「個人的な生と人類の未来」サンシャイン2057 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
個人的な生と人類の未来
太陽活動の低下によって氷に閉ざされた地球を救うべく、ありったけの核爆弾を搭載した宇宙船で太陽へと向かう8人のクルーたちの物語。次々と襲いくるイレギュラーに対してクルーたちが苦闘するさまが終始暗澹たる筆致で描かれており、『アルマゲドン』のようないかにもハリウッド的な感傷主義とは一線を画している。かといってクルーたちはシステマチックな冷血漢というわけでもなく、むしろ常に不安や人道的葛藤といったものに身を苛まれている。そうした個人的な懊悩を人類の未来という大義の前でいとも簡単に捨て去ることのできる彼らの姿には、一般的な人倫を超越したプロフェッショナル意識、すなわち人類全般としての自尊心のようなものが宿っていたように思う。
ことさら興味深いのは、地球への帰路が完全に断たれたことが判明した後もクルーたちが各々の役割を最後まで遂行したということだ。ここでアルフォンソ・キュアロンの『トゥモロー・ランド』という映画を引き合いに出したい。本作ではあるときを境に突然世界中の女性が妊娠しなくなってしまい、それによって世界中が荒廃の一途を辿っていく。よくあるアポカリプスもののような気もするが、それらとは少し事情が違う。本作には隕石落下や巨大地震といった「俺たちはこれから死ぬんだ!」という当事者性がない。子供が生まれなくなるのは確かにヤバいが、それによって自分が直接死ぬわけではない。にもかかわらず人々は狂い、争い、世界は終末論の色調を帯びる。
これは、人々が「個々人としての生」以上に「人類としての存続」のほうに重点を置いているという価値観を潜在的に有していることの示唆だ。なぜ子供が生まれなくなることで今現在を生きる人々が荒廃に陥るかといえば、子供が生まれないことが人類としての途絶を意味するからだ。
以上を踏まえれば『サンシャイン2057』におけるクルーたちの献身的姿勢も容易に理解できる。クルーたちは自分たちの生のさらに先に人類の未来というより大きな価値を見出していたのだ。それゆえ死のニヒリズムや絶望的な狂信(=ピンバッカーの太陽信仰)を打破することができたのではないか。
宇宙船が核爆発を起こす瞬間の眩いばかりの光、凍土の朝にぼんやりと差し込む陽光。それらは人類の未来の存続を高らかに歌い上げる。思えば作品全体を覆う陰鬱なトーンも、すべてはこのラストシークエンスに鮮やかなコントラストを与えるためのものだったのかもしれない。
一般的にはSFとして認知されているようだが、その語り口はどこまでもホラー映画的だ。イカロス1号の乗組員たちの写真がサブリミナル的に挿入されたり、カメラの焦点が絶えず合わなかったり、かなり意図的にホラーに寄せている節がある。さればこそピンバッカーの唐突な闖入にもあまり違和感がない。初めからホラー的側面を押し出していけばもう少し市井の評価も高かったんじゃないかと思った。
それにしても「SF描写の精緻さがホラー要素の嵌入によって台無し」みたいな感想が多くてやるせない気持ちになる。ジャンル性に固執して映画を見るのももちろんいいとは思うけど、そのジャンル性なるものが、隣接する他ジャンルとの相互干渉によってその輪郭を獲得しているということにもう少し自覚的になってもいいんじゃないか。「SFならこうあるべし!」みたいに自閉的/排他的にジャンルを守ろうとするとかえってジャンルの展望が先細ると思う。本作のような良作が「中途半端な凡作」として歴史の陰に埋もれていることがその証左だ。