劇場公開日 2007年9月1日

「暴力が楽しい」デス・プルーフ in グラインドハウス 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0暴力が楽しい

2025年3月20日
PCから投稿

低予算映画へのオマージュというよりダイアログ重視な映画になっていて顧みると昔のタランティーノは登場人物の会話に長尺をとるスタイルだった。とりわけ有名なのは多分レザボアドッグのマドンナスピーチと呼ばれている巷談だと思う。ダイナーにいるときミスターブラウンがlike a virginは巨根男を歌った歌だと指摘する。大脱走のチャールズブロンソンのように毎日掘りまくるジョンホームズのような巨根をもった男がやりまん女に会う。やりまん女はその巨根にまるでじぶんがバージンにもどったかのような痛みを感じる。だからlike a virgin。

日常でみつけたりひらめいた会話アイデアを映画にしてみせるタランティーノの映画は楽しかったが観衆の波長に依存するところもあった。デスプルーフは映画や芸能で生きている女たちのダイナーでの会話に長い尺がとってありゾーイベルが猫の転生だという会話はあとで回収されてすっきりしたがその他のお姉さんたちの会話は率直に言って冗漫でもあった。Vanessa Ferlitoのラップダンスにしたってなんでこんな尺とるん?とは思った。
しかしデスプルーフのダイアログや寄り道は助走であって真価は暴力の楽しさにあった。箍のはずれた暴力が観衆のアドレナリンを大量分泌させる。Once Upon a Time in... Hollywoodに近い感じがした。なんでこのシーンにこんな尺とるん?という箇所が多いのもワンスアポンとデスプルーフは姉妹品だった。
ふつう人間は暴力反対であり、大人なら映像作品の暴力描写について、まねする輩がいるかもしれないとかの牽制した立場をとるであろう。教育者とかコンプラ推進側や公的立脚点をもっているなら、なおさら暴力描写は制御したいところであろう。
しかしタランティーノ映画の、公序良俗を屁とも思わぬところは改めてすごいと言わざるをえない。おれたちは人間であり、人間は暴力描写に昂奮するんだ、くやしかったら否定してみろ──という感じがある。
後年のOnce Upon a Time in... Hollywoodにおいて、いくら賊とはいえいくらLSD漬けタバコの影響下にあるとはいえ、屈強な男のピットが少女の顔面を暖炉レンガに打ち付けテーブルに打ち付けレリーフに打ち付け完全ざくろにする──その最中にも、鼻を折られ犬に噛まれた別の少女が長径銃を撃ちまくりながら大絶叫で走り回るのである。
このデスプルーフだって綺麗なお姉さんたちが最高速で逆走してきたデスプルーフ車両に正面衝突して人は吹っ飛ぶは脚はもげるは顔面が剥離するは。ラストだって追い詰めたスタントマンマイクを女三人でサンドバッグのように殴りまくってダウンしたら踵落としで顔潰しちまう。で、それらを見ているわれわれの気持ちは気の毒とかじゃなく「たのし~」とか「きもち~」なのであって、タランティーノを見るたび暴力を見ることが人間にとって娯楽であることを痛感せざるを得ないのだ。

タランティーノは映画のインスパイア元としてダイアログに再三でてくるバニシングポイントのほかにラスメイヤーやロジャーコーマンやダリオアルジェントやハルニーダムやジョンフォードをあげている。タランティーノの趣味には偏向があり会話の中でプリティインピンクが好きだと言ったメアリエリザベスウィンステッドは置き去りにされてしまう。タランティーノが好むのは攻撃性のある女だがその意味でもメアリエリザベスウィンステッドは異質だったがそこはアクセントだった。
タランティーノは日本だと深作欣二藤田敏八鈴木清順黒澤明三池祟史円谷英二本多猪四郎とか吸血鬼ゴケミドロのような古い怪奇特撮を挙げるが、余談だがじぶんはさいきんタランティーノ的アドレナリン刺激映画とは対極的な小津安二郎のレビューをいくつか書いてきた。いくら趣味とは違うとはいえど博覧強記なタランティーノから小津安二郎という名前を聞いたことはない。逆に言うとタランティーノの小津論を聞いてみたいものだ。

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津次郎