もののけ姫のレビュー・感想・評価
全28件中、1~20件目を表示
人間と自然の対立を描く映画ではきっとない
人生で初めて映画館で観た映画。親から聞かされた話によれば、怖くて、わからなくて、とにかく泣いていたらしい。でもきっとその原体験が僕を映画の世界へと導いてくれた気がする。だからとてもとても特別な作品だ。繰り返し鑑賞するなかである一つの解釈が生まれたので、そのことを書きたいと思う。それは、一般的な解釈であろう「人間と自然」という二項対立ではなくて、人間にも自然にも共通する「生と死」あるいは「自己と他者」という関係性の物語ではないかという問いかけである。
多くの人がきっと感じているであろう基本的な作品構造としては、「卑しい人間たち」に鉄槌をくだす「崇高な自然」という対比ののち、でもやっぱり「生きていく」ということに執着する人間の本性は覆せず、そのためにある「人間の悪」を「自然の豊かさ」が許す、という見解ではないか。
しかしきっとその見方は、ある側面では正解なのだが、実はもう少し別のことを描こうとしているのではないかと僕は思った。というのも、この「生への固執」ということは、なにも人間に限ることではなく自然においてもまた描かれているからだ。それは、人間へと復讐をとげようとする「イノシシ」や「豺」などの自然側の考え方も、実は「他者の排除」であり、「他者への不理解」がベースになっているということだった。しかし、それは責められたことではなく、生きていくために“仕方のない”考え方でもあり、また、それが“生きるということ”だと主張されているような気がしたのだ。
しかしこの「他者の排除」は、往々にして「自己の崩壊」をも招きかねない。他者の手打ちを知らない自然は、人間に焼かれ、イノシシたちは全滅する。「猪突猛進」という自己への陶酔と、人間=悪という絶対的な決め打ちのもと、悲劇的な結末を迎えてしまうのだ。そして、エボシに代表されるタタラ場もしかり。自然への不理解への結果、自分たちの破滅を招いてしまう。この表裏一体の関係が、すなわち「生への固執」は「死への道」を招きうるというその二面性こそが、シシ神が「生を与え、死をもたらす」という二面性を備えた暗示的な意味合いではなかろうか。シシ神だけが、その両面をも理解して、だからこそ自然だけに偏重するのではなく、時として人間を生き返らせることもすれば、動物を殺すことさえしてしまう。それは、全くもって「生への固執」がないからであり、ただの「理」として、絶対的に存在する「生命の法則」を奏でているに違いない。
そして、その奏で手として、今作では人間側にアシタカが描かれる。彼もまた「自然と人間の共存」という言葉をもって、「生きながらにして死ぬ」「死を意識して生きる」ことを選び取る。「祟り」という存在は、人間における、あるいは自然における「生への固執」としての表出である。「祟り」が、人間だけでなく、自然をもまた蝕むことは、上述の「人間」と「自然」の「生への固執」における平等を示しているのではないか。しかしアシタカは、「祟り」に蝕まれる自らの運命(あるいは死)を受け入れ、「くもりなき眼」で見定めようとする。その姿のみが、エボシ様に代表される人間も、ヤックルに代表される自然も、双方が惹かれていく「生きる」姿なのではないか。
しかし、最後に興味深いのは、その「生」と「死」を司るシシ神ですら、自己の死に直面し、「生に固執」してしまう。その結果として、彼が支配した理の全てを放棄して、自然も人間をも食い殺す。作品の表象的な理解としては、あの結末は人間という欲深い生き物の招いた悲劇には違いないが、一方で「生きるモノ」の宿命としての「死」を予感させる筋書きではないのだろうか。すなわち、シシ神もまた死ぬのであって、その眼前では、やはり怖いのだ。生きていたいのだ。
だからこそ、宮崎駿は「生きろ」という。この世に「生への固執」を抱かないモノなどいないのだと。それによって他者を排除し、自己を崩壊に導かぬモノなどいないのだと。それこそが、この作品のメッセージではないだろうか。だからこそ、宮崎駿は「赦し」の意味で、「生きろ」という。それは「生きていてもいいんだよ」という言葉に違いない。子供たちに、その抱えている闇を、それはアシタカですら抱えるものであり(「祟り」として)、また自然も、そしてシシ神さえも囚われてしまうものだと言っているように思ったのだ。
そして、このことは、実は「エヴァンゲリオン」と対になっているのだと思う。「人類補完計画」とは、個人としての「生への固執」を捨てることを要求していた。それはすなわち、「他者の排除」の存在し得ない世界であって、人間も自然もない、言ってしまえば、全てが「死んでいる」世界なのではないか。その格闘をエヴァではシンジ君が担う。私たち、生きとしいけるモノ全ての葛藤が、ある時にはアシタカとして、またある時はシンジ君として表出しているように思えてならなかった。
「生きる」ということは、「他者とかかわる」ことである。私たちは、人間も、そして実は自然までも、そこに恐怖を感じ、排除したいと思い、自らの存在=生に固執してしまう。その上で、「生きろ。」と宮崎は言った。この映画は、そういう物語なのではないか。
白蛇伝なら宮城ま◯子さんですね
1931(昭和6)年に「癩(らい)予防法」なるものが加わる。しかし、それよりも、優生保護法が1948年から1996年まで存在した。それが、1931年の法律と相まって、とんでもない悲劇を生むのだ。
このアニメはそこまで、体制に迎合した話にはなっていない。しかし、やはり、商業的ではないが、優生保護法に重点を置いて描いてもらいたかった。
僕に取っては、一番良くもあり、悪くもある歴史だ。しかし、日本は泥沼から永遠にはい出せない機会になってしまったように感じる。
さて。
勿論、最初に見たのは封切。川崎のチネチ◯タである。
黄砂が酷い大連にて鑑賞
2024年7月31日
結局自然は守られたのか?
壮大で見応えはあったけど、結局解決したのかしてないのか…?
人間と自然の共存がアシタカの求めた結末だった。アシタカはタタラ場で、サンは森で暮らしたまに会いに行くというのは、まさに人と自然が適切な距離感で共存していく理想の形を示唆しているように思う。
でも、いい村を作ろうみたいなことを言ったエボシは一先ず心を入れ替えたのかもしれないが、人間たちが森を大事にしようと考え直しているような場面はなく、これが解決なのかよく分からない。この先また少し時間が経てば自然を壊して人間の住みやすい環境を作ろうとする動きになりそうな気がする。
再び戦うことになったら、シシ神様は生きているのか死んでいるのかよく分からない状態になったので、今回の標的だった「シシ神の首」は存在しなくなり何を目的に戦うことになるのかも分からない。敵対勢力(動物とサン)の全滅?
そもそもシシ神は神様なのに、人間のしたことによって死んだような状態になってしまって良かったのか。自然が人の手で歪むのが現代の風刺だとしたら、最後に花咲か爺さんのように草木が復活していくのはなぜなのか。
全て終わったような雰囲気で閉幕したけど、ただ多くの犠牲者が出て建物がぐちゃぐちゃになっただけで、何か起こる前とあまり何も変化していないような気がした。
私の理解が足りなかったのかもしれない。
公開時以来
久しぶりに見る。
ジブリってこの頃までは良かったかなぁ。
非声優をガンガンと使い始めてたけど、主演がそんなにテレビ等で見る人じゃないし下手でも無いから違和感無い(子役時代は良く見たけど)。
結局、通い婚エンドか。
長い
...............................................................................................................................................
人間に恨みを持っていて自分を山犬と思っているもののけ姫。
獣神の首を狙っているオバさんの持つ軍と戦う。
その狭間で平和的解決をのぞむ主人公。
紆余曲折あって人面トナカイみたいな獣神が現れる。
オバさんが殺して首を取るが、呪いみたいなのが暴走する。
主人公ともののけ姫の活躍で首を返してひと段落。
どうしても人間に戻りたくないもののけ姫は森へ帰っていく。
...............................................................................................................................................
とりあえず長いなあ。
あと細菌を撲滅しながらやと細かい筋が分かりにくいパターンやった。
特徴的なテーマソングやBGM、美しい景色に美男美女、もしかしたら本当の歴史の話
本作の最後の台詞が、馬鹿には勝てん。
あれこれ策を練ったりテクニックを駆使しても、怖いもの知らずな馬鹿の直滑降には追いつけない。
革命やクーデターは命がけだ。命知らずな馬鹿にならないと成し遂げられない。
巨大生物や巨人と共存していたそう遠くない過去に何者かによって世界はひっくり返された。本作はアシタカが世界を変えた話。
ちなみにタタリ、タタラ場などの語源はタルタリアから来ている。宮崎駿監督作品は古代文明の匂いがプンプンする。
アシタカは美男だしエボシ御前もサンも美女だ。美男美女は贔屓される。私を含め視聴者までもが贔屓する。
物語の結末・・・
祟り神に呪われた青年と、狼に育てられた少女の出会いを描く物語。
宮崎駿監督、そしてジブリ作品の人気を決定づけた大作です。
公開時に鑑賞した時には、とんでもないクォリティの良作と感じましたが、金曜ロードショー上映時に鑑賞した際にはそれ程良作とは感じませんでした。迫力ある作画が特長映画なだけに、映画館とTV画面では、評価が大きく変わるのかもしれませんね。
評価を落とした理由は、善悪の描写が悪い意味で曖昧であること。
エボシ御前が典型。村人を、女たちを、そして業病の患者たちを愛でて守るエボシ。でも、シシ神を狩るために出陣すると、村の男達を平然と見捨てているようにも見えて、戸惑いを覚えてしまいます。「村を守るための苦悩の行動」そんな描写がしっかりとあれば良いのでしょうが、私にはそれが不足しているように感じました。
ジコ坊もそう。シシ神を狩るために天皇の命を受けた仕事人。ラスボス的役回りを担うはずですが、アシタカとの関係も、愛嬌のあるキャラも、ラスボス役には不適格に覚えます。シシ神の首を奪った後の立ち回りも、コメディテイストになってしまったようで残念に感じました。
クライマックスのシシ神のエピソードも消化不要。首を取るまでの攻防も呆気なさを感じましたし、結局、シシ神が倒されたままで終わったことにも不満を覚えました。人間が自然の領域を侵略する歴史の暗示、それに対する批判なのでしょうか?個人的には、宮崎監督の思想には肯定的なんですけど、物語の結末としては不満を覚えました。
私的評価は普通にしました。
ジブリの中で好きな作品上位!
•bgmが好き
•一番好きなシーンは片手で扉を開けるシーン、かっこいい!
•サンが可愛い!
•自然とかを人間の利益の為だけに無くしていくのはダメだと思った。
アシタカの選択。生きろ。
見た後の感想は見てよかったというもの。
もののけ姫は子供の頃に一度か二度見た記憶がある。サンが山犬の前で口元を血に染めて血を吐く場面(CMでの印象の方だと思うが)や、アシタカが呪われた右腕で弓を放つと敵武者の腕や首が小気味よいと感じるほどの描写でパッと体から離れる描写がまず第一に思い浮かぶ。その次に、シシ神の再生の力とダイダラボッチへの变化の様子が思い浮かぶ。そして物語の背景として青々と描かれた自然風景と首を揺らす木霊。子供の頃に見た記憶の表層としては、人体破損の暴力的で刺激的な部分と、躍動感ある日常では見ることができない人智を超越した生物=神の描写に映像的記憶が焼き付いているわけではある。しかし、そのテーマの深さについては子供の頃みた時から言語化はできなくともなんとなくわかっていたし、思い焦がれてまた見てみたいなという思いもずっとあった。それを今回見ることにした。(私が子供の頃に見た映画作品を機会があればまたそれぞれ今の自分の思いをもって再度見てみようとしているその個人的プログラムの一貫ではあったし、日本のおたく文化や日本の神々に好意的な興味を今持っている自分が再度その原点ではないが、宮崎駿さんという偉大な先駆者が作った作品をまた一度見てみたいと思っていたから。岡田斗司夫のyoutubeチャンネルでよく話すジブリの解説動画も見たいと思うきっかけの一つである。)
この作品を見る中で一番に興味がいくのは、本作の主人公アシタカの選択である。彼は山犬達、タタラ場の勢力どちらにも取り込まれず、的か味方かの二者択一ではなく、どちらとも真摯に話し、考え、自分が何をすべきか考える。その行動はどっちつかずで八方美人にも映るが、彼のやり方は『人を助けたい』という行動原理に常に従うという意味で揺るぎない意思を持った行動である。(自分を狙う侍にも積極的に攻撃はしない)彼のような人間性と強い意思を持った若者が、どちらかに与しそれを貫いたならば、その勢力は一方を蹂躙できるまでになったとも思う。しかし彼はそれをしない。このような社会に組み上げられた何処かの勢力の行動原理に自分を委ねない覚悟は、巨大組織による搾取構造の元で生きる現代人にとっても啓発を与える一つの正しい行動原理だと思う。昨今はウクライナ戦争でアメリカ(ウクライナ)側から発信された報道を見聞きして一般大衆の多くがロシア人の人権を度外視した憎しみを懐き罵倒し、その死をあざ笑う傾向があるのを見た。これは、一つの勢力に組し、その『正義』に自分を同一化させればいつも起こりうるエゴの肥大化による現象だ。それを自覚できない人間は常にいる。この映画はそのような人間(たとえるならば偏見ではるがアメリカ人のような正義と悪の二者択一構造をとりがちな人種)にとって一つのアンチテーゼを教えてくれるだろう。
キャッチコピー「生きろ」という言葉は直感的に自分の中ですぐ思い浮かぶ作品がある。それは『亡念のザムド』(2008)という作品で、個人的にそこまで気に入っている作品ではないが、彼が変身するシーンの郷愁をさそうようなBGMと嘆きの中で羽ばたきを促すような言葉とともに少年につきつけられる怪獣的ヒーローへの変身には強く感情を揺さぶられるのを感じ、そのシーンはもしかしたらもののけ姫の影響を受けていたのかもしれないと自分の中で勝手に思っている。
宮崎駿監督がこの作品のインタビューで、子供を餌にする創作物やゲームは良くないと言っていた。そのような言葉は彼の他のインタビュー記事でも見聞きしていて、彼の創作物はこうあるべきだという姿勢が伺われた。自分なりに解釈すれば、監督は創作物とは例えばその時代の問題を人につきつけ、人があぐらをかいて眼をそむけている問題を考えさせようとする教育的な側面があり、彼の中では教育以上に、その教育的価値を評論される以上に人々が作品を見てよりよく変わる事を目的としているのだと思う。それが『もののけ姫』だった。昨今のムーブメントであるエゴの充足を目的としたファストフード的な創作群(なろう作品、異世界転生系、悪女うんたら)への真逆な態度である。そのような意識(創作物をつくりながら、一種の矛盾ではあるが、創作物に依るなと突き放す姿勢)は、庵野秀明のシンエヴァの終わらせ方にも共通する意識がある。甘えるなと思いながら創作するその気持ちはどういうものだろうか。イエス・キリストも、ブッダも教えたのはどう生きるかでしかなかったが、その後の宗教の繁栄の中で信徒は信者をどうやって増やし、どうやって甘えさせ、どうやって金をむしるかに腐心している部分があると思う(これは自分の偏見で誇張したものである)。その最先端のものとして、新興宗教の教祖は自分に甘える信者を搾取し、心と金を奪い続ける。そのような構造を否定するには、大衆を切る覚悟、売れない覚悟、それでも教えたい、お前らの眼を覚まさせたい、そういう強い意思がないと難しいだろう。
そうではあるが。限りなくエスカレーションしていく夢や願望実現としての創作物を否定し、そのテーマ性を武器に戦う作品は、当然ながら、その武器だけでは世の大衆に受け入れられない。例えて言うならば、難しい哲学書はベストセラーにならない。もののけ姫が受けたのはサンという少女の存在やバイオレンス、超自然生物の映像表現も必要であった。シン・エヴァンゲリオンでも同様だ。世間に受ける『受けるだけでなく、意義のある』作品は多重層的だ。表層的にキャッチーな受けがあり、深層心理においてそのテーマを問いかける。そのような作品が今後も望まれるし、自分も作りたいものである。
以下蛇足。アシタカが複数の派閥に出会いどれを選ぶかを迫られるというシナリオ(実際どちらも取ったのだが)については、現在自分がプレイしている洋ゲーでも主人公が複数の勢力と会い、どれかを選ぶことでエンディングが変わってくるというシステムなので、それを連想させ、ゲームの主人公的だなと思った。アシタカが物語の全ての伏線を引っぱる主人公なのだから当然ではあるが。
話がよりも、自分が怖い。
何回見てもグロいシーンが苦手です。
他のジブリ作品でも、自然に手を加える人間をどう思うかという問いかけは十二分に感じられるし、直接的な表現のシーンから、自然に対してよりも人間という生き物の怖さが際立って感じられてしまって。
各々の価値観や正義感で争いを始めてしまう人間の身勝手さに心がずーんと重く消化困難になります。
戦争やアウシュビッツと同じく、窮地でむごく変われてしまうのが自分の属する人間なのだという事実。
だから、平和を望む自分だってそうなりかねないのだという恐怖に襲われます。
高等知能を持ち感情がありながらも、それを地球のためではなく、人類のため自分のためだけに使う人類。
人類が生態系トップに君臨しているがために、犠牲になるしかない動物界虫界自然界。実際はもののけ姫のように挑んでくれず、村上春樹のおおきな木のように、本当の終わりまで悲鳴を上げる事すらない。
恐ろしい人類。
山犬に育てられた少女
対立する二者には、それぞれ信じている思想や価値観が存在する。戦争が発生してしまう背景について少し理解できたような気がした。もちろん、絶対に起こってはならないが。
印象的だったのは、サンという女性。生まれてまもない頃に、人間から生贄として差し出され、山犬に育てられてきた。町に乗り込んで、仲間や自然のために必死で戦う冒頭のシーンは、胸熱くなるものでもあり、切なくもあった。「来るな!人間なんか大嫌いだ!!」とアシタカに言い放つシーンも心揺さぶられた。
この映画はなんとも感想を言語化しにくい。素直に言えば、「難しい」。でも、「なんかすごかった」という映画だった。
神話の生きる中世日本が舞台。人々の生きる姿は現代も同じ。ぜひ映画館で!!
何度見ても深く考えさせられる。でも説教くさくは無く、様々な人間のありのままの生きざまを描いている。1997公開当時も映画館で3回見て、金ロードやDVDでも何度も見たが、映画館で23年ぶりに見れて良かった。やはりジブリは映画館で見るべし! 小さなTV画面じゃ伝わらない魅力がたくさん。
宮﨑駿作品は、セリフでほとんど説明しないから、一言一句聞き逃さないように気を付けて、画面もしっかり隅々まで見て、見る者の理解力・想像力が必要とされるから。
(この作品、声優が少なく俳優ばかりだから、声だけでの演技力が微妙で 重要なセリフなのに聞き取りづらい場面がたくさんある。一番上手なのは、おトキさんの島本須美。やはり声優でなきゃ…。石田ゆり子の 感情表現が不足すぎる下手さは、何度も見るうちにやっと慣れた笑。
この映画を理解するには、日本の歴史背景について、最低限小学6年生レベルの知識は必要です。アシタカ達 蝦夷一族はヤマト政権の反逆者とされ、身を隠して山奥に暮らしていること。 タタラ場では、人身売買された娘たちやハンセン病患者「えた・非人」をエボシがひきとり 仕事と安定した生活の場を与えていること。エボシ自身も遊女あるいは白拍子としての苦しい過去があること。 サンのように貧困ゆえ親に捨てられる赤子は珍しくなかったこと(サンの場合は、親は森を犯した つまり貧困ゆえに木を切ったり動物を殺して食べたりして森の神を怒らせたのだろう)。 ジコ坊のように僧侶でありながら兵士であるなまぐさ坊主が存在したことなど。当時のパンフにはちょっと書かれてますが、聞き取りにくく説明不足なセリフだけで瞬時に理解するのは困難ですし、小さなお子さんと一緒に見る大人はぜひ、昔の日本の歴史や、現代よりも厳しい差別や貧困についてやさしく教えてあげてください。 自然についても、一言で自然と言っても、太古の森(シシ神の森、その舞台になった屋久島など)と、気候の違う東北の森(アシタカたち蝦夷の里、その舞台となった白神山地など)と、人の手が入った里の森(ラストシーン、トトロやぽんぽこの田園風景など)は植生が違うことも。絵で見事に描いているので、知識は無くとも見た目の違いで気づけるとは思いますが、理解をうながすために。
また、子どもにはキツイ戦闘シーンもあります。アシタカの矢で人を殺す場面は衝撃的に描かれ、アシタカ本人は懸命に殺生をこらえようと腕をおさえ「来るな!(来たら殺してしまう)」と叫ぶにもかかわらず、意志に反してタタリは発動し「憎しみに心を奪われるとこうなる、タタリ神になり死してのちも呪いは消えず、他人に憑りつき その者の中にある憎しみの心を引き出してまで暴れる」様子がリアルに描かれます。
一方で、人々の合戦は、往来の戦国ドラマの合戦シーンとは一線を画し、アクションの見せ場ではなく、あえて遠目で俯瞰的に「人々が地面にへばりつくように やーやー騒いでいる」姿を意図的に描いているそうです。自己の利益のために命を奪い合う愚かな姿として批判や揶揄や自戒をこめて。「今回は、誰も飛ばない。ジブリの見所である飛行シーンは無い」と明言し、魔法も無い世界で 地面でのたうちまわりながらぶざまに しかし懸命に生きる人間たちの姿を描いています。(当時のパンフ等参照)
なお、話の流れがわかりにくい人は、この映画の本当のタイトルは、「もののけ姫」でなく、宮﨑監督がつけた「アシタカせっ記」だと知った上で見てください(笑) 漢字変換できませんが、草という字の入る漢字。宮﨑監督の造語ですがせっ記とは「歴史の伝記には残らずとも、草のように名もなき人々によって語り継がれた。子供たちよ、アシタカのように生きよ、と」という意味の言葉です。確かサントラCDにそんな説明がありました。「もののけ姫」は鈴木敏夫氏が、映画の内容よりも商業宣伝重視で、勝手に押し切ってしまったタイトルだと、インタビュー記事など読むとわかります(苦笑)
今回はナウシカと連続で見て、比較視点で楽しめた。
アシタカが「静まれ、静まりたまえ」とタタリ神に敬意をもって呼びかける姿、エボシを狙いタタラ場に襲撃に来たサンに「森へ帰れ、退くも勇気ぞ」と呼びかける姿は、やはり
ナウシカが「怒りで我を忘れてる、静めなきゃ」「ここから先はあなた達の世界じゃないわ」「森へお帰り、大丈夫、飛べるわ」と虫笛で落ち着かせるナウシカの姿に重なる。
「森とタタラ場、双方生きる道は無いのか」「森と人と争わずにすむ道は無いのか、本当にもう止められないのか」「違う、それでは憎しみを増やすだけだ」と常に中立の立場で悩むアシタカは、
人と虫の間で中立に立ち、ペジテとトルメキアの戦争を止めさせようとするナウシカの姿に重なる。
また、アシタカがサンとエボシの直接対決に「双方剣をおさめられよ」「そなたの中には夜叉がいる、この娘の中にもだ」と剣を自らの手で止めて争いを止めさせる姿は、
トルメキア兵に父を殺され怒りに我を忘れたナウシカの剣を 自らの腕を犠牲にして止め、敵の命を守ったユパの姿に重なる。
アシタカの右腕のタタリの呪いは、ジル達「腐海に生きる者の定め」「人はこのまま腐海におびえながらやがて死ぬのを待つしかないのか」に重なるし、その腐海の謎を解くために旅するユパと重なる。
エボシは、クシャナの成長した姿に見える。利己的なクシャナが、辛い体験(売られる)をしたのちに他者への思いやりを学んだ姿だ。
ナウシカ漫画版ラストシーン「生きねば…」は、もののけ姫ポスターの「生きろ。」につながる。
これらの共通点を、ネタの使いまわしだのと誹謗中傷する口コミも見たことがある。しかし、そんな見方しかできぬ人は愚かで悲しいと思う。作家とは、自らの問い続けるテーマを繰り返し描くものだ。
昔も今も、古今東西
(室町の日本であるもののけ姫の時代も、戦争で文明が崩壊した異国のナウシカの未来の時代も。さらには未来少年コナンの時代も)
人間は愚かにも、自己の利益の為に、戦争し、他の命を奪い、人間だけでなく自然界すべてをも破壊してしまう(トルメキアとペジテも、タタラ場も、ジコ坊や侍も…)
しかし、その中でも必ず、くもりなき瞳で、真摯に生きるナウシカやアシタカのような人間はきっといるのだ。例えジコ坊に「バカには勝てん」と笑われても まっすぐに突き進む、志ある者がいるのだと、宮崎駿氏は信じているのだ。祈りをこめて描いているのだ。
私の大好きな場面、シシ神が歩く足元に草花の命が芽吹き、また枯れてゆく場面と、シシ神がふっと微笑んだだけでエボシの銃にみるみる草花が生える場面。
子どもの頃に憧れた童話「緑のゆび」を思い出す。幼い少年チトは、見た目は普通だが ふれたものに草花を生やす不思議な力のある「緑の指」をもっている。その力を生かして、難病で入院する少女のベッドに花を咲かせて少女に笑顔と生きる気力を取り戻し、スラム街を花園に変えて観光料で貧困者の生活を再建し、街に幸せをもたらしてゆく。ある日チトは自分が幸福に裕福に暮らせるのは 父の軍需工場の利益ゆえだと知る。戦争に理不尽と矛盾を感じたチトは、父の作る兵器に種を植え、戦場では砲丸や銃口から花が咲き、ついには戦争を止めさせてしまうのだ。この物語が本当に大好き。最後は「チトの正体は天使でした」という、なんとも西洋の子供だまし的なオチなのがいまひとつだが。もののけ姫のシシ神の場面を見るたびに、この童話を思い出していた。
最近知ったのだが、宮崎駿氏は子供の頃、父の軍需工場の利益で裕福な家に育ち、社会情勢が不穏になった時には自分の家だけが車で逃げることができ、近所の貧しい人達を見捨てて来たのだと罪の意識に苦しんだそうだ。
きっと子どもの頃の宮﨑駿氏も「緑のゆび」を読み、チトに「自分と同じだ」と感じたに違いない。自分に魔法は無いけれど、大人になって作り出す作品の中で「緑のゆび」の魔法を使ってみせたのだ。
ナウシカの汚れた世界を浄化する腐海に。ラピュタの科学力よりも強い生命力の巨木に。トトロのどんぐりがみるみる巨木になる月夜に。もののけのシシ神の生命を生み出す力に。
タイトルなし
リバイバル上映でもののけ姫初の劇場観賞。
これまで十回は観てきたが折角なので映画館ならではの迫力ある映像や音から新発見がないか探しながら観た。
タタラ場でエボシを殺さないでと懇願した病人の包帯が涙で濡れているのに気づいてうるっときた。
大河ドラマ化しないかな
大河ドラマ化したら、すごく面白いと思うんだよな。
アイヌ民族や、大和王朝、ハンセン病、たたら場の背景を丁寧に描きつつ
荒ぶる森の神々との争いに焦点を合わせていけば
壮大で深い話になりそう。
動物達の表現だけが難しそうだけど…。
できればアシタカせっ記はそのまま採用されて欲しいw
「アシタカせっ記」
「一生に一度は、映画館でジブリを」っという宣伝文句にまんまと釣られて観に行ってきた「もののけ姫」。これも面白かったです。スタジオ・ジブリってスゴいですね。いや、宮崎駿監督がスゴいのかな?
んで、映画を観た後に色々と検索してたら、元々宮崎駿監督は題名を「アシタカせっ記」って付けたかったそうなんですよね。「もののけ姫」じゃなくって。確かに観てて「タイトル・ロールの割にはサンってあんまり活躍しないなぁ。俳優使ってて喋りも変だし。」なんて思っていたのですが、元々アシタカさんがメインの話で考えていたのなら納得です。
アシタカさんはメッチャ男前でした。呪われてた効果でスゴい強いし。矢を射って腕や首まで飛ばしてしまうのはアシタカさんぐらいなもんでしょう。あの「推し通る!」「来いやぁー!」のやり取り好きです。そして、ヤックルが可愛い。
もののけ姫の風景って屋久島を参考にされたらしいのですが、実際に屋久島に行ってみるとメッチャもののけ姫です。こだまとかシシガミ様とか普通にいそう。当時はまだ手書きセルだったろうに屋久島の再現率はおっそろしく高いです。もののけ姫好きな人には是非一度巡礼して欲しいですね。個人的に旅行好きで都道府県全部に行った事あるのですが、屋久島はまた格別でした。行くの大変ですけど、その価値はありますよ!
映画自体は1997年の作品ですけど、自然と人間の共存って現代も全然通じるテーマですよね。エボシは人の生活ファーストで、サンは森の人、アシタカさんか選んだ道は中道といった所でしょうか?アシタカさんの選択はどっちつかずな気もしますが、こういうのってどっちつかずが1番良いような気になるのは本作を観た影響ですかね?
答えのない問題に正面から向き合い、それぞれの立場の違うキャラクターを配置しつつも、ちゃんとまとめあげた宮崎駿監督の手腕は流石です。作ってた当時は50代半ばで1番油が乗っていた時期なのでしょうね。アニメ大国日本を代表する作品を映画館で観る事ができて大満足でした。
トトロより
ジブリはトトロやラピュタがあれば良い。
子供に安心して見せられるから。
と巷の大人は言うけど、私に言わせたらジブリはナウシカやもののけ姫だと思う。
宮崎駿も言ってましたが、トトロはトトロがもうあるから良いと。
プロデューサーの鈴木さんは興業収入を考えて、女の子を主人公にして冒険物を作りたがるが宮崎先生はもう飽きてるみたいですね。
もののけ姫のサンはナウシカの裏のような性格と行動をするが、ほぼ同一人物ではないかと思うほど。
松田洋治さんのアシタカが主役なのが良い。
まだ石田ゆり子が若かりしころの作品。
とてもよかった
10年くらい前に見返して以来で、劇場公開時以来のスクリーン。コロナのお陰だ。劇場公開時は『ナウシカ』の焼き直しみたいだと思って、ちょっとがっかりした記憶がある。10年前に見た時はすごく感動して、今回は『ナウシカ』の二日後に見て、ナウシカに比べてアシタカのキャラが薄くてあまり魅力を感じなかった。サンも狼少女であんまり応援する気が起こらない。自然と人間の営みの両極端で引き裂かれるアシタカの立場で、宮崎監督も苦しそうで、見ているこっちも自然に肩入れしたいけれども、自分も文明の恩恵を受けているので居心地が悪い。矛盾を矛盾のまま居心地悪く描く。
ヤックルが健気でかわいい。エボシがクシャナと同じく手を汚して重荷を背負うタイプでかっこいい。
クレジットに電通があり、そのお陰でジブリが国民的大ヒットブランドになっていくのかな。大駄作の『ゲド戦記』まで大ヒットさせてしまうので電通はすごい。
共存する難しさそして大切さ
ジブリ作品リバイバル上映として久しぶりに鑑賞した。
ジブリ作品を全て観てきたわけではないがこの作品は千と千尋と並んでジブリ作品の中で1番お気に入りの作品である。また劇場で観られた事に感謝したい。
この作品を当時劇場で観たのは小学1年生の時。これが不思議なことにあれから20年以上の時が経っても根本の感想は変わらない。もちろん一つ一つのシーンやセリフに重みを感じたり追求する事はあっても、根本の共に生きる難しさそして大切さというのをこの作品では深く胸に響く作品だと僕は捉えて楽しんでいる。
いわばこの作品は子供から大人まで同じような感想を抱きながら楽しめるまさにジブリ作品の中でも傑作ではないかと僕は評価している。
最大の構図としては人間VS森に住む動物や精霊たちなわけだが、この作品内では人間同士も争うシーンがある。
各々がそれぞれのテリトリー内で満足し生活してればよいのだが、人間には欲深さがある。新しい理想を描き、それらを実現できる技術を得ればテリトリーを広げ、時には動物たちが住む森を奪い、時には他所の村を襲い支配しようとする。
これらを止めるには、サン率いる森に住む動物達とその森を襲う人間達が殺し合うしかないと互いに考えるわけだ。
ただ殺し合いに制すればそれでいいのか。それはやはり違うわけだ。制したところで、必ず破れた側には恨みが残り復讐に囚われる。制したものはさらなる支配と暴力でこの先も制する事しかできないわけだ。
そこでアシタカはどうにか共存する事はできないか必死に戦うわけだが結果としてはアシタカの力だけではなしえず、シシガミ様を怒らせ人間をそして動物を、そして大地の一部を奪いゼロにし、残された者でもう一度やり直すチャンスを与えてこの作品は終わるのである。
この終わり方がこの作品の醍醐味であり一番好きなところである。
約2時間互いに戦い続けるわけだが答えは出ずに終わる。それは未来に託されるわけだ。
だからこそシシガミ様はモロの君や乙事主といった長年恨み戦い続けることで生きてきた者の命は休ませ、アシタカやサン、モロの子達といった共存しあえる事を成し遂げる力のある若い世代のもの達を生かしチャンスを与えて終わったんだと思う。
だからこそ愛し合っているアシタカとサンは最後は離れる事を決断したのだがそこは寂しい別れではなく、平和への一歩を踏み出した誇らしい別れだからこそ何度見ても胸に響く。
この作品は決してもののけ姫の世界ではなくまさに現実世界でも同じ事がいくらかあるだろ。
世界を見渡せば、いまだになくならない戦争はもちろんそうだが、一人一人の小さい社会、コミニュティを振り返っても互いに理解し合い共存し合えてる社会ばかりか。決してそうではないと思う。
互いに理解する事は本当に難しい事である。時には反する者が現れそういう者とも共存し合わなくてはいけない。多くの者はそれを我慢する事で共存する道を選ぶが我慢は積もり積もれば争いとなり本当の共存社会を作れたとは言えないことも多々あるだろう。
おそらくこのもののけ姫が製作された時も、そして今もまだまだ共存しあえる社会は成し遂げることができず、これからの課題でもある。
だからこそこの作品を見て、共存する難しさを感じながら同時に共存しあえる大切さ美しさも感じながら諦める事なく挑戦し続ける事が大切なんだとこの作品を観ると毎回思い胸が熱くなる。
全28件中、1~20件目を表示