蟻の兵隊のレビュー・感想・評価
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「複数性」に耐えうるか
正直、ところどころ観ていて不愉快になる映画だ。
上官の指示で戦争が終結したのも知らされず、大陸に残された約2600人の日本兵たち。信じてきた国に対して裏切られた気持ちを考えると、同情できる部分も多々ある。
しかし、彼らは大陸で数多くの殺戮行為をおこなってきたのは紛れもない事実。
自身の残虐行為を棚に上げ、他人事のような発言が気になる場面がいくつかある。
冷静な判断ができない状況であることは十分理解できるが、なぜここまで上官の指示を聞き続けなくてはならなかったのか。
(なぜ逃げなかったのかと)中国の生き残りの親族に詰め寄るシーンがあったが、自分たち残留兵も何故逃げるという選択肢がなかったのか。
戦時総動員体制下、軍人も民間人も人間本来の「考える」機能を失っていく。それが全体主義の恐ろしさ。
日本には被害側の立場で描かれた作品は多いが、本作のように加害者側をクローズアップしたものは少ない。そういう意味で、後世に残すべき作品である。
多くのバッシングを覚悟して、カメラの前に立ったであろう、奥村氏の勇気を称えたい。
日本人の敵は日本人
何時の時代も日本人の敵は自分たち日本人である。組織の幹部クラスが部下を殺す。その構造に対して否を突き付けない卑屈で惨めな精神しか持ち合わせない一般的な日本国民が自らを殺すのである。私たち一人一人の絶対的な気付きを得られるまで、この不幸は続く。日本人は自ら自殺を選択し続けているようなものだ。
混沌とした贖罪と自己正当化
本作で描かれる奥村さんは、名誉回復を国から認めてもらえない被害者であると同時に、中国の戦場で残虐行為を行った加害者。
軍属であったことを認めてもらえない怒り、軍属であったが故に行った残虐行為への悔悟と正当化、残虐行為をさせる軍隊への憎しみ。
過去への追及には、やっちゃいけないことだったけどやむを得なかったんだよね、ということを確認したい気持ちが勝ち気味に感じる。それも人間の業なんだろうけど。
毎年“あの夏“はやって来る
今年も間もなく8月15日がやって来る。既に終戦から61年の時が流れた。※1
敗戦を知る我が国日本では節目の年に決まって《戦後○○周年記念》と銘打って大作映画が製作され戦争の恐怖を風化させない様に努めて来た。時に感動作品として、また場合によっては“賛美”する様な描写で賛否を浴びたり…。
内容はともあれ今後も続けていかなければならない。
『蟻の兵隊』は国家から‘過去を否定された男’を追いかけるドキュメンタリーだ!戦後も60年を過ぎて当事者も当事を知る人も次々と亡くなってしまい《本当の証拠》がなかなか見つからない。
「真実は一つなんです」「いかに戦争が恐ろしいモノか、地獄を見たからこそ伝える義務がある」と言い、少しずつではあるが蟻は行進する事を止めようとはしない。
軍隊がいかにして殺人マシーンを作り上げたか…これは真実の『フルメタル・ジャケット』の話でもあります。
特に中国で初めて人を殺してしまった際に逃げ出した中国人の息子と孫に詰め寄る所と、《日本一有名な蟻》に“無名の蟻”が喰ってかかる場面が圧巻です。
女の子達が写真を撮り屈託無く笑えるのも《平和》だからこそで、最後に言う「時間との勝負なんです」の一言が胸に突き刺さります。
※1 鑑賞直後のレビューなので…。
(2006月年8月3日[シアター]イメージフォーラム/シアター2)
手触りがある
この映画は、奥村和一という老人に密着したドキュメンタリーである。映画を見ていくうちに、元日本兵であり、残留兵士であった奥村さんという人の人間像が明らかにされていく。その途中で慰安婦問題、靖国問題についても触れられている。私は本当の戦争を知らないが、どのような現場であったのかは、中国の人の説明や、奥村さんの言葉から十分想像が可能である。
奥村さんは戦争は終わったというのに、国の命令で残留兵士として戦い、多くの仲間を失った。裁判所は、残留兵士を認めることはポツダム宣言に自国が違反したことになるために都合が悪いため、その訴え退け、兵は自ら志願して残ったこととして処理しようとした。奥村さんは中国に赴く。そして共産軍と戦った現場でこう言った。「あそこで、仲間が『天皇陛下万歳』と言って死んだのです。なんで志願して行った人間がそんな事を言って死ぬのですか‼︎」。奥村さんの抱える怒り、その苦悩の大きさといったら、計り知れないものがある。
元日本兵の多くが振り返ることを憚られる自身の戦争体験に真っ向から向き合い、自ら答えを出そうとした奥村さんに、私たちは敬意を表さなくてはならない。そして、奥村さんのような、忘れまいとする強い態度でしか、きっと、これから来る戦争を避ける事は出来ないのだ。
う~ん 辛いね
元残留兵の奥村和一さんの苦労話に心を痛め、また国の残酷さに愕然としました。
ただ、16歳の頃、日本兵たちに輪姦されたという中国人老婆の行き過ぎた話の真偽が定かではありませんでした。
ある日、日本兵が村に現れた。7人の日本兵が、母親から中国人少女(16歳)を奪い、空地へ連れて行き、踏んだり蹴ったりベルトで殴り倒し、顔までパンパンに腫らした後、とことん輪姦する。しばらくして、身代金を中国人の親に要求する。 彼女の父親は、家畜まで売払い、娘を返してくれと身代金を工面したが、なかなか親元に帰さない日本兵。父親は、「娘の身体は、既に悲惨な状態になっているので、また元気になったら差し出すから、どうか一旦返して欲しい」と泣いて土下座する。というような話。
彼ら日本兵にも、親や子はいたであろうから、ここまで残虐なことをしたのか疑問がわく。中国人は反日教育を受けているし、誇張することも嘘をつくことも平気なところがある大陸民族。また証言のための出演料を何かしらもらえたのかもしれない・・・と考えれば、どこまでが信実なのか、または脚色なのか、判断が難しい。
ただ、国のために行きたくない戦争に駆り出された日本兵たちの人生を知ることは大事です。日本人として、観ておくべき映画だと思います。
演出過剰の脇からするりと抜け落ちる本質
元兵士復員後の思想、あるいは「靖国神社」「天皇」への思いについて、「大東亜」戦争がすでに神話のかなたで霧かすむようになってしまっているわれわれに果たして言及する資格はあるのだろうか。
私の大叔父はガタルカナルから生還することが、できた。大叔父はそのときの話を生涯、自ら語ることがなかった。また、靖国神社へ参拝することもなかった。「生きて帰ってしまったんだから、死んで戻っている戦友と顔をあわすことはできない。俺は死んでからいく。いれてもらえなくてもいく。そうでないと」と大叔父は私の母に語ったそうだ。あるいは私はもう亡くなった叔父が「俺は中国戦線でひどいことをしたんだよ」とぽつりと語るのを聞いたことがある。叔父の痩せた肩をみて、私にできるのはそのままそこを立ち去ること、それだけだった。石原豪人は中国奥地の戦線に参加していたが、除隊後自軍である関東軍に襲われ、あやうく殺されそうになるところだったそうだ。
そうした体験を見聞きするたびに、私の中では砂をかむ思いが広がる。そしてこの映画には、日本陸軍により国民党軍へ「売り渡され」、「蟻のように」ただ黙々と戦闘を続け、ようやく帰国したところ、軍籍を剥奪されていた男が、自己の存在をかけて日本政府と「戦闘を続ける」物語である。彼の戦後は終わらない。私は戦後がまだ着実に生き抜き、現在進行形で「戦争」が続いていることを知る。そして「選んだ」「選ばざるをえなかった」男たちの間に横たわる深いようにみえて、実際のところはコインの両面のような、それぞれの「戦後」を目の当たりにするのだ。
しかしこの映画は「感動」へも「共感」へも、あるいは「総括」へもたどり着くことはできていないように見える。それはなぜだろうか?
映画は、主人公である奥村和一氏が靖国神社を来訪する場面から始まる。そして「過剰」かつ「増長」な演出も同じく開始早々からスタートする。
奥村和一氏は「靖国神社なんて欺瞞だ」と斬って捨てる。僭越なのは重々承知だが、私には、彼がそう考えざるをない気持ちがわかるような気がする。国家というものに裏切られ磨耗させられてしまえば、その国家へ組み込まれることなど、どうして承服できるのだろうか。だがこれを冒頭にもってくる意味は監督だけが見出しているように、私には思える。続いて初詣に来ている近所の女子高生?へ奥村氏は語りかける。女子高生はここがなにを祀っているのかは知らない、と答える。奥村氏は淡々とその意味をかたる。女子高生はわかったようなわからないような顔をして友達と焼きそばを食べ続ける。ここに戦後60年の流れを見出すことは容易いだろう。だがここにも監督は「顔」をのぞかせる。“このおじいさんはねぇすごいんだよ、終戦後も中国で戦って云々”。私は申し訳ないが奥村氏の人生を「すごい」の一言で切り捨てるようなことは絶対にできない。なにをもってすごいというのだろうか。どことなく賞賛しているような口調には、ただ監督の思考停止を見出せるだけだ。
奥村氏ら元山西省残留日本兵の有志は、ついに日本政府を相手に「あくまでも中国へ残留したのは上官命令によるものである」と軍人恩給を支給するように提訴をする。裁判はしかし棄却上告却下という道をたどる。国家は彼らの人生を奪い、また彼らが尊厳を再び取り戻そうとする戦いにおいても省みることはない。奥村氏は決定的資料を求めに中国へと旅立つ。(ように見えたがどうもこれも演出で、奥村氏はもうすでに中国である程度の資料を得られていることがこの後わかる)奥村氏は決意する――中国で、初年兵として彼が行った“肝試し”と呼ばれた捕虜虐殺、その事実に、向き合おうと。
ここで奥村氏が自身の内奥へと「地獄めぐりのたび」が始まるかと思いきやそうではない。いや奥村氏は少なくても真剣に自己を見詰めようとするが、またもや顔をだすのは「監督」自身である。中国のテレビ局?から奥村氏がインタビューを受けているような場面になる。突如中国側通訳が「奥村さん!もういいよ!」そして監督が割って入る。“あわてて”まるでドラマの一場面のように自分の時計を彼に見せながら「奥村さん!帰りましょう!こんな時間だし!」。ここで印象的なのはインタビュアーである中国人女性の冷静なまなざしだ。彼女はそこでなにをみつめ、また感じたのだろう。おまけになんのつもりかご丁寧に「巣からでてくる蟻」を何度も画面上に登場させる。エイゼンシュタインが墓場から蘇ってきたかのような編集で、果たして観客になにを感じてほしいのだろうか。いっそのこと字幕でもだせばいいのに。
これは国家によって擂り潰された人間が、その生涯をかけて行っている「聖戦」なのだ。こんな映画としての演出、編集は、奥村氏らの「尊厳を取り戻す戦い」になんら利することはないのではないか。そしてそれは中国共産党により拘引された原告団の、戦争犯罪の告白書を入手し、日本へコピーを持ち帰り、執筆者本人へ手渡す場面で最高潮に達する。延安レポートによれば、それは中国共産党の行った一種のプロパガンダであるといわれている(ように思うがいま手元に前掲書がないので詳細に引用できず。齟齬があればご容赦を)が、そういう性質のものを持ち帰る意味が私にはわからない。(映画の中でも“書かされた”という態度を示す方も登場する)ここにも監督や製作者側による「ある種の意図」が見受けられる。その意図はクライマックスともいえる、終戦記念日における靖国神社での奥村氏と小野田寛郎氏の「対決」で顕著になるが、なぜかここで監督は、奥村氏に「小野田さん、侵略戦争を認めるんですか?」との呼びかけ(とそれに対する小野田氏の「終戦の詔書を読みなさい!」という一喝)で終わらせている。こここそ、もっと突き詰めるべきところではないのか。奥村氏しかそれはできないのだから。もっと小野田氏と徹底的に話し合うか追いかけるか、きちんと向かい合ってこそ、コインの両面のような二人の戦後――それによって炙り出されることこそ、戦争が「神話」となってしまったわれわれ個々人へ迫りくる「あの戦争への総括」であり、戦後日本人の「本質」へと軍刀を突きつけることになるのではないか。原一男的アプローチ――煽って煽って焚きつけて突き放す――がいいとはいわないが、だがしかし、やるべきときはある、と私は思う。
慰安婦との和解めいた場面よりも、私に深く突き刺さったのは、共闘したたくさんの戦友を失った中国山西省のある砦を奥村氏が一人でたずねる場面だ。奥村氏はいとおしむように積み上げた一つ一つの煉瓦を丁寧に撫で、そして告げる。じゃあいくよ、またくるから。現実が神に演出されドラマとなる、とは根本敬氏の言葉だが、この場面には、確かに神が息づいていた。この呼吸音をなぜ映画の中へ根付かせることができなかったのか、と私は考えていた。
この映画は一見するといわゆる「左翼的」映画である。だが私はヒダリだミギだという視点からこの映画を批判しているわけではない。おおよそ優れた映画においてミギだのヒダリだのといったみみっちい論議はまったく無意味だ。
たとえば、黒澤明の社会派映画の一群において彼や橋本忍の問題意識がどのような地点に立脚していようとも、そしてそれが明確であろうとも否応なく物語の渦中へと観客は引きずりこまれるわけだし、小川紳介がどっかりと腰をすえて「現象」と密着したりまた今村昌平や原一男において顕著な対象物への偏執狂的な固着といったことが、いつのまにかそうした対象物、個へのこだわりを超えたもっと大きな枠――それは人間の本質とはなにか?という人類の命題といえるものだが――へシフトせざるをえなくなっていく。そうした映画に共通する“欠くべからざるなにか”をこの作品は見事なまでに欠落させている、といえる。
「ヨコハマメリー」という作品において、対象者を冷酷に見つめる俯瞰の目を維持しつつも、だからといって突き放すわけでもないある種の「いまここ」の視点を獲得することができたことを思えば、このNHKドキュメンタリー出身監督の、いかにあざといことか。また“撮影する”という行為が主人公が告発する側の人間――それはとどのつまり無自覚に戦後を生きるすべての人々となってしまうのだが――にとってどれほどの「暴力」なのかについて、言葉の本来的な意味で監督は確信犯である。自分の立ち位置を疑わないのなら、偶然が偶然をよび偶然の力をたくさん引き出すという「現実が神に演出されドラマとなる」こととは、どうしても無縁となってしまうのだろう。映画におけるリアリティがしばしば虚構の中で捉えられた現実からくるものであるのと同断に、ドキュメンタリーという「現実」にもぐりこませた「演出」という名の「虚構」は、映画で起きている「いまここ」をも「虚構」に変えてしまう「劇薬」なのだ。
結局、そうしたことからこの作品の主題として浮かび上がったのは、撮影対象者への「不用意」すぎる「過剰な思い入れ」であり、奥村氏側に“たちすぎて”しまっているがゆえに、この映画は本質論まで到達することがなく、ミギの人間から言わせると「プロパガンダ目的の自虐映画」、ヒダリから冷徹に「問題に迫りきれずセンチメンタリズムへ逸脱した」と宣告される恐れ大となってしまっているようだ。着眼点題材ともに挑みがいのある内容であり、そういう意味でこの映画はあの「ゆきゆきて、神軍」と双璧をなすような巨大な作品へと変貌を遂げることができたはずだったが、むざむざと綱渡りから落下してしまった、という印象を拭い去ることができない、非常に残念な結果となってしまっている。対象者へ寄り添いながらも俯瞰の目を維持することができていれば、あるいは私のこの映画への評価が、もっと異なったものになっただろう。
ウヨクサヨクの色眼鏡を丁寧に一枚一枚とりのぞいていけば、現れるのは「自己」の「尊厳」を取り戻そうとする、一人の真摯なありようなのである。それは100人切り訴訟の原告と本質的な部分で同一であり、また「われわれ」の抱える「戦後」「戦争責任」への思いとも密接にリンクしてくる。過剰な演出はその本質への到達を、門を閉めるように塞いでいく作業にほか、ならない。
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