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トラッシュ・ホラーのゴミダメの歴史のなかでも、ひときわ悪名高い『悪魔のしたたり』。
サイテー映画の最底辺に君臨する、バッド・テイストの代名詞ともいえる本作。
自分も30年前くらいにVHSで観ているはずだが、ほとんど内容は覚えていない。
今回、劇場初上映ということで、ルンルン気分で観に行ってきた。
まあ、ひどいね!!
ホント、クソみたいな映画だよ!!
ホント、クソみたいな映画だよ!!(2回いってみる)
でも、なんかぼんやり記憶していたよりは……ひどくなかったような??(笑)
一般論として、映画というものは事前の期待度が低ければ低いほど、ひときわ輝いて見えるものなのでなんともいいようがないが、少なくとも『死霊の盆踊り』や『血まみれ農夫の侵略』みたいな最低最悪のゴミオブゴミと較べれば、それでもそれなりに頑張ってるような気も……あくまで気のせいですが。
ここに感想を書きだしてから観たカルト映画と比べても、『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』『リキッド・スカイ』よりはまだマシな映画な気がする。
冒頭は、決して悪くない。
あやしげな電子音とピアノのBGMにのせて、
雪の街を軽トラックがひた走る。
なんだか楽しそうな二人組。
後ろに積んでいるのは謎の木箱。
カット割りも、ライティングも意外にいかしている。
音楽が「ハバネラ」のリズムに切り替わる。
二人の到着を待ち受ける謎の怪人。
腕にはクロネコを抱いている。
ブロフェルドか、あんたは(笑)。
いかにもゴチック。いかにもコーマンチック。
到着した木箱に当たる光。
作業を始めるミニオンカラーのこびと。
裏から鎖で何かが吊り上げられていく。
おお、出て来た! 出て来た!
おおおお、なんだって! こりゃ裸のねえちゃんじゃねえか!
期待を高める大仰さ。
古色蒼然たる盛り上げ方。
キワモノショーとしては、実にすがすがしい、かくあるべしのOPだ。
ここまでは有り体に言って、ぜんぜんひどくない。
でも、なんでかこのあと、音楽が電子音メインのダッサイBGMに切り替わってからは、映画は下品さと下手くそさと適当さを極限にまで加速させていく……。
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『悪魔のしたたり』は、たしかにクズ映画だ。
悪趣味で、露悪的で、暴力的で、煽情的で、グロテスク。
品性下劣きわまりない。
ただただ観客の劣情と、嗜虐心と、怖いものみたさを刺激するためだけにつくられた、ひたすら志の低い見世物映画である。
しかも最強にタチが悪いことに、肝心の上記の試みが「ちっともうまくいっていない」。
要するに、暴力も、エロスも、あんまり観客を刺激しない。
単純に「やりすぎている」だけで、怖くもなければエロくもないのだ。
おそらくそれは、監督兼脚本のジョエル・M・リード自身が、金のためだけに動いていた人だからだろう。「最低最悪のお下劣映画を撮れば面白がって大ヒットするんじゃないか」という「ネタ感」だけで撮っているから、いくら裸のねえちゃんを出しても、叫ばせても、拷問しても、八つ裂きにしても、ちっとも観客の胸がふるえないのだ。
すなわち、ジョエル・M・リードは本物の変態ではない。
変態がとっていない変態映画だから、「勘どころがずれている」。
たぶん、そういうことだ。
この映画が大衆から良くも悪くも「評判」を得たのは、公開時ではなく、「最低映画」としての触れ込みで企画上映がなされるようになってからのようだ。
つまり、内容ではなく「あり方」が面白がられて、こうやって製作後50年以上経ってなお「名前を知られる」存在となった。これを「面白がる」バッド・テイストのカルチャーがあって神輿に担ぎ上げられているだけで、作品自体にそこまで価値があるわけではない。
要は、「ここまで無意味にやりすぎてる下劣な映画で、出来も笑いものにできるほどひどい」映画はそうそうないという「稀少価値」が長く好事家たちから評価されている、ということだ。逆にいえば、本当に気持ちの悪い拷問&人体破壊のオンパレードなら、レイトショーで若者たちがポップコーン食べながら爆笑して歓声を上げるカルチャーにはそぐわなかったわけで、「適当にホラーとしても腑抜けている」がゆえに「うまくはまった」ケースといえるのかもしれない。
あと、トラッシュ・ムーヴィーの世界には、本当に学芸会レベルの演技と演出で撮られたどうしようもないものも時々存在するので、それを考えると、意外に映画としては「観られる」部分もあるから、レイトショー上映に耐えたという部分もありそうだ。
●少なくともサルドゥ役の俳優はちゃんとしてるし、脇の面々もこんな映画のためにそれなりによく頑張っている。とにかく演技がひどいのは、殺されるおねえちゃんたちと、檻の中の食人ガールズだけど、まあそこはそういう映画だと思ってみるしかない。
●特撮は恐ろしくしょぼい。どうやって撮っているかのトリックの仕組みが一目瞭然。それから殺人シーンや拷問シーンに必要な「ため」が致命的に欠落しているので、常にあっけらかんと指が飛ばされ、首が飛ばされる。グロテスクシーンにも事前の「煽り」が足りないので、出された映像以上の恐怖を観客に与えることが出来ていない。
前半の拷問のほうがやたらえげつなくて痛そうなのに、後半に進むに従って、ネタが大したことのないものにパワーダウンしていくのも、バランスとしては辛い。
●音楽は不思議な仕上がりで、7割ゴミ、3割はわりと面白い。というか、全編にわたってのべつまくなしにBGMが流れており、どこかサイレント映画の付随音楽に先祖返りしたかのような感興がある。シーンに合わせて即興で音楽をつけているような感じで、鳴らすのをやめたら観客が退屈してしまうといった不思議な強迫観念が感じられる。
総じて、電子音の脅かしの曲は陳腐でダサすぎるが、時に流れるピアノ曲などはマカロニめいたメロディアスなものもある。あとシーンに合わせて「ハバネラ」「椿姫」「白鳥の湖」「ジゼル」といったクラシックをベースに作り替えたようなパチモン臭い曲が流れるのも、とてもサイレント映画っぽい。
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『悪魔のしたたり』は必ずしも突発的に発生したゲテモノ映画ではない。ある意味、金銭欲と山っ気だけで撮られた映画であるがゆえに、逆説的ではあるが、作家性抜きで純粋に文化史的に位置づけられる部分がある。
本作の源流となるのは、20世紀初頭のパリに実在した残酷ショー専門小屋『グラン・ギニョール』であり、Wiki から抜粋すれば、それは「浮浪者、街頭の孤児、娼婦、殺人嗜好者など、折り目正しい舞台劇には登場しないようなキャラクターが多く登場し、妖怪譚、嫉妬からの殺人、嬰児殺し、バラバラ殺人、火あぶり、ギロチンで切断された後も喋る頭部、外国人の恐怖、伝染病などありとあらゆるホラーをテーマとする芝居が、しばしば血糊などを大量に用いた特殊効果付きで演じられた」ものだったという。
これを比較的そのまま自らのゲテモノ映画に導入したのが、アメリカが誇るゴア・ムーヴィーの帝王ハーシェル・ゴードン・スミスの『血の魔術師』(70)である。一方、当時ソーホー地区のようなオフブロードウェイでは女囚監獄拷問ものやSMポルノが流行っていて、舞台小屋ではSMバレエショーが開かれていた。
そんな場末のエクストリームなカルチャーのなか、一攫千金を狙って作られたのが本作『悪魔のしたたり』である。もちろん、その目論見は達成されず、映画はすぐにゲットーの2番館にまわされ、テッド・マイケルズの『人間ミンチ』(71、自分は観たことがあるが、これもひどい映画だった)やハーシェル・ゴードン・ルイスの『ゴア・ゴア・ガールズ』(72、俺の映画人生でも最も再見したくないくらい生理的に気色の悪いゴア・ムーヴィー)と併映されたという(笑)(パンフの高橋ヨシキ氏による)。
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『悪魔のしたたり』は、どこまでも反道徳的で、下世話で、女性蔑視的な映画だ。
だが、配役などは意外に考えられている節もあって、侮れない。
まず「責め」側のメンバーが、フランス風の名前を持つ怪人サルドゥ(グラン・ギニョールを想起させるネーミング)を除いては、黒人女の牛頭馬頭(ごずめず)と、陽気なミニオン風のこびとラルファスで、「ふだんは虐げられる側のマイノリティ」が選ばれている。
逆にやられる側は、コーカソイドのねえちゃんばっかりで、有色人種とフリークスがきれいどころのねえちゃんを拷問し、殺戮するという美しい構図が確立されている。
とくにメイン・ターゲットとして狙われるのが、高名な舞台評論家と、バレリーナと、恋人のアメフト選手という、いかにもの「カースト最上層」の高慢な連中というのが、下層民とおぼしきメイン・ターゲットの溜飲を下げる仕掛けであることは間違いない。
その他、サルドゥが筋金入りのサディストでありながら、同時にマゾヒストでもあり、ねえちゃんたちに鞭うたれたり、こびとに口で奉仕したりする側に回っても歓びに打ち震えていて、そういう「主客転倒」のシーンが頻出するのも、ある種の「平準化」を呼んでいるといえる(サルドゥが一方的な支配者というより、関係者全員が変態という認識を生む意識誘導というか客体化が仕組まれている)。
本作で最凶・最狂の変態はおそらく、中盤を盛りたててくれる「医者」であるが(後の配給元であるトロマが付けた『Blood Sucking Freaks』のネタ元でもある脳みそチューチュー男)、白人で、特権階級の変態である彼は、サルドゥとラルファスの凸凹コンビからも眉をひそめられ、ふたりの謀略にはまって食人ガールズの餌食となってこと切れる。
さらにはラストに至れば、汚職警官も、サルドゥも、ラルファスも、食人ガールズの贄となるわけで、一応のところ「因果応報」の道徳律は、ぎりぎりのところで機能しているということにはなる。
その他、ふと思ったことなどを箇条書きで。
●エックス型の十字架による磔拷問と、裸体のサルドゥの組み合わせは、ホセ・デ・リベーラの『聖アンドレ』を容易に想起させるし、ラストシーンは聖ヨカナーンやホロフェルネスの断首を思い起こさせる。
●当然ながら、断頭台による断首はマリー・アントワネットが発想源だろう。脚を(残念ながらオフスクリーンで)チョンパされるバレリーナはアンデルセン童話の「赤い靴」が元ネタか。
●拷問され、殺される有象無象の全裸ガールズにほとんど台詞らしい台詞がないのは印象的。彼女たちを「人」としてではなく「動物」として見ているのがよくわかる。同様に言葉を奪われた、あの檻のなかの食人ガールズとの関係性ってのは、洗脳できた組とできなかった組ってことなのかな?
●脳みそチューチュー、目玉焼き、ラストの●●●バーガーと、この映画で最も印象的なショットは、だいたいカニバリズムネタのギャグシーンと相場が決まっている。同時期のハーシェル・ゴードン・ルイスの『ゴア・ゴア・ガールズ』もそうだけど、70年代の食人ネタってホントえげつなくて気持ち悪いのが多い。
●ギャグということでいえば、サルドゥとラルファスの凸凹コンビは、明快に「お笑い二人組」として規定されており、指かけバックギャモンのシーンなどはわざわざ早回しまで使って、わかりやすくお笑い要素を加味している。お尻ダーツのシーンも明らかにコメディが主導である。
主従といいながら、二人は悪の紐帯で結ばれたマブダチであり、フランケンシュタイン博士とイゴール、ないしは、スカラマンガとニックナック(『007黄金銃を持つ男』)のような関係性を示している。
この映画は結局のところ、二人のお笑いコンビが思いついた子供のような残酷ネタを、稚気満々に披露していくライブショーのようなものともいえるのではないか。
●パンフにもでかでかと掲載されている、真ん中で割れたゴムマスクのようなホラーフェイスが、一回も映画には出て来ないというトロマのポスター詐欺はご愛敬。よくやるよなあ、こんなこと(笑)。これ自体が一つの壮大なギャグとして機能してるっていう。