最後のシーンで政治の不安定なチェコスロバキアで至福を肥やす政権側の目線で描いているのかとも感じさせる。
晩餐会でチキンやケーキを踏み潰し、最後に自ら粉々にした惨状を掃除させられ、さらにシャンデリアが姉妹に落下する。踏み潰された晩餐会の惨状にテーマを詰め込み、ラストに「踏みにじられたサラダだけを可愛そうと思わない人にこの映画を捧げる」。
この暗喩に込めたメッセージを正確に紐解くには、もっと勉強が必要だ。
全ての女の子へ
面白いとか面白くないとかそういう次元の映画じゃない。
"可愛さだけで神に反抗する存在"
嘘泣きも悪ふざけも、めちゃくちゃな行動の全てに意味なんてないの、ただ今を楽しみたいだけ、だって私たちは女の子だから。
最高にクールな思考回路でしょ。そして、それが成立しちゃうのは可愛い女の子だから。男の子じゃダメで、何の役にも立たない女の子だからこんなにキュートでポップでクレイジーになれる。
映画の最後の「踏みにじられたサラダだけを可哀相と思わない人に捧げる」は実は誤訳で、直訳は「踏みにじられたサラダだけを可哀相だと思う人に捧げる」らしい。
意味は"この映画を観て「料理がもったいない」としか思えない人達(サラダしか可哀相だと思わない人達)は可哀相だと言いたかった。ものすごい皮肉。"
最高かよ。
自由
ふたりの自由さをみてるとすごく幸せな気分になる
やっている事は悪い事ばかりだけどやりたいことだけやってる姿がすごく人生を謳歌してる
マリエ2のイトカ・ツェルホヴァーがすごく好き
ひとつひとつの行動が可愛すぎる
楽しい気分になるし元気になる映画です
お洒落で可愛いだけじゃぁケガをする
今の時代だからこそオシャレでセンス良くて可愛くてナンボでもそんな目線で褒められる。
個人的には「小さな悪の華」を思い出してしまう雰囲気の内容であらすじは無いようなモンか。
今の時代では撮れない真似出来ない60年代の奇跡的な天然センスで溢れた意味あるような無いようなチェコのゴダールか!?
20世紀の映画とは思えない一作
作中に登場する若い女性がいたずらをしかけたりスクリーンの中で好き放題している様子はどこが新鮮で不思議な気持ちにさせてくれる。全体的にポップでキュートな雰囲気であるが、所々社会に対するメッセージともとれるようなシーンもありこの作品をよりいっそう深みのある物にしている。
意味不でみんな爆睡
大人気。
月曜の渋谷21:00〜で満席+通路座布団+立ち観という状態。
みんな期待に胸膨らませていたが、途中から爆睡する者が続出。
自分も何回も気を失いかけた。
スクリーンの中でCUTEな女の子が無邪気にはしゃぐところ期待してると間違う。
どちらかというと、タチの悪い酔っ払い三十路女2名が大暴れといったところか。
なにしろストーリーが無いので、すぐ飽きる。
必死にならなくても、機会があればレンタルでいいんじゃないかな。
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