やさしい女のレビュー・感想・評価
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やさしいと思えない女
なかなか生意気で強情な女だと思うが、タイトルは「やさしい女」なんだね。でもすごい美人だし、小悪魔っぽい魅力がある。貧乏女学生に、金持ちの男がグイグイ押して結婚したのだから、もともとダンナの方が惚れてるわけだ。自分が相手を好きなのと、同じかそれ以上を求めてはいけないでしょう。あと、たぶん年が離れているだろうから、やはり若い女の子にはもっとサービスすべきだったと思う。会話がなさすぎだね。
酒飲みながら観ちゃったせいか、途中で眠気が襲ってきた。結局なんで女が飛び降りたか、私も理由がわからない。死ぬほど思いつめなくても、人生やり直せるのに、せっかくの美人がもったいないねぇ。しかし、ダンナのお住まい、ずいぶんと東洋趣味だった。妻が着ていた、白地に青い鳥の柄のガウンがすてきだった。
BS松竹東急の放送を録画で鑑賞。
やさしくない男
研ぎ澄まされた映像と音響に張り詰める
レコードから流れる音楽の感情、エモーションこそが
この緊張窮屈からの叫び声
優しい人がタイプです
そういう人はじぶんに優しくするよう
相手に強制していることに気づかないものだ
ブレッソンの映画は、見終わったあとに脳内で発動する
幻であるはずの影が実態を持ち始める
ドミニクサンダ、やっぱり素晴らしいです
濱口竜介監督がブレッソン好きと知りましたが、ドライブマイカーの夫婦の関係を思い出しました
優しすぎるから、エライことになる!
17歳のドミニク・サンダ
原作はドストエフスキー、ドミニク・サンダは17歳ですでにバツイチ、デビュー作だ。
主人公は質屋、通ってくる女子大生(ドミニク・サンダ)に恋をして歳の差婚するが、若妻は自殺してしまう。
遺体の前で結婚生活を振り返るのだが・・・。
ドミニク・サンダの不思議な魅力にひれ伏す感じで、参りました。
陰気
鬱なゲージュツ作品。ドミニクサンダの美しい無表情とおっぱいを愛でるのには良い映画だったけど、とにかく登場人物がみな無表情でまるでアンドロイドみたい。もちろん大げさな感情表現とか身ぶりとか要らないけど本作は逆方向に極端で、かえってリアリティー無いし、すごいあざとさだけ感じる。巨匠の映画ということらしいけど、あんまりセンス感じない。
ドミニク・サンダに魅せられる
ちょっと、良く解らなかったです。
でも、面白くないとか、解らなすぎて不快に感じるということはなく、
淡々としたストーリーを淡々と観ている。
ただ、ドミニク・サンダの魅力のなせる業なのか、終始目が離せない。
バスタブとテレビの間を、ピョンピョンと跳ねながら歩く仕草が、猛烈に可愛い。
若さゆえの奔放さと柔順さと、まだまだ完成されていない魅力的な女の子、
結婚するのが早すぎたのね。
なんにせよ、男の器の小ささに呆れる。
鳥籠のなかで窒息死してゆく若妻。ブレッソンの技法とテーマが噛みあったディスコミュニケーションの悲劇。
なんか、ずうっとドアを開けたり閉めたりして、
階段を上ったり下ったりしてる映画だよね。
映画館でロベール・ブレッソンを観るのは、4本目。
『バルダザール、どこへ行く』『少女ムシェット』は面白かったけど、『田舎司祭の日記』は今一つ好みには合わなかった。じゃあ『やさしい女』はというと……そこまで好きとはいいづらいかな?(笑)
ロベール・ブレッソンの特徴である「シネマトグラフ」の手法、すなわち、極限まで演技と演出を削ぎ落として、俳優を人形のように用いて映画を撮る手法は、本作でも健在だ。
主人公であるカップルおよびサブの老召使いは、たいして表情も変えることなく、常に棒読みで、平坦にふるまう。時にヒロインは泣いたりもするが、手を顔に押し当てるそのしぐさは、きわめて「記号的」といっていい。頬に流れる涙が、しぐさの記号性を後押しする。
この「役者に演技をさせない」「でく人形のように振り付ける」ブレッソン特有の演出が、作品のモチーフおよびテーマと密接かつ有機的につながって相乗効果を上げているというのが、本作の「キモ」ではないか。
ヒロインであるドミニク・サンダが、「表面上何を考えているのか計り知れないこと」「人形のような振る舞いを強いられていること」「尊重されているように見えて束縛されていること」が、彼女が演じる若妻がかかえている問題ともオーバーラップするからだ。
すなわち、ブレッソンが役者に「演技をさせない」のは、別に本作に限ったことではない、彼の一貫した演出方針である。だが、本作に限っては、ドミニク・サンダの「演技をさせてもらえない」「感情を表出させてもらえない」「優遇されながらも手足を封じられている」という女優としての立ち位置が、そのまま作中のヒロインの妻としての境遇とシンクロしている、ということだ。女優であるドミニク・サンダと作中人物である若妻は、支配的で父性的な男性に「静かに蹂躙」されつづけることで、共鳴し合い、お互いを照射し合うのだ。
「蹂躙される女の受難と悲劇、そして自死」というテーマにおいては、本作は、一本前にあたる『少女ムシェット』とも共通した部分がある。
ある意味、ムシェットの「年長版」が、本作のヒロインだといってもいい。
両者は一見するとまるで別のキャラクターのように見えるが、
虐げられているわりには気が強くて、どこまでも我を通す頑固な一面をもつこと、
無表情で傍から見て何を考えているか分からないこと自体が不幸の源であること、
ずっと感情を殺しながら意志的な眼差しで見据えていて、いきなり号泣するところ、
気付かないうちにストレスをため込んで、唐突にポキリと折れるように自殺するところ、
などなど、まさに瓜ふたつ、相似形を成すキャラクターのように、僕には思える。
(ついでにいうと、自殺のシーンでだけ、やけに作為的で凝りに凝った演出とモンタージュが仕掛けられていて、それ以外はひたすら我を抑えた禁欲的な日常シーンの際限ない反復で構成されている点も、両作品はとてもよく似ている。)
ムシェットの場合は「少女」だったこともあって、いじめ、教師の体罰、極限の貧困、父権的な父親、寝たきりの母親、ワンオペの赤ちゃんの世話、レイプといった「絵にかいたような不幸」が彼女をさいなみ、やがて追い詰めていった。
だが、「結婚できる年齢にまで達した」本作の「若い女」が被る受難は、もっとひそやかで、可視化されないステルス性のものだ。
むしろ夫からすれば、「あれだけよくしてやったのに何がいったい不満だったのか」といった体の話で、実際、全編を通じて彼は妻がいきなり自殺した理由をついに見出すことができない。
なぜ目に見えないかというと、それは彼女が直面する不幸の本質が、社会自体が抱えるジェンダー意識や、夫と妻のあり方に対する先入観自体に内包された、きわめて制度的で構造的なものだからだ。
本作で用いられる隠喩は明快だ。
すなわち、妻は「籠の鳥」として規定される。
鳥の描かれたガウンを着て、野鳥の固有の声について論文を引用することで、彼女は必死に何かを伝えようとしている。彼女自身は「自分について語る声」をもたないからだ。でも鈍感な夫には伝わらない。
質屋の二階は「鳥籠」だ。自由に出入りできるし、拘束力はなくても、心理的に彼女を閉じ込めている。その心理的束縛の象徴として、何度も何度も何度も、旦那が出入りするたびに背中側からドアが開け閉めされる様子と、階段を上り下りする足が強調される。この「扉」と「階段」が、彼女を二階(「妻であることの象徴」の場所。一回は「職場としての公的スペース」で、彼女をモノにすると決めた時点で男は初めて女を二階へ招く)に封じ込めているのだ。
一方で、男はしきりに女の「足」に執着する。それはきっと、彼女が自分の足で歩きだせないようにするための「呪い」だ。なにせこの夫は、目の前に顔があっても、わざわざしゃがんで足にキスする変態だからな……(トリュフォー、ブニュエル、なんでお前らみんなそうなんだw)
男がしきりにドアを開け閉めしては階段を上り下りする一方、女はしきりに窓辺にたたずんでいる。窓に入る十字の桟は、彼女が封じ込められている籠の象徴だが、十字架形のシルエットというのは、彼女が質入れしたキリスト磔刑像と明らかに呼応しており、僕にはわからない宗教的隠喩も含まれているのかもしれない。
結局、彼女が自由になるには、その窓から身を投げるしかなかった。
まあ常識的に考えて、飛び降りる場所としてはいかにも「低すぎる」のだが、「二階」と「窓」自体に象徴的な意味があるので、さらに屋上まで行って飛び降りたりしてはダメなのだろう。
空を美しく舞うショールは、当然ながら、彼女の心がようやく解放されたという視覚的メタファーだ。
ただ個人的には、夫を悪と断じ、妻を被害者と断じて、それで気分がすっきり割り切れるかというと、それもどうかなあといったところ。
たしかにこの夫は、相手のキャラクターも考慮せず、ただ「貞淑な妻」像を押し付ける、想像力の欠如した俗物ではある。
だが、奥さんのほうも、しょうじきかなりピーキーな「地雷女」だとしか僕には思えない。ムシェット以上に感情移入の難しいヒロインだ。
この女性とうまくやるのは、別にこのご亭主ほど鈍感でなくても、なかなかに厳しいと思う。
そもそも最初から「男性は嫌い」で「すべてが無理」で、夫の「愛する」宣言に対して「このままでいいの」と返す女性というのは、結婚には全く向いていないのだ。
そんな女性を、顔と雰囲気が気に入ったからといって、運命の女性だと思い込んでしまった男は、初手から圧倒的に愚かで、始まる前からすでに猛烈に失敗していたのだといえる。
この手の女性は、たとえ男サイドがこの夫の100倍うまく振舞ったとしても、それはそれでやはり、じわじわと内側にストレスをためて、どこかで自壊していく「性分」だからだ。
それに、たとえ結婚が男性による支配と束縛に立脚し、無理解の軛のなかで自由の羽をもがれるようなものであったとしても、人によってはそれに順応し、幸せに生涯を送る女性もいるだろう。いや、むしろそちらのほうが多数派を形成しているから、おそらく世の中は回っている。「支配と束縛」は、「庇護と信頼関係」のある種の「言い換え表現」にすぎないし、異性の心情を正確に慮ることなど端から無理なことで、相応の諦めと悟りのなかで、夫婦生活というのは「お互いの協力のもと」、適当に間合いを図って成立させていくものだからだ。
それなのに、この女性は「間合いを図ること」「相手に妥協すること」「口に出して改善を図ること」を自分からやろうとしない(それは亭主も同じだが)。僕はそういう自助努力を怠ったまま、勝手に煮詰まって自殺するような女性に対して、申し訳ないけどあまり可哀想だと思えない。
とはいえ。
ふつうの人なら生きられる濃さの空気のなかでも、窒息死してしまう人間というのは、一定数いるものだ。
それは本人のせいではない。持って生まれた「性分」に由来するところが大きい(最近はビンカンさんとか、発達とか、いろいろと洒落た言い換え表現も出てきているようだが)。
魚や鳥でも、なぜか自然内では生きられるのに、飼育しようとすると死んでしまう種がいる。
通例、人に奉仕することに喜びを感じる動物なのに、はみを噛ませただけで弱る馬もいる。
たとえ相応の自由は認められていたとしても、閉じ込められ、拘束された状況自体に、どうしても適応できない個体は存在するのだ。
本作のヒロインもまた、結婚の軛によって、気づかないうちに命を削られてしまう生物だった。
無言の抵抗ができているうちはいい。
それが環境なり、情なりにからめとられてしまったとき、適応不全は如実に「身体の不調」として外に出る(登校拒否児童といっしょだ)。で、その時期も終わって、内なる抵抗に反して、自ら「馴化」「禽化」されることを選んだとき、どうなるのか。……今度は「心」のほうが壊れて、死んでしまうのだ。
「すべてが無理」……彼女の自己規定と世界認識は、結局正しかった。
個人的には、登場人物に共感しづらくて乗り切れないうえ、かなり睡魔にも襲われるつくりの映画ではあったが、とてもブレッソンらしい映画だったと思う。
浮遊する羽織=女の精神の解放
原作はドストエフスキーの「やさしい女」。
男のほうの視点からしか描かれていないために、彼女のほうの気持ちや行動の意味や、不倫の真実はわからなくなっている。彼女の言う言葉と表情から推測するしかない。
だから、映画を見ている観客は、男と同じ情報量でなぜ彼女は自殺したのかを探ることになる。
最初のシーンは彼女が2階のバルコニーから飛び降りて、テーブルが倒れて、彼女の羽織が舞い上がるシーン。そして最後も同じシーン。リフレインの構造になっている。男がいくら考えても、彼女が自殺した理由は分かることはなく、反復し続け、永遠に解消されないことが象徴されているように思った。
彼女の羽織が、彼女の身体から離れて、ふわふわ浮遊するのは、彼女の心の解放のように見えた。ほんとうに、その動きは、自由を謳歌するような、生きているような、!(彼女自身は死んでいるのに皮肉なことだね、肉体の死をもってして、やっと精神の解放が可能になる。それくらい、男の束縛や圧力に縛られていたのだなあと思ってしまう、)
ブレッソンの映画は、画面に映るカットがとても好き。積み上げられた本、手のアップ、どれもポスターにしてしまいたいかわいさ、
この作品の主題は愛とは何か、ということなのだとおもうのだけれど、相手を愛しているつもりでも、自己愛になりがちだ。愛している相手の話は、ちゃんと、聞きましょう。男の「これからはちゃんと君を愛するよ、どこか遠くに行こう」に「このままでいいのに」と答えた女の言葉を無視した結果が、自殺です、
これも映画史におけるひとつの宝
映画史上のベストディレクターの一人、ロベール・ブレッソン‼︎
これは当時17歳のドミニク・サンダのデビュー作となったブレッソンの長編第9作。何故かこれまで機会がなく今回が初見。
しかし何という孤独な少女。愛を知らぬまま結婚し何も得ることなく自ら命を絶った。
クソのような夫が妻の死体を前に夫婦生活を語るスタイル。クソが看板の自分と同じクソ。妻が死を選んだ理由などわかるはずもなかった。
う〜ん、これもまた何の救いもない悲劇。
紛れもないブレッソンだった。
それにしてもドミニク・サンダ💙
ベルトルッチの『暗殺の森』『1900年』、そして今作で、映画史に、そして自分の脳裏にしっかりとその姿を刻んだ。
優雅で文学的な作品
理解し合えない男女のすれ違い、普遍的なテーマなのに普遍的じゃないのが凄いところ。
今じゃ都内でたまにみると心が躍るクラシックカーや、インテリアも洋服も、映画も、演劇も、本も、立居振る舞いも、カメラワークも何から何まで素敵だった。
「多くの女性が結婚を望む…」
「望んだとしても猿真似よ」
このセリフにドキッとした。セリフ(翻訳)が秀逸だった。言葉一つ一つを噛みしめて、、、。なんだか優雅な映画時間でした。
映画より本のほうがいいかも。
夫目線で語り口調の映画。
結婚したがる女は多いが、結婚したい男?若くて可愛くて理解不能な女子に惚れちゃうと独占したくなるってことなのかなぁ。
すれ違い、相入れない二人
「結婚をしたいだけで、愛を求めていない」「哺乳類は根本はほぼ同じ」「鳥は個性的な鳴き声で鳴くことが出来る」大体このような台詞だったのだが、これがこの映画を雄弁に語っているのだ。ブレッソン監督の台詞は映像同様に素晴らしい。映像は一見静かなようだが、画面に映らない激しい感情が嵐のように吹き荒れた結構ハードな内容がこれでもというくらいに見てとれる。素晴らしい監督だ。
Dos Monosのソウシットさん ありがとう
主演女優の裸体が見たくて、ガキの頃、見に行きました。ポスターの緑の衣装、なんとなく覚えています。しかし、この頃のフランス映画って、暗くて、分かりにくい映画ばかりで、あらすじなど全く覚えてませんでした。ただ、お尻が見える場面は鮮明に覚えてました。今回も前半は退屈で寝ていました。
閑話休題 この映画の上映後、トークショーがあったのですが、ソウシットさんの映画鑑賞の力量に驚愕しました。プロだから当たり前かもしれませんが、難しい言葉を使わずに、カット毎に、私でも納得の行く表現をしてくださいました。彼の話を聞いただけで、この映画、もう一度見たいなぁって思いました。
【まあ、ドストエフスキー】
2021年11月のNHK・Eテレの100分de名著は、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟を取り上げているのだけれど、このタイミングで、この作品の公開は何か理由があったりするのだろうか。
世界的に、夫婦の在り方も含めて家族というものに対する考え方は、ここ10年から20年で随分変化したと思う。
それでも、世界のあちこちにパターナリズム(父権主義)的な考え方は残り、そして、コロナ禍の下、DVが増加したという報道を目にするにつけ、暗い気持ちになる。
この作品はドストエフスキーの1876年作の「やさしい女」を1960年代のフランス、パリに置き換えたものだ。
1960年代は、アメリカで女性解放運動のムーブメントが起こり、それに呼応するかのように、こうした女性や妻の抑圧された状況の物語を映画として世界の人々に観せようとしたのだろうか。
この原作は、ドストエフスキーの作品の中でも、短いのはそうだが、読みやすいし、登場人物が少ないし、なんといっても、現代の僕たちの社会と比較して、登場人物を考察することも容易で、多角的な見方が出来そうにも思える。
映画は、更に、現代に置き換えられているので、今の価値観で、怒りが込み上げてくる人もいるだろうし、この2人の関係性や、妻の行動、そして、メイドの振る舞いについても疑問が出てきてもおかしくないように思う。
僕は、夫のパターナリズムはもとより、妻の行動の仕方や、気持ちの表現に、飛び降りる前にもっとチョイスがあるのではないかと考えたりもした。
よく、女性は男性に対して、単に話しを聞いてほしいだけで、助言など要らないという話しを耳にしたりするが、男女や夫婦の関係を変化させようとするのであれば、そんな主張で良いのだろうかと考えたりもする。
蛇足的な深読みだが、ちょっと怖いなと思ったのが、ベッドに横たえられた妻の脚が、両足首の所から足にかけて、ベッドのフット部分の縦のスチール・ポールの外に出されていて、死んでもなお、足の自由を奪っているように見えて、妻の抑圧された状況をこれでもかと見せつけているような気がしてちょっと怖くなった。
90分にも満たない作品だが、現代の僕たちの社会の抱える問題にも通じるようで興味深い作品だと思います。
ドミニク・サンダに捧げたブレッソン監督の孤高の映像世界
「スリ」「白夜」と同じくドストエフスキー原作のブレッソン映画だが、主演のミステリアスで魅惑の美女ドミニク・サンダの存在感が圧倒的。回想による夫婦の過去がカットバックで描かれているのと、心理状態のナレーションが説明的ではないブレッソンの演出が、深遠なる映画文体の簡潔さと探求を併せ持つ。映像に吸い込まれるような感覚を得るブレッソンの孤高の世界。ラスト、サンダの顔を超アップで捉えたショットが巧い。
1986年 11月25日 宇都宮松竹ミヤマス座
沈黙していても
お金、安定した生活のために結婚した若い女性との結婚生活を、夫の視点から語っている。
夫の物語がポジで、沈黙している妻がネガなのかな。
年配のお手伝いさんが、押し殺した何かを感じさせる。
ドミニク・サンドを観に行きました。
建物や内装、車、街並み、本、映画、シェイクスピア劇も映画を物語っていました。
切ないカネの話
タイトルのバックに映る夕闇のパリ。走っている車は60~70年のもの。郷愁で胸が一杯になる。フランスが、パリが、まだ世界の文化に多大な影響を持ち、日本人にとってはまだまだ憧れだったころの風景である。
この華やかで先進的な消費社会の光景がスクリーンから消えると、その墓場ともいえる質屋が映画の舞台として現れる。そして、始まるのは世知辛い銀行員くずれの質屋とその若く美しい妻の味気ない結婚生活なのだ。
川本三郎がその著書で、成瀬巳喜男の作品に金の話が良く出てくることを指摘しているが、この日観たもう一本のロベール・ブレッソンの作品はその題名も「L'argent(カネ)」であり、両作品ともカネに翻弄される人間を描いたものだった。
ブレッソンの映画が、川本による成瀬論と同じく、カネにまつわる話で特徴づけられるのかどうかは知らない。しかし、この日の新文芸坐の二本立ては両方とも切ないカネの話であった。
この夫婦は両者ともにカネに苦労した経験を持ち、カネの使いみちにこそ自由を見出している。不慣れな質草の査定を自分でやろうとするのは、妻(ドミニク・サンダ)のそうした欲求の表れに他ならない。
老婆の持ち込んだ二束三文の品と引き換えに、何枚もの紙幣を渡してはベテラン質屋である夫の不興をかってしまう。価値を自分が決める優越感と自由を謳歌することは、この夫により許されてはいないのである。
そして、仮に質草の値決めをする自由が与えられたとしても、居室の内装を自由にさせてもらえない不満を埋めるにはそれだけでは不十分であり、質草の不相応な評価を自分への好意と受け止める男性との恋は、気づまりな結婚生活を束の間忘れさせるに十分魅力的であっただろう。
このように映画は、一人の若妻が結婚生活に絶望する過程を綿密に積み上げて描いていく。最後にこの夫婦がどうなるのかは大した問題にはならない。描きたいのはこのプロセスなのだろう。なにか約束された結末に向かって進んで行く映画ではない。過程に過程を積み重ねていくというタイプの作品である。
当初予定していたBlu-rayでの上映から、35ミリフィルムでの上映に変更した新文芸坐に感謝する。
男には女の気持ちは解からない、ということ
ブレッソン監督作品は、映画を観はじめた中学の頃に『白夜』を、その後『抵抗』を観たきり。
『白夜』が理解できなかったトラウマというかなんというか、そんなものがあって、永年その他の作品を観るのを無意識に避けてきた感じ。
今回、改めてブレッソン作品に挑戦してみて・・・
うーむ、素直に、おぉすごい、素晴らしい、といえないところがもどかしい。
なんというか、あまりに説明がなさすぎるというか、非情というか。
なかなか、心情的には判りづらい。
それもそうで、このハナシ、年若い女性に惚れて結婚した夫が「おんなは、わからない・・・」といっているのを、夫の視点・回想で進めているからだ。
「貧しい家庭で勉学にも困っている女性に惚れ、その境遇から助けたのだから、あとはオレのことを好きになってくれよ、困ったことなんかがあれば当然助けてやるから」
これが夫の主張である。
「男は愛よりも、結婚を望むのね。愛は互いを理解すること。けれど、結婚は、価値観を押し付けて、型にはめる代わりに、不自由な暮らしはさせないという約束にしかすぎないわ」
女はこのように言っている。
ただし、それを口に出さない。
なぜなら彼女は「Une Femme Douce」だから。
英語でいうと「A Gentle Woman」、弁(わきま)えた女、だから。
そういう女と男の成り行きを、ブレッソンは少ない台詞、短いシークエンスで繋いでいきます。
なので、心情的にわかる前に映画が進んでいきました。
ここが、素直に、おぉすごい、素晴らしい、といえず、もどかしいところ。
しかし、中盤、夫が妻は浮気をしているのではなかろうか、と勘繰る下種な展開になってから、俄然、おもしろくなりました。
そうか、夫は誤解しているのかぁ、いや、誤解でなく非解しているのだ、と気づいたから。
浮気現場を押さえんとして、車に乗り込む夫のワンカット、ヒッチコックも顔負けのサスペンスカット。
自動車の後部、ハンドルの後ろ側から質屋の入り口を見透かすカメラ。
質屋のドアを開け、自動車に乗り込む夫。
上着の裾がシートの上に引っかかったまま発車させる。
それだけなのに、恐ろべしいほどの緊張感なのだ。
じゃぁ、夫はなにを解かっていないのか・・・と、このあたりから考え始めた。
すると・・・
「男は愛よりも、結婚を望むのね」といった女の台詞。
金の十字架からキリスト像だけを質入れから返そうとした無情な(非愛な)夫。
彼女の好きな音楽や博物学に興味を寄せない夫。
そして、好きでもない観劇や旅行に誘う夫。
価値観を押し付けて、型にはめるばかり。
だから、会話するよりも、沈黙のほうがふたりには心地いい。
ああ、怖い。
すれ違う男女の心なんてものじゃないな、これは。
巻頭と巻末で、窓の外を舞う女の白いショールは、やっと解き放たれた女の象徴なのだろう。
ドストエフスキーだなあ
なんかストーリーは良く解かんないんだけど、面白くて観ちゃう。原作ドストエフスキーだから文学っぽい感じで「ドストエフスキーだなあ」って感じがする。なんか、ちょっと暗めで、でもちょっと面白くてって感じ。
時系列が混ぜこぜになって出てきて「え、どうなるの?」と思って観てられんだよ。それでみんな無表情で喋るから、何考えてんのか想像しながら観るしかないの。
ラストがかっこ良かった。うわーって思った。
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