ヤンヤン 夏の想い出のレビュー・感想・評価
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繊細かつ複雑な人間関係をめぐる名作が、レストア版でより味わい深く
エドワード・ヤン監督は自らの脚本で、一つの家族をストーリーの主軸に据えつつも、家族内の関係性よりむしろ、家族を構成する各人と他者(異性であったり、仕事のつながりであったり)との関係の変化を並行して描き、群像劇のように展開させていく。
一家の構成は、小学生のヤンヤンを起点とすると、高校生の姉ティンティン、コンピュータ会社を共同経営する父NJ、別の会社に勤める母ミンミン、同居する祖母。身重の新婦と結婚式を挙げる叔父アディ。
ヤン監督の前作「カップルズ」では別れた男女がそれぞれ別の相手と付き合う流動的な関係が複数登場したが、本作で描かれるのは男1人女2人の相似な三角関係の3組。アディの元恋人が披露宴に乗り込んできて場の雰囲気を悪くする。NJは初恋の相手だったシェリーと偶然再会し、復縁を迫られる。ティンティンは隣に転居してきたリーリーの恋人ファティとデートに出かける。東京に出張したNJがシェリーと落ち合って若い頃のデートを回想する声に、台北の街をティンティンとファティが手をつないで歩く映像が重なるエモーショナルな名場面は、そうした関係の相似形を強調するとともに、恋の行く末を暗示してもいる。
今回の4Kレストア版により、俳優の表情や目の演技がより鮮明になり、人物の感情がより細やかに伝わるようになったが、それだけではない。カメラが窓ガラス越しに被写体を撮影したり、ガラス面や鏡面に反射した人物らを撮ったりする意匠を凝らした映像スタイルを一層際立たせる効果も生まれた。ヤンヤンの「僕が見るのは前だけで、後ろは見えない。だから真実の半分しか知らない」という言葉と考え合わせると、直接カメラに収める一面的で確立されたショットだけでなく、ガラス越しや鏡像、さらには写真やビデオ映像も加えて、人間という存在の多面性と不確かさを描き出す意図だろうか。
主要な登場人物の世代は、幼少、思春期、中年、老齢とバランスよく配され、結婚式、出産、そして葬式と、人生と家族の節目のイベントも描かれる。観る側もどんな世代であれキャラクターの誰かしらに感情移入しやすく、また年を隔てて繰り返し観てもそのときどきの人生のステージや状況によって受ける印象が変わってくる。観るたびに味わいが深まる、滋味豊かな傑作を最後に遺してくれたエドワード・ヤン監督に、改めて感謝の念を抱いた。
エドワード・ヤン監督ありがとうございました!
エドワード・ヤン監督の名作と聞き、勇んで行きつけの映画館に行った。ランチでビールを飲んだこともあり、最初の1時間でちょっと眠くなり、幾つかの場面をうつらうつらで観てしまった(ごめんなさい!監督)。だが残りの2時間は目が冴えてしっかり観た。ヤンヤンより父親のN.Jや姉の恋模様が中心だったが、それぞれの心の機微が上手く表現されていて印象的なシーンが多い。弟夫婦のドタバタも含め、男と女は古今東西すったもんだするものなんだなぁ、と実感。ラストにおばあちゃんは復活したかと思いきや姉が見た幻だったが、葬式でヤンヤンが亡きおばあちゃんに投げかける言葉に家族がしんみりするところも良かったです。
人生は人それぞれで100人にいれば100通りの人生がある。そして、当たり前の日常が愛おしくなる。そんな映画でした。
2000年頃の台北もそれなりに豊かだ。台湾は独自の経済発展もあるが、日本、アメリカ、中国の良いところをうまく取り込みしたたかに強くなったんだなぁ、とも思った。高市発言で緊張も走ったが、いつでも気軽に旅行に行ける隣国であって欲しい。
ヤンヤンのように生きたい
今年最後に観た本作は、2000年に放映された台湾と日本の合作。
3時間近くもあって、とにかく長い。
座り心地の良くない椅子で鑑賞したので、激疲れです。
ヤンヤンの家族のそれぞれの事情がなかなか切なく、全てに共感できた。
その中でも特に、純粋なおとうさん…イッセー尾形演じる日本人の大田とのやり取りが特に印象的でしたね。
また、劇中の台詞「映画は人生を2倍楽しくする」にも共感。
切なく悲しくなりがちなストーリーですが、ヤンヤンを見てたら元気が出る。
8歳のヤンヤンは家族の事情を知らないけれど、少なくとも自分なりに考えて毎日を生きています。
「複雑に考えず、ヤンヤンのように飄々と生きよう、来年も…!」
…と自分も思いました。
余談ですが、手塚治虫に影響されたというエドワード・ヤン監督、ヤンヤンの部屋にアトムの人形がありましたね。
禍福は糾える縄の如し、だから大丈夫
伝説の名作と謂れのある名作を
いささか構えつつ臨みましたが、
結婚式の場面から、すべて忘れて、
あたかもわが事のように見入ってしまいました。
作品クオリティや完成度云々は、
プロの方が25年間あちこちで表明されていますから、
いまさら申すまい。
子供、若者、大人、老人
人生の四季折々のイベントが
めくるめく同時進行で
親しみやすくユーモアを交えて
展開されていきました。
見終わったあとは、じぶんのこれまでの人生や
関わってきたまわりの人々に
想いを馳せることができました。
映画を観て、それでおしまい、じゃない。
わたしの人生は、これからまた新しい。
いつもが初めてというセリフ、イッセー尾形が印象的
幸も不幸も、交互に来るけど、決して恐れないで
勇気を持って人生というプールに飛び込もう!
ヤン監督の見事な集大成でした。
とかく人生はままならぬ。邯鄲の夢の如し…
冒頭のシーンとラストシーンの対比が見事です。
ある種、もしもその選択をやり直せたら物なのですが、パラレルワールドに逃げず、現実世界でそれを成し遂げる手腕に感嘆しました。
しかも登場人物それぞれが!
やがて夢と現実が微かに混じり合うような余韻も最高でした。
それを表現するには3時間の長さこそが必要。エドワード・ヤンの鬼才っぷり本作に尽きるの感がありました。
配信されていないようなので、見逃したらこの映画を観ることは生涯無いかもしれないとの焦りでなんとか時間を作って鑑賞しました。
観てよかった。
余談ですが、制服と、お別れと、今年観た全然違う2つの映画を連想して、個人的に年の瀬感を堪能してしまいました。
そして余談をもう一つ…
山手線のホームに喫煙所があったことをスッカリ忘れていた自分に驚きました。
私こそ、思えば遠くへ来たもんだ…
既視感のある風景Familiar-Looking Landscapes
公開時(2000年)は観ていない。
今回初めて観た。
台湾の街並みは、日本とよく似ていて
2000年ごろの街並みは、
個人的には既視感がある。
そんな中で
ある家族に起こった出来事を
淡々と描いている。
インターネットはあったけれど
SNSはおろか、ブログもなかった。
メールはあったけど、
携帯電話は普及途上。
なので、人と人とのやり取りは、
距離も時間も余白がある。
家族一人一人に起こった出来事は、
伝わらなかったり、
伝わっても時間をおいて当人から語られる。
今みたいに、ネットの衆人監視ではなく
考え、行動する事に
成否も含めて一人一人の判断が
まだゆっくりとあった時代。
(書いている私は56歳です)
この映画は良くも悪くも
令和の今では成立しない。
正確には、現代の設定では成立しない。
2000年ですら
四半世紀前ですら、
大きく仕組みが、
人と人との営みが変わった事を
思い知らされる。
早川千絵監督の映画「ルノワール」で感じた
同じ事を考えてしまった。
一つじゃないと思った既視感は
おそらくこれなんだろう。
令和の今、観たからこそ
時代との
時間との距離感を
強く感じた作品になった。
I didn’t see it when it was first released in 2000.
This was my first time watching it.
The streets of Taiwan look very similar to those of Japan, and the cityscapes around the year 2000 give me a strong sense of déjà vu, personally.
Within that setting, the film calmly depicts the events that happen to a single family.
The internet existed, but there was no social media, not even blogs.
Email was available, but mobile phones were still in the process of becoming widespread.
Because of that, interactions between people had distance, time, and space to breathe.
What happened to each member of the family was sometimes not communicated at all,
or, even when it was, it was spoken about later, by the person involved, after some time had passed.
Unlike today’s environment of constant online surveillance by the masses, this was a time when thinking and acting—and taking responsibility for success or failure—were still matters of individual judgment, made at a slower pace.
(The person writing this is 56 years old.)
For better or worse, this is a film that would not work if made in Reiwa-era Japan.
More precisely, it would not work if set in the present day.
Even the year 2000—only a quarter of a century ago—already feels distant enough to remind us just how drastically the systems of society, and the ways people relate to one another, have changed.
It brought to mind the same feelings I had when watching Renoir, directed by Chie Hayakawa.
The sense of déjà vu I felt, which I didn’t think was just one thing, is probably this.
Because I watched it now, in the Reiwa era, this became a film that made me strongly aware of the distance between the era it depicts and the passage of time itself.
退屈で眠い…
「お互い何が見えているのかわからないとしたら、どうやってそれを教え...
何度見ても圧倒される美しいリズム
2000年。エドワード・ヤン監督。4Kになって再度劇場公開。15年前に初めて見た時のレビューを後から読んでほとんど加えることがないのでそのままこちらに。
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あー、すばらしい。こういう映画をまだ見ていなかったことの幸せ。3時間がちっとも長くない。結婚式で始まり葬式で終わる、明確な人生の主題をもった映画。身につまされます。
岩井俊二監督がつくった予告編でもとりあげられた「雷」つながりの編集がやはり一番印象的。小学生のヤンヤンが、いつもいじめられている背の高い女の子にほのかな思いを抱くシーン。自然現象の教育映画の稲妻を背景に少女のアップ。圧倒されるヤンヤン。すばらしい!(直前で少女のパンツを見てしまったことも)。そしてカットすると、今度は本当の雷雨のなか、ヤンヤンの高校生の姉が友人の元彼と出会う交差点シーンへ。すばらしい。稲妻と雷で始まる恋。
たったひと夏の話なのに、ヤンヤンのお父さんは初恋の女性と東京で再会してやり直そうとしてやり直せないし、お母さんは人生の無意味さを取り戻そうと山籠りして取り戻せない。お父さんの弟(結婚式の人・できちゃった婚)は適当な人生を適当に進む。てんこもりの話が錯綜して進むのにまったく無駄がなく、とても気持ちがいい。
お父さんが美しい初恋の人と再開したってむやみに盛り上がらなかったり、高校生のお姉ちゃんの初恋が好きだか嫌いだか微妙だったりする感覚がうますぎます。恋一筋みたいにならない。っていうか逆に、ゆっくり生きましょうよ、みたいな空気。貪らない。欲をかかない。仕事と人間関係を分けられないお父さんのような人は苦しいだろうけれど「やり直す必要がない一度きりを生きている」という矜持。
衣ずれや靴音、声を出す時のくちびるの音(声じゃなくて)まで、すべての音を細かく録ること。光の変化を意識して、交差点の信号さえも美しくとること。そういう意味でも稲妻(=光)と雷(=音)の映画でした。最後にヤンヤンが「もうそろそろ年だ」というセリフの、これこそポストモダンな(歴史が終わった後の)感覚がたまらなく切なくなりました。
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ちょっとだけ新たな感想として
①ヤンヤンのお姉ちゃんの初恋(未遂)について、その相手の高校生の、自責の念を攻撃に変形して相手に投影することの切なさに初めて気づいたこと。初見ではただ嫌な奴だと思っただけだったが、罪の意識に耐えられない未熟な男の子だったのだ。だからこそあの事件を起こしてしまうわけだ。なるほど。そういえば、なんども交差点で所在投げに立ち尽くしていたっけ。
②ヤンヤンの実験精神。ヤンヤンは初恋の衝撃を受けるだけではない。まっとうな疑問を抱き、社会の理不尽に直面しながらも、自分でそれを確かめようとする旺盛な実験精神をもっているのだ。見えてないものをつかもうとして人々の後頭部を写真に撮ったり、服のままプールに飛び込んだり。それは「人生のすべての出来事は一度きりの初体験」という映画の主題にも通じている。
③ヤンヤンとそのお姉ちゃんに訪れる出来事とお父さんが思い出をたどることがシンクロしている。あたかもお父さんの思い出と同じような出来事がヤンヤンとお姉ちゃんの身に起こる。結婚式から葬式までのひと夏のなかに、いろいろなサイクル(一回り)が描かれている。うまいとしかいいようがない。
とにかくすばらしい映画だ。
彼らには「生還」できるホームがあった? 1990年代末 台北 ある5人家族の肖像
野球中継を見聞きしていると得点シーンで「生還」という言葉を耳にすることがあります。「外野を抜けた長打で一塁ランナーが一気に長駆生還」とか「外野フライで三塁ランナーがタッチアップして生還」とかで出てくる「生還」です。これ、どうして「生還」という用語を使っているかというと、得点時に踏むのが「ホーム」ベースだからだと思います。そう、野球とは走者がホームに無事生還して得点となるゲームなんですね。言われてみれば、何の変哲もない正方形の他の3つのベースと違って、ホームベースは五角形で屋根のついたお家の形をしているようにも見えます(あの形はピッチャーの投げたタマのストライク/ボールを判定するためにそうなっただけだけれど)。
この映画の中心にいるのは1990年代末の台北の(日本流に言うと)比較的高級な瀟酒なマンションに住む5人家族です。メンバーの5人は若い順に言うと、邦題に名前が入っているヤンヤン(恐らく小学校の3年生ぐらい 演: ジョナサン•チャン)、その姉で高校生のティンティン(演: ケリー•リー)、この姉弟の父であるNJ(演: ウー•ニェンツェン)、母であるミンミン(演: エイレン•チン)、そして、ヤンヤンの母方の祖母の5人です。
物語はヤンヤンの叔父(母の弟)の結婚式から始まります。その後、ヤンヤンのおばあちゃんは事故にあい、昏睡状態に陥って病院のベッドで寝たきりになり、結局、物語はおばあちゃんの葬式で終わることになります。そう、この映画は結婚式に始まり、葬式で終わるのです。血縁とか、家族とか、親戚付き合いとかを否が応でも意識せざるを得ない冠婚葬祭の儀式−−それを物語の前後においたサンドイッチ構造の中身のほうは、この20世紀末の台湾の新興中産階級(NJは友人とともにIT関連と思われる会社を経営しています)の家族のメンバーそれぞれの姿を描き、彼らにとって家族とは何であるかを、すなわち、我々にとって家族とは何であるかを問うているように感じました。
実はこの一家、皆、大ピンチに直面しているわけで、平和なホームドラマに出てくるような一家団欒の場面なんぞありません。ヤンヤンのお母さんは意識が戻らない実母に話しかけるのに疲れてしまい、宗教に傾倒して家を出てしまいます。ティンティンはおばあちゃんの事故の責任の一端は自分にあるのではないかと悩んでいますが、その一方で隣に引越してきて知り合いになった隣人の恋人とちょっといい感じになってしまってデートしたりもします。NJは会社のほうがうまくいかず、共同経営している友人との関係も微妙ですが、そんななか、昔の恋人と再会して心が揺れています。ヤンヤンは担任の先生と関係があまりよくないようでクラスメイトからもイジメられてるような感じです。
で、この中で中心になって描かれるのは、NJとティンティンです。NJは仕事上のパートナーとして組んでみたい日本人の大田(演: イッセー尾形)に会いに日本に出張しますが、商談の後に昔の恋人と日本でデートします。そのデートと同時刻で(日本と台湾間の時差の関係上、時計の針は日本のほうが1時間進んでいますが)、ティンティンは隣人の恋人とデートしています。それを交互に見せるのですが、その見せ方が映画的でとても美しいと感じました。と同時に、私はこのまま、この一家は家庭崩壊のほうに向かってしまうのではないか、という一種のサスペンス感も感じました。
あと、私は個人的に、ネイティブではない双方が国際言語としての英語でコミュニケーションをとるシーンがとても好きなのですが、この映画でのNJと大田の英語での会話は秀逸でした。双方にとって外国語であまりうまいとは言い難いのですが、なんだか東アジア的な人情が英語に乗っかっているような感じです。このあたり、家族としての繋がりだけでなく、人と人との繋がりの大切さもも描かれているように思いました。
でまあ、何はともあれ、この一家、結局、皆「生還」するのです。おばあちゃんは家族みんなの記憶に残るということで魂がホームに生還します。NJもティンティンも実は途中でタッチアウトになりそうな局面もありましたが、無事、生還します。ラストの葬式のシーンではヤンヤンがおばあちゃんの棺に向かって、ノートに書いた手紙を読み上げます。ヤンヤン、けっこう、ズルいです。だって、このシーンで全部、持ってちゃうんだもの。
「夢」と「現実」の物語
ヤンヤンの父と姉が主人公であり、ヤンヤンはそこに立ち会う観察者という構造の物語。真実を切り取る「写真」を介して、登場人物たちに「現実」を見せる役割を担っているのかな。
・NJ(父)→昔の恋人や価値ある仕事という「夢」、倒産寸前の会社と家庭崩壊間際のプライベートという「現実」
・ティンティン(姉)→美しい恋という「夢」、嫉妬や性欲や支配欲に溺れる生の恋愛という「現実」
・ヤンヤン→終始観察者の立場だが、同級生に対する恋心を抱いていること、父のNJが「あいつは俺にそっくり」と言っていることから、やはり単純に無垢な存在というわけでもない。「自分の後ろ姿は見られないから、写真に撮ってあげる(意訳)」とのことだが、カメラを覗く自分自身もまた、自ら認識することはできないわけで。超然とした観察者というよりは、自分も観察される対象であることに無自覚な子どもといった印象を抱いた。
タイトル『a one & a two』『YI YI』1000年と2...
タイトル『a one & a two』『YI YI』1000年と2000年の狭間で初恋を想う。
定点カメラ、ガラス越しに写る表情。
日本の文化も感じるし、やはり日本とは違う台湾。(東京も舞台)
2000年の台北が舞台の、台湾と日本の合作映画173分で "生命" と "愛情" を軸に様々な人の人生の一部を描く。
女子高生ティンティンが自宅のピアノでガーシュインの「サマータイム」を弾く。マンションは高級で5人家族は裕福だと分かる。隣に越してきた家族の高校生はチェロを持っている。
ヤンヤン役とティンティン役の子がスクリーンデビューで、父親NJ役の方は有名な脚本家らしい。福岡県生まれのイッセー尾形も良いキャスティング。
エドワード・ヤン監督が『カップルズ』以来4年ぶりに取り組んだ作品で、監督は2007年に逝去したため、彼が最後に完成させた長編映画となった。
第58回カンヌ国際映画祭 監督賞受賞。
2016年のイギリスBBC主催の投票では、世界の177人の批評家が「21世紀の偉大な映画ベスト100」の第8位に選出。
2025年・第78回カンヌ国際映画祭カンヌクラシック部門のオープニング作品として4Kレストア版が上映され再び注目を集め、2025年12月19日に4K版がまた上映予定。
主人公はヤンヤンの父親、ヤンヤンの姉そしてヤンヤンの3人だろう。
-・ヤンヤン5人家族と親戚達 他・-
ウー・ニェンツェン(声優:原康義)
NJ.(友人とコンピューター会社経営)
ケリー・リー(声優:小笠原亜里沙)
ティンティン(NJ.の娘 高校生)
ジョナサン・チャン(声優:村上想太)
ヤンヤン(NJ.の息子8歳)
エイレン・チン(声優:竹村叔子)
ミンミン(NJ.の妻)
チェン・シーシェン
アディ(ミンミンの弟 新郎)
スザンヌ・シャオ
シャオイェン(アディの妻 新婦)
コー・スーユン(声優:渡辺美佐)
シェリー(N.J.の昔の恋人)
リン・モンジン
ジャン・リーリー(隣家の女子高校生)
チャン・ユーパン
ファティ(リーリーの恋人 楽器店で働く)
イッセー尾形(吹替:イッセー尾形)
大田(日本のゲームデザイナー)
タン・ルーユン
祖母(ミンミンとアディの母)
ツェン・シンイー
ユンユン(アディのかつての恋人)
カンヌという退屈
エドワード・ヤン監督の出世作にして遺作
ヤンヤンと言えば自分的には歌うスタジオだがそれとは全く関係ない
あのヤンヤンの意味がいまだによくわからないのだが
台北のマンションに住んでいる小学生の男の子ヤンヤンの家族は4人
ヤンヤンの父親NJは仲間とささやかなIT企業を共同経営
ヤンヤンの母親ミンミンは夫とは別の会社で共働き
ヤンヤンの姉ティンティンは高校生
母方の祖母は昏睡状態で死にかけてる
母の弟はできちゃった結婚
新妻は結婚披露宴でだいぶおなかが目立っていた
MJが共同経営している会社と契約することになった日本のゲームプログラマーにイッセー尾形
イッセーは英語が堪能だ
台湾人と日本人のやりとりが英語なのは奇妙な気もしたが国際語だからまあ良いだろう
開発した格ゲーは今の感覚だとしょぼいがそれはなんといっても2000年当時
あれでもあの頃は最先端だったんだろう
イッセーの肩に鳩が1羽とまっていたがあれはなんだろうか
鳩がたくさん集まればラピュタのシータかなにかだしカラスならオーメンだ
ジョン・ウー監督へのオマージュか
ヤンヤンは自分より背が高い女子数名によく虐められている
竹刀を持ちハゲですぐに怒る先生には目の敵にされている
シアトルから帰国した昔の恋人と再会したMJはやがて2人で日本に旅立ち浮気
ついでにイッセー演じる大田と居酒屋で会食
1人ホテルに残された女はすでにチェックアウト
ティンティンは女友達リーリーの彼氏ファティに手紙を渡されリーリーに渡す役目を負っていた
どうやらリーリーとファティはあまりうまくいってないようだ
やがてファティと付き合っているわけでもないのに友達として交際する関係に
でもファティの心の中にはまだ女友達が多く占めていてティンティンとの関係は発展することはなかった
ティンティンが通う名門高校の英語教師がリーリーの母親と付き合っていたがリーリーにも手を出していた
ファティは大いに怒り親子丼の英語教師は刺殺された
台湾語もみんなで喋ると喧しい
1番高く評価されたのはおそらく映像美だろう
台湾の平凡な日常
映像美でまず思い当たる傑作は『シャイニング』だがあっちは非日常
イッセー登場シーン以外は退屈すぎて欠伸が出る地獄のような3時間近いひととき
舞台が日本で僕がよく知ってる日本の俳優のみで固めたらこの内容でも耐えられたかもしれない
全作品を否定するわけではないがカンヌをむやみに高く評価する海外のインテリには共感できないことが多い
リベラルな欧米的価値観を直輸入しそれが令和の価値観だと勝手に決めて日本全国に押しつける東京人が嫌いだ
これは四半世紀近く前の作品だけど
映像の専門家やその道を齧ったノンプロはハマるかもしれないが自分のような頭が悪い野暮天には向いていなかった
でもヤンヤンが祖母の葬儀でお別れの言葉を朗読するシーンはとても良かった
それだけで星0.5プラス
子供が一応主人公のようだが群像劇だ
子供が主人公だが上映時間は3時間近くで内容は小学生向けとはいえない
コンパクトにリーリーとファティとティンティンにターゲットを絞ったほうが良かったのではないか
あとヤンヤンのティンティンが一瞬だけ露わになるサービスショット有り
「家族」はいまだ有効か?
結婚式に始まり葬式に終わるこの映画は、それ自体が何か巨大で複雑な生命体であるかのように胎動している。印象深い映像の蓄積の最果てには、「何かすごいものを見た」という漠然とした感慨が待ち受ける。とてもじゃないが一度見た程度では系列の全てを語り尽くせない。のでわかる範囲で書けることを書く。
既に多くの指摘がある通り、本作は小津安二郎の家族映画をその範型としている。小津の家族映画は、家族なるものの礼賛ではなく、そうした関係単位が生み出す悲喜劇をフラットに描き出すことに重点を置いた。そうすることで、家族なるもののイメージに纏わりついていた過度にヒューマニスティックで感傷的な色調は剥落し、強固な社会構造・制度としての「家族」が現前する。小津の家族映画ではさまざまな経緯で「家族」の奇妙さ、理不尽さが顔をもたげるが、それらは最終的にはある種の諦観とともに「家族」の構造の中に呑み込まれていく。彼はそのことを良いとも悪いとも明言しないが、どちらにせよ「家族」がいかに強力で支配的な関係単位であるかは明白だ。
エドワード・ヤンが試みたのは「家族」の強さ・支配性の再認だ。小津安二郎からいくらかの時を、あるいは物理的距離を隔てた今ここ(2000年の台湾)においても「家族」は有効であるのか?
結論から言えばそれはまだ有効だった。どれだけ不安材料を投下しようが、「家族」は揺らぐことがなかった。それは結婚に始まり葬式に終わる、すなわち「家族」のイニシエーションに始まり「家族」のイニシエーションに終わる本作の筋立てが証明している。
ヤンヤンの家族は各々が不安を抱える。ヤンヤンの両親の場合、それは生活への物足りなさだ。ミンミンは同じような毎日の連続に嫌気がさして奇妙な新興宗教にのめり込み、遂には家を出ていく。NJはアメリカに行った昔の女(シェリー)と結婚式でたまたま再会し、日本出張にかこつけて彼女とひとときの夢を見ようとする。しかし彼は最後までシェリーの求愛を真っ向から受け入れることができないまま帰国する。しばらくしてミンミンが家に帰ってくる。宗教に救いを求めた彼女もまた、結局それが何にもならないことを悟ったのだ。
ヤンヤンの姉ティンティンは、祖母が交通事故に遭った理由が自分にあると思い込み不眠症を拗らせる。それゆえかいかにも情緒不安定そうな青年(ティンティンの女友達のボーイフレンド)と恋に落ちてしまうのだが、最後は青年の方から拒絶される。なお青年はその後で凄惨な殺人事件を起こす。もしティンティンが自暴自棄になりきれてしまっていたならば、青年の不安定な殺意の矛先は彼女だったかもしれない。ほどなくティンティンの祖母が死ぬ。しかし死に際に祖母はティンティンのことを許す(あの蝶々はたぶん許しの象徴だ)。それによって家族疎外の不安は払拭され、ティンティンは再び「家族」の中に戻る。
このようにヤンヤンの家族たちは紆余曲折を経ながらも最終的に「家族」の枠組みの中へと再帰していく。しかしより重要なのは、彼らの再帰の理由に何一つポジティブな色合いがないという点だ。NJはシェリーと破局したがゆえに、ミンミンは新興宗教の欺瞞に気が付いたがゆえに家に戻ってきたに過ぎない。ティンティンは祖母からの許しを希求していることからもわかるように、比較的最初から「家族」への再帰願望が強かった。しかしなぜ再帰したいのかはわからない。父も母も彼女のことをあまり構わない(そもそも家にいない)し、彼女もまた家の外でどれだけ悲しいことがあっても、家族に相談するよりは自室で孤独に泣き暮れる道を選ぶ。
こうした理由の不在性は、逆説的に「家族とはそこまでして保持すべきものなのか?」「保持するだけの価値があるのか?」といった根底的な疑問を突きつける。小津作品においてはフワッと暗示されるにとどまっていた問いが、本作においては徹底的な不在という形でかえって強調されている。
「家族」は今ここにおいても依然として有効だった。しかもかなり強力に。しかしそこに内実はあるのか?既に形骸と化しているのではないのか?エドワード・ヤンはそういうことを問いかけている。
こう考えてみるとなんとも暗い主題の映画だが『牯嶺街少年殺人事件』ほど陰鬱としていないのはやはりヤンヤン少年の存在のおかげだ。彼の無邪気で芯を食った物言いは作品世界に光明をもたらす。彼ならば、互いにそれを無意味と悟りつつも「家族」ゲームを続行しようとする父や母や姉やその他親族に向かって「家族に何の意味があるの?」と問いかけることもできるはずだ。家族たちの苦悩をよそに性欲に目覚めたり写真を撮りまくったりプールで溺れたりしている彼を見ていると、こいつなら何か解決の手立てを思いついてくれるんじゃないかという希望が湧いてくる。
余談だが、エドワード・ヤンにとっての台湾・日本・アメリカの三者関係は『台北ストーリー』と同様だった。利益第一主義のネオリベであるらしいシェリーの夫はアメリカ在住。やり手の仕事人だが仲良くなった相手には優しい大田は日本人。そして大田より単価の安い取引相手を勝手に見繕ってきた同僚に向かって「お前らに誇りはないのか!」と喚き散らすNJは台湾人。アメリカ、日本、台湾の順に経済的繁栄の度合いは下がるが、人情の厚さの度合いは上がっていく。それゆえ人情の全くない、すなわち他者世界の存在しないアメリカは、作中で実際に映像として映し出されることがない。一方で日本が何度も登場するのは、日本が人情の余地を半分だけ残した場所であるからだ。台湾の人々がなぜ日本人たちと割と友好的に接してくれるのか、私はちっとも理解ができなかった。しかしエドワード・ヤンの作品を見ていると、台湾の人々が生き急いで人間らしさを喪失したアメリカよりも、適度に人情の風土を残しつつも経済成長を実現した日本のほうをより目指すべきロールモデルと認識したからなんじゃないかという気がしてくる。今はもう全然ダメですけどね…日本。
すばらしい
それぞれが自分の世界線を生き、たまに家に集うのが家族。
家族や隣人を「純粋な他者」として描くことで、実に鮮やかに、時代や社会の多様な断面を丁寧に掬い上げる。それは芸術の本質であり、エドワードヤンの真骨頂。
それでいて、何故か監督のエゴは微塵も感じないところが天才。
かつて、父が恋人の前を去ったのは、「自分以外のものに指図される人生はみじめ」だから。
義弟は拝金主義で占い好き、妻は新興宗教に走り、会社の同僚たちは売り上げ至上主義。自分以外の何かに依存している。
無自覚に誰かに指図されること、他者を自分の領域内に止めようすることは、どちらも危険だ。そんな危なげな二面性を鏡やガラスが物語っていた。
そして大田の鮮やかな存在感が画面を彩る。彼は「純粋な他者」と「本当の自分」に敏感な男だ。自由に人生を遊ぶ、もはや神聖な存在。
思春期のティンティンは、外部からの影響をモロに受ける。
誠実で感受性豊かなティンティンは、加害者意識と被害者意識の両方を感じている。
そして、淡い恋に憧れただけなのに不誠実な男のふるまいに深く傷付く。
「本当の自分」が、置き去りにされた子どものように声を上げて泣いていると、祖母が頭を撫でてくれた。
他者の影響に飲み込まれず、静かに自分の中にある悲しみを感じ取ることができた瞬間。
思春期前のヤンヤンは、水と光(カメラ)で遊んでいる。形のないものと一緒くたになりながら、真実の謎を解く名探偵。最初から、目に見えない祖母の魂を完全に理解していた。
気になるあの子と同じプールにザブンと入ったとき、水音がスッと消えた。
余計な雑音が真実をわからなくしているだけで、遊ぶことが大好きな本当の自分に立ち返れば、全てわかっているんだよと言われてるみたいだった。
全29件中、1~20件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
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