迷子のレビュー・感想・評価
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ほんとの迷子は…
孫を探して街中を駆け回る老婆、とそれをパンで追いかけるカメラ。しかし当然ながら老婆はパンの可動域などまるで考慮しない。カメラは幾度となく老婆を見失う。そのたびになんだか歯痒い気持ちになる。そっちじゃねーよ!こっちだよ!と手招きしたくなる。ここで我々は迷子の孫に自分自身を無意識的に重ね合わせていることに気がつく。
老婆の迷子探しはもう一つの系列である少年の物語にも伝染する。少年までもが自分の祖父の捜索を開始し、歯痒い思いはよりいっそう募っていく。極めつけは彼らの探していた迷子が最終的に登場してしまうことだ。
どうあがいても(物理的に)老婆や少年と邂逅を果たすことができない我々は、心のどこかで老婆と少年が最後まで孫や祖父と出会えないまま終わることを期待していたように思う。もし彼らが出会えてしまえば、迷子=我々=孫・祖父という等式が崩れ、我々だけが迷子の側に取り残されてしまうからだ。
厳密に言えば映画の中で彼らは実際に出会えたわけではない。しかしゆくゆくは出会うことになるかもしれない。その可能性は十分にある。彼らは「映画の中」という同じ空間を共有しているのだから。
一方「映画の外」の我々はといえば、永久に迷子のままなわけだ。「没入感」などといって映画の中にさも入り込めたかのような物言いをするのは少し控えようかな…と反省。
蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)監督の独特な雰囲気を受け継いだ李康生(リー・カンション)のおかげで映画鑑賞中迷子になってしまった
公衆トイレ。洋式便器の便座を踏みつけて用をたすお婆さん(実際は若いようだ)。公園に戻ってみると孫息子の姿が見当たらない。公園にいる人全てに声をかけ、オレンジ色の服を着た3歳の子をエンディングまで探しまわる。しかし、この婆さん、気が動転しているのも手伝って助けを求める方法もエスカレート。バイクの後部シートに飛び乗ったりして、迷惑かけっぱなしなのです。人の良さそうな兄ちゃんはアチコチ探し回る。だけど、大多数は他人事のように曖昧なアドバイスを与えるだけなのです。
一方、祖父の作った弁当を食べずに捨ててしまった少年。捨てるといっても木にぶらさげていたのですが、終盤にはそれらを漁る男も登場してきたため、匂ってきそうでした。匂いに関して言えば、トイレのカットがやたら多かった。清掃も行き届いていそうなのに、ゴキブリが這いずりまわっているリアル感。少年の家は祖父が痴呆気味のため新聞がずたずたに切り刻まれてゴミの山と化しているリアル感。SARS騒ぎのせいでマスクをしている人が多いのに、こうした生ものが暗さを一層際立たせていました。
このSARS以外にも、ネットカフェでの対戦ゲームのニックネームがフセインとブッシュだったりとか、21世紀の世相を反映した内容も面白かった。他人には無関心であることや、ホームレスやゴミ問題、そして認知症老人の問題だったり・・・
また、台詞が極端に少なかったりする映画のため要らぬ妄想までしてしまい、いつお婆さんと少年の接点が出てくるのか、ひょっとするとお婆さんも孫がいるという妄想癖を持っているのではないか、ネットカフェのおっちゃんはSARS感染で死んだのではないか・・・などなど考えているうちに迷子になってしまったのです。ラストにはホッとするシーンもあるのですが、あの祖父さんは子供を誘拐してきたのではないかとネガティブに考えてしまいました・・・反省。
【2006年11月映画館にて】
『楽日』とはセットと言える作品
※『楽日』と併せてお読み頂ければと思います。
公開初日こちらも俳優の三田村恭伸さんから、前編が『楽日』後半が『迷子』としてそれぞれ45分×2=90分の作品として製作が始まったとの説明がありました。
《SARS》に揺れる大都会で孫を捜して徘徊するお婆さん。
『楽日』が“生と死の狭間”をさ迷い歩く作品としたならば、この『迷子』は“死にゆく都会で生を信じて歩む”作品です。
それは『楽日』では固定された画面上にて役者が動くのに対して、『迷子』ではお婆さんの動きに併せてカメラがパンをし動き廻るからです。
更に観て貰えば分かるのですが画面上に映る映像は2つの時代が平行して描かれていて、それは絶対に交わる事が無い世界なのです。
映画館に連れて行ってくれた大好きなお爺さんが亡くなったのを信じたくない少年は、事実を受け入れ難い為に過去から脱却して仕舞うのです。
しかし時代は過ぎて将来の自分が見えて仕舞った時に初めて自分を見つめ直します。
果たして過去に帰れたのか、それとも…。
成る程『楽日』と『迷子』は確かに2本でワンセットと言える位に密接な関係にある作品だと言えると思います。
(8月26日ユーロスペース/シアター2)
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