ロング・グッドバイのレビュー・感想・評価
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ハードボイルドな仕草に隠された、裏切りによってできた心の傷。
◯作品全体
自分のペースを保ち飄々として生きるマーロウ。余裕ある仕草がハードボイルド作品特有のかっこよさを漂わせる。警察に押入られても、やくざに難癖付けられてもその態度はほとんど変わらない。その立ち振る舞いのカッコよさだけで最高なわけだが、だからこそ、マーロウが怒りの感情を強くするシーンが印象に残った。
この作品には怒るシチュエーションがたくさんある。猫が餌を食べず、警察に押入られ、三日も拘留され、今度はやくざが押し入り、犬に吠えられ、ナースにテキトーにあしらわれる…ここまで並べてもまだ前半も前半だ。しかしマーロウはどれにも怒らずに煙草をくゆらせ歩いていく。相手に自分のテンポを崩させない、酸いも甘いも知り尽くした大人が醸し出す静かな生きざまがとても良い。ただ、作中で明確に表現した怒りが二つあった。一つはテリーの妻が殺害された日にロジャーが一緒にいたことを黙っていたアイリーンへの怒り。そしてもう一つはラストのテリーへの怒りだ。この二つに共通するのは「マーロウへの裏切り」。
アイリーンはマーロウとテリーが友人であることを知っていて、それでも「テリーは浜辺で見る程度」と話し、真相をマーロウに伝えなかった。ロジャーの酒乱トラブルにも協力して親密になったにも関わらず、ロジャーが死ぬまでマーロウを欺き続けていた。真相を知った時のマーロウは今までの関係性を一切置き去りにしてアイリーンへ強い口調で詰問する。いままで見せてきたハードボイルドなマーロウとはかけ離れた姿には、きっと信頼関係を築きつつあったことに裏切られた、という感情があったはずだ。やくざとの金銭トラブルにケリが付いたあとにマーロウが街でアイリーンを見つけるが、車にひかれて話すことはできなかった。もしここで話ができていたらアイリーンが黙り続けてきた理由を直接聞き、関係性に変化があったのかもしれないが、この段階ではアイリーンがロジャーをかばおうとしたのか、それ以外の理由があるか、マーロウはわからない(勘づいていたのかもしれないけど)。答えは「アイリーンはテリーと関係を持っていた」というもので、ラストシーンでそれが明らかになる。しかし、その時にはテリーが恩知らずで非常に身勝手な理由で逃亡したという二つ目の「マーロウへの裏切り」が降りかかった後だ。既にアイリーンへ応じる感情はなく、マーロウは並木道を進んでいく。
テリーに対する容赦ない報復もそうだが、身体的な傷や労力には寛大なマーロウは精神的な傷に対しては非常に敏感であることがわかる。ハードボイルド作品は主人公が感情をあらわにすることが少ない分、「主人公が記号化されている」、「人間味がない」と捉えられることもあるが、この敏感な反応がマーロウの奥行きを違和感なく表現していると感じた。
ラストカット、衝突しかけた老婆とダンスを踊るかのようにかわすマーロウの後ろ姿が、まるでなにもなかったかのように映る。飄々と、すべてを受け流すかのようなマーロウ。しかし内側では精神的な傷の痛みと戦い続けているのかもしれない。
〇カメラワークとか
・反射とかディゾルブを使った面白いカットがいくつかあった。アイリーンとロジャーが別れ話をする二人と窓に反射して映るマーロウを重ねるカットとか。二人の間で表面上の話に出てこなくても、根本の原因はこいつだろ、と思っているような、そんな演出だった。
〇その他
・『ロング・グッドバイ』、「長い別れ」の意味として、友人や配偶者の死が作品の鍵になっているというのもあるだろうけど、さらに人間関係としての別れもあるんだろうな、と感じた。マーロウにはテリーが友人として死んでいった一度目の別れがあって、その後に裏切り者としてテリーが死んでいく二度目の別れがある。肉体的にも、精神的にも別れを告げなければならないつらさが、この作品にはあった。
・タバコというプロップそのものよりも、マッチのほうが気になった。マッチ箱で火をつけるだけじゃなくて、壁やら床やら使ってったのが面白かった。
・マーロウが精神的な傷を隠しているという視点で見ていると、タバコを吸う行為でそれを隠しているように見えてくる。タバコは「大人の愉しみ」というよりも「大人の鎮痛剤」なのかもしれない。
・『カウボーイビバップ』の渡辺監督が映画のオールタイムベスト10を選んだ時に本作が入っていたんだとか。なるほどな、と思う要素がめちゃくちゃあって面白い。ちょっと間の抜けたところもあるけど思慮深い二枚目主人公、Yシャツの着こなし、琴線に触れると容赦ない性格…マーロウとスパイク・スピーゲルの共通点が多い。ムーディなジャズBGMも。
フィリップ・マーロウの渋さが最高
レイモンド・チャンドラーの小説『長いお別れ』を、「ハリウッドの異端児」と呼ばれるロバート・アルトマン監督が大胆にアレンジして作った今作。ぶっちゃけ退屈してしまうところもありましたが、ラスト、マーロウがテリーに発砲するシーンを観て衝撃だったので、結果よかったです。
常に眩しそうな顔をしているフィリップ・マーロウがクールでかっこよくて、ついマネしたくなります。というか普段、この執筆者自身も眩しそうな不機嫌そうな顔をしながら日々を過ごしているので、別に今までと変わらんかもです。
で、見どころの一つとして、僕は若き頃のシュワちゃんを挙げたいのです。最後の方でギャングたちと一緒にいるチンピラなのですが、一言もしゃべらない。(まさに僕みたい)(そんなことはそうでもよろしい)特に何もせず出番おわるのかなーって見ていると、なにやらギャングの一人がいきなり「全員脱げ!」と言い出した。そしたらホントにみんなパンツ一丁になったのです。……これ、ハードボイルドだよね? と疑うほど絵面が面白くて、あらぬことかちょっと笑ってしまいました笑。
ギャングが揃ってパンツ一丁になる、面白いコメディ映画でした。(ウソです。ちゃんと素晴らしいハードボイルド映画です。)
……映画ではマーロウの名台詞がなかったので、原作小説での彼の名言を、今回は乗せようと思います。
「撃っていいのは、撃たれる覚悟のある奴だけだ」
──『大いなる眠り』より
「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」
──『プレイバック』より
「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」
──『長いお別れ』より
タバコが主役
兎に角タバコ吸いまくりの主人公が気になって物語に集中出来ませんでした、他の登場人物はほとんど吸わないのに主人公だけが何故か何時も吸いまくり一日ワンカートン位のレベル、夜の庭に隠れていてもマッチで火をつけプカプカ追々それは無いぞギャグかよ、会話中もそれですから演技力が無いのごまかしてんのかと勘ぐってしまうレベルでした昔の映画だから時代かな~よう分からん、タバコ会社とのタイアップ映画かも?
「匂い」「汚さ」が伝わる映画
予想以上によかった…
小粋で洒落も効いてるしアナモルフィックレンズの使い方も上手い、ギャングのボスの狂犬っぷりも怖くていい。しっかり自分の筋を通したり、いい女に騙されたり。めちゃくちゃ好きな映画。是非4kレストアして欲しい。
特にオープニングが好き。レンズのフレアも綺麗で各シチュエーション毎にBGMが変わる演出が斬新だった。主人公がカーラジオを聴いてたらラジオ、友人の車にカットが変わるとそのまま曲も変わる。とても斬新に感じた。街の雰囲気、色味、空気感、その全てが良い。
「探偵物語」「インヒアレント・ヴァイス」等、名だたる探偵モノはこれにインスパイアされてるのがよく分かる。松田優作とかそのまんまだし。
スクリーンで見たかった! アパートメントのタバコやゴミ溜めの匂いがそのまま漂ってきそうな、そんな映画
所謂“M*A*S*H”コンビ、アルトマン+グールドのコンビによるマーロウ物映画化作品である
所謂“MASH”コンビ、曲者監督と曲者俳優といったアルトマン+グールドのコンビによる作品である。
従って、「一筋縄にはいかない作品と心得よ」って事、理解してから観るのが正しい(基本)と言える。
ある意味、そういった認識(知識)すら有せず、単純に「レイモンド・チャンドラー原作映画だ」とか思って観る事自体が、既に“間違っている”とも言えよう。
レイモンド・チャンドラー原作の“フィリップ・マーロウ探偵”シリーズ『長いお別れ』を原作とした一本だが、公開当時は舞台を現代風に変更してあった事から、ファンからの支持は低かった(というか、ムシロ反感を買った)。
それに、フィリップ・マーロウ原作小説中では、1番の長編と言えるにも関わらず、映画版は割と短めにまとめてしまっている事も要因とも。
ただ、作品の知名度的には、他のチャンドラー原作の“フィリップ・マーロウ”シリーズの中では、“現在は”知られている方。公開当時の知名度に比べれば。
一応、公開当時にはハヤカワポケットミステリ版は、007シリーズと同様に、販促用の限定映画カヴァー装着版が施されたりはしていたが、一般層には、それによって取り立てて何だという程のもの(書店で店頭に積まれたりなど)でもない事であった(という時代)。
ジョン・ウィリアムズ氏のスコアによる、ピアノをメインにした哀愁のあるテーマ曲は素晴らしいものだったが、当時はサントラ発売などされないで終わった。
可成り後年になり、特にSWシリーズ以降ジョン・ウィリアムズ氏の知名度が一般に知れ渡ったのち、過去作品の『ポセイドン・アドベンチャー』などと同様に、限定のマニア向け少数枚数のみで、公式CD化が果たされた事があった、という経緯もある。
取り敢えず、原作のマーロウに固執する傾向の方は“観るべきで無い”。
イメージ的にはやはり、ボギーの『三つ数えろ』が最も無難に思えるから、その辺にしておくのが良いでしょう。
後年の2作は「今更ミッチャムじゃ、歳行き過ぎじゃないの?」感があったが、それでも1本目は(映画として)比較的評価も良かったようではあった…..
おお音楽ジョン・ウィリアムズ
タイトル画面で思わず二度見。
ひょっとして同名の別人がいるのかしら?と思うほどに。。
数々のハリウッド娯楽映画を象徴する輝かしいスコアリングしか知らない身には、すすけたジャズのボーカル曲で始まるオープニングはあまりにも強烈。
もしやロング・グッドバイっていう既成の曲があるのかな?という淡い期待も作曲ジョン・ウィリアムズの文字でこっぱみじん。ひえぇ
そもそも、かの有名な私立探偵フィリップ・マーロウの代表作、そして映画自体も根強いファンがいる、さらにたぶん初のロバート・アルトマン監督作、ということで観る前の「一体どんな作品なんだ」感はピークに達していた。
が、ふたを開けてみるととにかく主人公の造形が独特。特異といってもいい。「探偵物語」は観てないけどこれ、きっと数々の参照元なんだろうなぁという予感を抱かせてなお余りある強烈さ。
なにしろ目の前で謎の美女たち(隣人)がおっぱい丸出しでニコニコしてても驚異の平常心(正しいリアクションを取るギャングの下っ端がちゃんと出てくる)。
一方で訳ありの依頼人との会話が単なる事務的な会話なのにカメラワークが完全に恋に落ちる瞬間(音消したら余計そう見えると思う)だったり、どの場面もいちいちちょっとした、しかし明確な違和感が残る。
カメラは律儀すぎるほどマーロウに密着していくのに、肝心のこいつが何を考えてるのか、行動原理はじめ内側がさっぱりわからない。
常にくわえタバコ、どこへ行ってもその場にあるものでマッチを擦ったり、というわかりやすい行動を取るのとは対照的に、つまらない冗談が本気なのか方便なのかもよくわからない。
ところどころ、えらい怖いことも起こるんだけど、全体のトーンとしてはすごい軽いというか、乾いてるというか、オフビート。
これ笑っていいの?みたいなよくわからない場面がちょくちょく挟まる。
初見ではどういう映画なのか、どこへ向かってるのかがよくわからなくて、捉えどころがない。
マーロウはいちおう事件を追ったり巻き込まれたりして、いちおうフィルムノワールの体裁は取ってるんだけど、たぶん大事なのはそこじゃない、っていうか事件の本筋より関係者の奇行の方が気になる。
からのまあこれ以外ないわねぇと思うオチでスパッと終わる。なるほどねぇ。。
印象としてはタランティーノの映画観てる時の感触をすごい思い出した。
しかし猫はいいとして、夜の海で「ネクタイ預かっててくれ」が笑うとこだったのか観終わった今でもよくわからない。思わずウケちゃったけども。。
これがかっこいい!という気持ちもわかるが、周りにいたらちょっと嫌だなフィリップ・マーロウ
ベストオブベスト
何度も観てるのに映画館で観るのははじめてだったけど、当時(と言ってもテレビサイズのレンタルVHS)の衝撃のまま今でも観終える凄み。
とにかくあのチャンドラーの原作をこんな風に扱っちゃって、あれだけ無駄を突っ込んで、111分ってなんなんだ。アルトマンはもちろん、リーブラケットの脚本、ビルモスジグモンドの撮影、ジョンウィリアムスの音楽、端の端のチェビーチェイスのギャグににシュワルツェネッガーの肉体まで、見どころ満載過ぎ。
なんかYMOとか個々の能力とは別にふざけたり遊んだりしたのが受けたりしたのに似てるのかも。本当に原作に心酔してたらこんな映画はできない。偶然にもミステリーなので縦方向のストーリーがかっちりある中で好き放題やってる感が凄い。途中でもう筋はなんだっけというくらいその他が面白すぎるのは同じくチャンドラー×リーブラケット×フォークナーの「三つ数えろ」も同じ。
常に動き回るカメラ、ファンタジーのようなオールドカーと時代から浮いたネクタイを外さない飄々としてタバコ吸いまくりの猫には滅法弱い探偵。しかも常に動き回っていたぶられる。焦点の定まらない悪徳たち。その後の映画監督たちに絶大なる影響を与えたマスターピース中のマスターピース。
今みると、やはりこんな無駄(本筋と関係ないとこ)に時間費やして111分てなんなんだ。
これがハードボイルドってやつかぁ・・・
2023年劇場鑑賞199本目。
リーアム・ニーソンの探偵マーロウを観に来たのですが、その前に同じマーロウ主人公のこの作品をやっているのを知ってついでに鑑賞。
いや〜地味だなこれ・・・。こういうの好きって言ってれば映画通っぽいけど結構謎が向こうからやってる感じがして自分にはちょっとでした。
鑑賞前にチラ見したレビューでシュワルツネッガーが出ているとたまたま知っていたので気づけましたが背景でさりげなく胸をピクピク動かしているのはちょっと笑っちゃいました。
映画史上、最もエモい冒頭10分(個人的見解)。猫とキャメルとマーロウと。
『ロング・グッドバイ』の冒頭10分は、まさに「魔法」の時間だ。
僕はこれだけ魅力的な映画の冒頭10分を他に知らないし、
何千本と映画を観てきた今も、その意見は変わらない。
何度でも観たくなる映画というのがある。
『ロング・グッドバイ』の場合、
全体を何度も観直したいというわけではない。
でも、冒頭10分に関しては、本当に何度も、何度も、観直したくなる。
何が描かれているわけでもない。
孤独な中年の私立探偵が、深夜に自室で猫にせがまれて餌をやろうとするが、ありあわせの残り物では食べてくれない。
そこで猫の好きなカリー印のネコ缶をスーパーマーケットまで買いに行くが、あいにく売り切れている。別の銘柄を買って部屋に戻る。猫にやる。でもやはり食べてくれない。
猫は猫用ドアからぷいと出ていく。探偵は「勝手にしろ」と最初は怒鳴ったものの、すぐに猫のゆくえが気になって……。
ただそれだけだ。
だが、ただそれだけが、ただただ素晴らしい。
何ということもない描写を、殊更技巧を誇るようすもなく撮っているようでいて、考え抜かれたカメラワークと、研ぎ澄まされた編集テクニックがつぎこまれている。エリオット・グールドの自然な演技と、猫の堂々たる猫っぷり。マッチを擦る音。空間を充たす硫黄の香り。くゆり立つ煙草の煙。餌をねだる猫の声。同じ階に住むヌードダンサーたちの嬌声。古風なエレベーター。マーロウのネクタイ。バーバラ・スタンウィックの物まねをする守衛。夜の街。行きかうヘッドライト。ひときわ明るい光を放つスーパーマーケット。猫の餌に変な粉をかけちゃうバカなマーロウ……。
うーん、たまらん。
たまらなさすぎる。
自分も大学時代から結婚するまでのあいだ、アパートの一間でわびしい一人暮らしを満喫していたからか。34で入院したのを機に一日50本も喫っていた煙草を辞めたからか。
この空気感。この肌感覚。この作業感。
この静かな室内と、一歩繰り出した夜の街の対比。
すべてがこたえられない。
猛烈なノスタルジィに襲われる。
なぜか目元に少し涙がにじむ。
こんなに映画的で、こんなに心をゆさぶる「男のとある夜の日常」があっていいものか。
舌を巻くのは、アクロバティックな音楽の使用だ。
一連のシーンで流れているのは、実はずっと同じジョン・ウィリアムズの主題曲なのだが、それが室内のシーンではエリオット・グールドの鼻歌、テリー・レノックスの車のなかではラジオから流れる男性歌手の歌唱、マーロウの乗る車のなかでは別の女性歌手の歌唱、入ったスーパーマーケットでは店内を流れるムード・ミュージックと、その様態を変えながら数珠繋ぎにどんどん乗り換えられていくのだ(ちなみに映画の後半ではラテンバージョンの編曲も登場する)。
この音楽のおかげで、ありきたりな探偵の日常描写が、メロウでやるせなくノスタルジックで情感豊かな「特別な何か」に塗り替えられる。
なりゆきを主張する映像と、技巧性を主張する音楽が、ハレーションを起こす。
そうして、冒頭10分の「魔法」が生まれる。
しかも、この冒頭10分は、ただの日常描写ではない。
歌劇でいえば、本編で展開されるすべての主題と変奏が詰まった「序曲」と同じ。
映画で描かれる内容のすべてが込められた、物語の「核心」でもあるのだ。
ここで描かれるマーロウと猫の関係性は、
映画内でのマーロウとテリー・レノックスの関係性の「前触れ」であり「予型」なのだ。
要求は多いが、愛嬌のある仔猫。
どこかで拾ってきたのか、気づくと居ついていたのか。
マーロウは、そんな猫になにがしかの友情を感じているし、大切に思っている。
でも、仔猫のほうは、なにを考えているのだか、よくわからない。
マーロウは、口では悪く言うし、猫缶の中身を入れ替えるようなインチキも施す。
でも彼は、基本的には「愚直に」ただ猫のために行動し続ける。
でも、猫がそれに応えてくれるとは限らない。
適当そうに見えるが、義に厚く、友を裏切らないマーロウ。
何が儲かるわけでもないのに、事件の真相を探り続けるマーロウ。
冒頭で呈示されるのは、この物語のなかで繰り返されるマーロウの行動原理そのものだ。
きわめて身近かつインティメットな距離感で、エリオット・グールドの演じるフィリップ・マーロウという男の「あり方」を、冒頭で猫を触媒として描き出す。
そこで鮮烈な印象を与えた彼の人となりは、作品を通じて一貫して変わらない。
だから、本作のヒーローは映画のなかで「生きている」。
斜に構えてはいても、冷笑的ではなく、人好きのする親切な好漢。
人から「親切ね」と言われると、私立探偵だからさ、とまぜ返す。
そこかしこでマッチを擦っては煙草を吹かしまくる迷惑者だが、
律儀にスーツを着て、いつもネクタイを締めている。
そんな彼の姿を、アルトマンは冒頭10分で僕たちの心に焼き付ける。
だから、この映画の冒頭は得難く、魔法のようなのだ。
― ― ― ―
人によっては、こんなのマーロウじゃないという人もいるだろう。
実際、そのことでこの映画について怒っている知り合いを何人も知っている(笑)。
でも、僕はこのマーロウで、いったい何がいけないのかと思う。
ちなみに、僕は高校生のときにチャンドラーの聖典7作(清水俊二訳他)は全て「音読しながら」読破しているし(お恥ずかしい!!)、とくに『さらば愛しき女よ』と『長いお別れ』はけっこう偏愛している口だ。
本来の守備範囲は本格ミステリとノワール、モダン・ホラー、「奇妙な味」の短編あたりを主食に生きてきた海外ミステリ読みではあるが、ハードボイルドに関しても、主だった作品はひと通り読んでいるつもりだ。
原作のフィリップ・マーロウは、たしかに寡黙な男だ。
のべつ幕なしに軽口を言い倒しているグールド版マーロウとは、だいぶ違う。
だが、もともと原作は、そうはいっても一人称の小説。
口には出さない心の声がずっと書き記されている。
映画版のマーロウは、それを片端から口に載せているだけだ。
メディアの特質上、「一人称小説」が「独り言を言い続ける映画」にすげ替わっていると考えればよろしい。なかなかの発明じゃないか。
原作のマーロウはもっと冷静で、もっと落ち着いている。たしかに。
でも、僕はマーロウの本質は「ウェット」な部分にこそあると思っている。
ハメットを模倣して、ドライに、ハードに書こうとしたのに、なお抑えきれず溢れだしてくるロマンティシズムこそが、チャンドラーの真骨頂だ。
そのあたり、ロス・マクドナルドやミッキー・スピレインよりも、もっと「ツンデレ」な部分がチャンドラーにはある。
作家性の本質はもっとウェッティなのに、それを糊塗して「ハードボイルド」の型を遵守することで、逆に行間からあふれ出す「何か」を手に入れたのが、チャンドラーという作家だ。
チャンドラーの魅力を最も巧みに「模倣」してみせたのは、ハワード・ホークスでもロバート・B・パーカーでもなく、おそらく日本の原尞だと思うが、ロバート・アルトマンとエリオット・グールドが創造したマーロウ像もまた、一見原作破壊的に見えて、意外に的を射ているのではないか、というのが僕の個人的意見だ。
たしかにこれはマーロウというより、ただのエリオット・グールドかもしれない。
でも、ある種の型にはめた生き方を必死で送りながら、言動の端々にウェットさをにじませるグールドのマーロウは、僕にとってはとてもマーロウらしく見える。
年齢設定的にも、原作時点のマーロウは42なのだから、46歳のボガート(年齢より爺くさいw)や58歳のミッチャム(ほぼ老人である)よりも、当時35歳のグールドはなかなか適任だったのではないか。
ラストで、マーロウは絶対あんなことはしない、との意見もある。
たしかに。ちょっとラストのマーロウはマイク・ハマーのようだ。
でも、別の原作(『大いなる眠り』)ではあんなこともやっているし、
必ずしも「そういうことをしない」探偵というわけではない。
そもそも、テリー・レノックスは、もう「死んでいる」のだ。
死んでいる人間は、殺せない。そこを忘れてはいけない。
何より、チャンドラーの聖典のうち6作を翻訳した清水俊二も『長いお別れ』のあとがきで、「この五人のフィリップ・マーロウのなかから、しいて一人を選ぶとすれば、『長いお別れ』のエリオット・グールドである。監督がハリウッドの知性派ロバート・アルトマンだったので、映画のできばえも、チャンドラーの文明批評、社会批評をとりいれているところなど、五つの映画のなかではもっともチャンドラーらしい匂いがあった」と述べている。
まあ、清水俊二がそういったからどうだというわけでもないのだが、原文とがっぷり四つで向き合ってきた人が「いちばんチャンドラーらしい」と言っているという事実は、重いと思う。
― ― ― ―
とはいえ、ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』が原作至上主義者のお眼鏡にかなう日は、永遠に来ないかもしれない。
なにせ、話の大筋は一緒だが、原作に出てくる過半の人間が出てこないうえ、代わりに大量の面白人間が脇キャラとして加えられている。原作に出てくる大量の気の利いた台詞も割愛され、代わりに同じくらい大量の映画版独自の面白軽口が導入されている。
あれだけさっき激賞した冒頭の猫のシーンも、原作には出てこない映画オリジナルだ(先述の翻訳者・清水俊二は、チャンドラーが大の猫好きだったことへの目配せだろうと、指摘している)。
全体として原作を大切にしているかといわれると……、そりゃまあ、あんまりしてないかも(笑)。
でも、だからといってあまり怒らないでほしい。
アルトマンは、原作の大枠と、空気感の本質と、精神性の核心だけを受け継いで、まったく新しい『ロング・グッドバイ』を創造してみせたのだ。
この映画は、『長いお別れ』を素材としながらも、ヘミングウェイ、ハメット、チャンドラーと連なるハードボイルド文学史そのものを批評する試みであると同時に(作中に登場する作家ロジャーはあからさまにヘミングウェイを元ネタとするキャラだし、アル中化した作家夫婦が隠棲して生活する様子は執筆当時のチャンドラーの境遇を反映している)、ハリウッド映画史を批評する試みでもある。
バーバラ・スタンウィックやウォルター・ブレナンやジェイムズ・スチュワートの真似をする守衛はその象徴的なキャラだが、そこかしこに40年代~50年代のフィルム・ノワールへの目配せと、当時「現代」だった70年代の対比が見られるのは見逃せない。たとえば、40年代から借りてきたフィリップ・マーロウはリンカーンに乗って頑なに黒スーツを決めてキャメルを喫うが、レノックスがかっ飛ばしているのはフェラーリだ。
何より、この映画のラストの並木道とマーロウの行動、すれ違う女の車という道具立ては、誰が見ても一目でわかる『第三の男』の明快なパロディである。
その意味では、アルトマンは単に『長いお別れ』を映画化しているわけではなく、ハードボイルド/ノワールの映画史そのものを映画化しようとしているのだ、ともいえる。
ちなみにチャンドラー自身が、ハリウッドにどっぷり浸かって、映画やドラマの脚本を散々書かされていたという事実も、本作を語るうえで忘れてはならないだろう。
……とかなんとか書いている間に紙幅が尽きてしまった。
この映画には冒頭の10分以外にも、映画史上に残る名シーン(遠浅の海岸での大波のシーンの素晴らしさ!)や、その後多くの追随者を生んだと思しきショッキングな暴力シーン(マーロウを脅すただそれだけのために愛人の顔面をコーラ壜で粉砕するマーク・ライデル)、ジャック・タチの映画のようなほのぼのとしたスケッチ(尾行する三下とマーロウのやりとりの絶妙さ!)、某有名俳優のちょい役出演(留置所とヤクザのオフィスに注目。すっげえフリーキーな腕の筋肉!)など、本当に見どころが満載である。
未見のみなさんは、ぜひ一度騙されたと思って触れてみていただけると、本作の大ファンとして本当に嬉しく思う。
長いお別れ
思いの外猫のくだりが長くてかわいい。
建物がいいな。マーロウのアパートも、アイリーンの温室みたいな家も、ヤクザの家も。
マッチを擦ってタバコを吸うとか、モノマネする守衛とか、鬱陶しい同室のお喋りとか、隣家の変な踊りとか、他愛ないシーンがたくさんあって思い返すと愛おしい。
そういう小さな生活を生きていて、信じていた人に裏切られた切なさがしみる。並木道でダンスする。
最後、俺は猫を失ったって言ってた?
探偵物語
松田優作の「探偵物語」やPTAの「インヒアレント・ヴァイス」の元になった映画と聞いて初鑑賞
「インヒアレント・ヴァイス」は初見で意味が分からず2回観たが、後から意味などどうでもいいと解釈
松田優作は工藤役でこのフィリップ・マーロウをやりたかったのだと納得
ジョン・ウィリアムズもいつものジャ~ン❗ではなく渋い仕事
チャンドラー原作でなければ良かったのに。
今年出た原作の新訳、創元推理文庫の「長い別れ」(田口俊樹訳)を読んだ流れで、早川書房の村上春樹訳「ロング・グッドバイ」を久しぶりに再読し、エリオット・グールドのマーロウなんてあり得ないと思って今まで避けていたアルトマンの「ロング・グッドバイ」を観た。
マーロウ物ではなく、普通の私立探偵主人公のハードボイルド物としては、途中若干ダレるがまあ変わった映画で、主人公の住んでいる不思議なマンション(アパート)とか、意味のないヌーディスト集団の住人とか、70年代ヒッピー文化の表現が今となっては古臭いけど時代の色を映し出すユニークな映画として星2.5から星3つはあげてもいいだろう。
しかし、レイモンド・チャンドラー原作の映画化としては最低だとおもう。
これはフィリップ・マーロウのイメージや世界観を完全に損なっているし、テリー・レノックスの扱いなど、原作をぶち壊しているし、ラストなんか、あり得ない。
質が高いのは、名カメラマン、ヴィルモス・ジグモンドの映像くらいか。
リイ・ブラケットって、スターウォーズ・シリーズの最高傑作、「帝国の逆襲」の脚本家として評価していたのだが、実はローレンス・カスダンがほとんど書き直したという説もあるし、このあと、ハワード・ホークス監督のチャンドラー原作「三つ数えろ」(The Big Sleep)を再見しても、後半の甘ったるい脚色が今一つだったので、本作のひどい脚本(脚色)を見ると、大して評価できないとがっかりした。
まあ、オリジナル映画だったら面白さもあるので、前述の評価を与えてもいいかもだが、チャンドラーの“The Long Goodbye”の唯一の映画化作品がこれかと思うと、墓場のチャンドラーも激怒して「大いなる眠り」につけないと思うので、あくまで原作の映画化という評価で星0.5。レイモンド・チャンドラー、フィリップ・マーロウの熱烈なファンは見るべからず。チャンドラーにまったく思い入れのない人には見るなとは言わない。ただ、原作未読であれば、絶対に原作から先に読むべし、くれぐれも原作読まずに見てはいけない。
エリオット・グールドはやはり全くマーロウには向いていない。「三つ数えろ」のボギーは原作者が言うようにやはり身長が厳しい。カメラが終始マーロウの目線で展開するという斬新な手法で映画界を沸かせたロバート・モンゴメリーは意外とぴったり(笑い声がいまいちだがw)。でも、やっぱりマーロウ役者と言えば、年齢は行き過ぎてはいるものの身長185cmの堂々たる押し出しで、「大いなる眠り」(イギリスを舞台に変えてしまったのが惜しいが)もさることながら、チャンドラー原作の最高傑作「さらば愛しい女よ」で、シャーロット・ランプリングと共に絶妙なチャンドラー・ワールドを醸し出したロバート・ミッチャムだろう。あるいは、オリジナル作品だが、「チャイナタウン」のほうが、アルトマン作品よりよっぽどチャンドラー作品と言えよう。
ほんと、チャンドラー原作の映画化としては酷い映画だった😡
遊び心と実験精神でハードボイルドならぬスクランブルド・エッグ映画に
1)ハードボイルド映画とは
ロス・マクドナルド原作の「動く標的」には、ポール・ニューマン演ずる、情けない生活を送っているのにやたら格好いい探偵リュー・アーチャーが登場する。
彼は女にもてまくり、犯罪者たちの襲撃も見事にかいくぐり、最後に捕まえた犯人については、「奴がニーチェの深淵に魅入られただって? バカを言うな。金に魅入られただけだ」と断罪するのが痛快だった。
ハードボイルド映画はかようなものかと思って、チャンドラー原作の本作を見ると、違和感だらけでびっくりさせられる。ハードボイルド・ファンならきっと怒りだすだろう。
2)ソフト・ボイルドどころかスクランブルド・エッグ
冒頭、猫に眠りから起こされ、キャットフードを買いに行く主人公の姿が、とにかく薄汚い。おそらくは酔った挙句にYシャツ、ズボン、靴を履いたままベッドに倒れこんでいたのだろう。よれよれの恰好で、煙草をふかしながら譫言のように隣人と会話する姿には、格好良さのカケラもない。
バーに行ってもチェーンスモーカーのまま、さらに依頼人の美形人妻と会っても見苦しく煙を吐き散らし続ける。完全にニコチン中毒だ。
主人公以外の登場人物も変わり者だらけ。美形人妻の夫の作家は、いさかいのあった背の低い医師が訪ねてくると、「ミニーマウスだな」と公然と侮辱する。マーロウにカネを出せと脅すチンピラのリーダーは、愛人に熱愛の言葉を囁いた直後、顔面をビンで殴りつけてしまうわ、隠し事のないようにしようと言って手下の連中といっせいに服を脱ぎだすわ…とにかくまともな人間が出てこないのである。
主人公マーロウがメキシコの寂れた街を訪ねるところは、本作を象徴するシーンだろう。バスを降りると埃りっぽい街路は犬だらけで、吠えまくる犬の間をカメラがパンしていくと、奥には交尾しているオス犬、メス犬がいるではないか。カメラは迷わずズームして交尾を捉え、それに気づいた2頭は離れてしまう。
これは金銭欲と性欲に塗れたセレブを象徴したシーンなのか? 何の意味もないシーンではないのか?
…いや、やはり意味はあるのだ。格好いいハードボイルド映画を、くだらない遊び心のシーンでぶち壊すという意味が。
それに加えてこの映画のほとんどの部分が、既成の探偵映画をぶち壊しにしており、もはやハードボイルドどころかソフトボイルド、いやスクランブルド・エッグといったほうがいい。
3)アルトマンの方法
アルトマンは68年の監督作「宇宙大征服」で、「俳優に同時に会話をさせた」という理由から解雇されたという。しかし、70年の「マッシュ」でも断固として同じ手法を使って、ベトナム戦争をオチャラケに風刺するのだから、何をかいわんやw さすがに継続中の戦争を茶化すのはまずいと、設定が朝鮮戦争に変更されたが、それが記録的大ヒットとなり、映画史に残る傑作となるのだから、単なる冒険主義だけではないことがわかる。
おそらくアルトマンには、単に人と違うこと、既存の映画にないことをやるという実験精神と同時に、その効果を計算できる批評精神がある。だから、あれだけ滅茶苦茶なことをしつつ、多くの傑作を残すことができたのだろう。
本作でも、何人もの登場人物が同時に話をして字幕がギブアップするシーンが再三ある。さらに繰り返される長回し、窓ガラスに映る屋外のマーロウと、ガラス越しの屋内の依頼人夫婦の姿を同時に映すなど、技巧的にいろいろ試みがある。最後に主人公が並木の奥で理由もなく通行人とダンスを始めたり、遊び心もたっぷり。そして何より恰好悪い、ズレた「ハードボイルド探偵」のイメージが既成映画のパターンをぶち壊してしまう。
4)評価
本作は薄汚い探偵のつまらない生活をたどるところまでは退屈だが、スクリーンで徐々に変なことが起き始めると、「これは、最後にどうやって回収するんだろう」という興味から画面に惹きつけられてしまう。そして、やがて従来の探偵映画の型を破って、このジャンルに新たな探偵像を作り上げたことに気づかされるのである。
しかし、本作では型を破るのが精一杯というところで、さすがに「マッシュ」のような突き抜けた面白さまでは感じられなかった。
製作1973年という時代のアメリカの雰囲気を感じた
その時代のアメリカを感じた。主人公は四六時中常に煙草を吸って、依頼人のクライアント宅にもくわえ煙草で訪問するわ、ヒッピー文化のなごりえか奥様もフラワーピープルみたいなフワフワヒラヒラのドレスで高級住宅地にはアジア系のメイドに黒人の使用人。アメリカが豊かな時代で白人の住む立派な住宅街。いつも怒鳴りあってるみたいなギャーギャー煩いセリフ廻しにホント苛々しました。今じゃ放送禁止というかダメな事ばっかりで時代が変わった事がよくわかる。主人公がフィリップマーロウのイメージじゃなかった。
メジャーなアメリカ的でないアメリカ映画
むかし劇場で見たShort Cutsが面白かったので、アルトマン監督作品をビデオ屋で探して見ました。
MASHとかNashville とか面白かったですが、これはまた異色。原作も当時は未読でした
何より印象的だったのは、エリオットグールド演じる主人公が静かなこと
アメリカ映画といえば銃を突きつけてバンバン撃って大声で喚いて暴力で脅してという暴力至上主義的な?描写にに辟易していたので、静かに自分個人の倫理で行動する主人公が非常に新鮮で、好感を持ちました
(まあそれがまさにチャンドラーということなのかもしれませんが、そうであれば、原作世界を壊さない映画化ということかと思います)
ある意味日本人の感性に合うのかもしれません
もう一度見たいです
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