東京タワー オカンとボクと、時々、オトン : 映画評論・批評
2007年4月3日更新
2007年4月14日より丸の内ピカデリー2ほかにてロードショー
前面に出ることのない演出が心の琴線に働きかける
通俗的に陥りがちな母子ものであるにも関わらず、号泣させることを周到に避け、観る者それぞれの家族史に重ね合わせる余白を十分に取った、情感あふれる日本映画が誕生した。そこはかとなく日常が積み重ねられ、心象風景としての貧しくも活力に満ちた昭和や、母への情愛がじわじわと込み上げてくるのだ。
例えば「東京物語」では、父と娘の間に流れる空気以上に、その情感を写し取った小津安二郎のカメラアイに目を向けられがちだが、本作は強烈なスタイルを感じさせることはない。では、ひとえにオダジョー×希林という天才的な演技者による化学反応の賜物かといえばそうではない。松岡錠司による前面にしゃしゃり出ることのない演出が、知らぬ間に心の琴線に働きかけるのだ。
見せるべき場面は長回しやスローモーションで直視させ、絶妙な間合いでふっとフェードアウトしてしまう。現在から被せる息子のボイスオーバーも効果的。母と子の間に流れる“言わずもがな”の情感を表わすための高度な技の数々に観る者は誘導される。とりわけ、電話で上京を促された母が、故郷を捨てる寂寥感と再び息子と暮らす高揚感を抑えつつ東京駅へ向かうシーンに、息子の呟くような炭坑節が被さる場面は秀逸で、親子の関係性を描写した内的スペクタクルとさえ呼びたいほどだ。
かつて、幾度も危機的状況に直面したニッポンの家族を繋ぎとめていたものは何だったのか。それはやはり母の存在だった。したたかでもあり、しなやかなでもあった母性こそが清濁併せ呑んで全てを浄化し、成長を促していたのだと、この映画はそっと囁きかけてもいる。
(清水節)