もののけ姫のレビュー・感想・評価
全200件中、21~40件目を表示
「どっちに行くんや!」みたいなのが無いのが残念である。
久しぶりにTVで見た。
印象派やはり同じ、ちょっとわちゃわちゃし過ぎで、ナウシカ臭がぬぐえない。
もう1エピソード、もののけ姫ならではの何かが欲しい。(小さなどんでん返し・フェイントみたいな)
ストーリーがただただバッドエンドに向かっていくだけである。
じじい(ジコ坊)の悪だくみが、ストレートに成功する。
例えば、小さなエピソードでじじい(ジコ坊)が怪我をして動けなくなる。
それを助けに来た味方に寝首を欠かれる。「父の仇!」とか言うて、でもストーリーはじじいの筋書き通り、バッドエンドに向かうみたいな。ちょっと才能のないストーリーだけど、そんな風な!
「どっちに行くんや!」みたいなのが無いのが残念である。
独特の不思議な世界観
山がおかしい、鳥も獣も皆いないと言う場面から始まった。アシタカは呪いを受け、それを晴らさんと旅に出た。
久しぶりに観たが、やっぱり独特の不思議な世界観だね。わかっていた様なつもりでいたが、観直したらこんな展開だったかと新鮮な気持ちで観られたよ。しかしもののけ姫に発砲するなんてまた大変だね。生きろ、そなたは美しい。
愛すべきもののけ姫です。
良人が良しとするものが、自然にとって良いとする、ストレートな映画だと思います。
人間の欲望は、あるべきものではないのか、愚かこそ生物の権利ではないのか。
そこを踏みとどまったアシタカ、サンは、眩しい輝きです。
世俗にまみれた、おじさんの感想です。
ルール説明で終わる一本。で、よく分からん。
公開当時以来の再見。
変わらず今もつまらん。
無かったであろう過去を宮崎の理屈とルールで埋め尽くしその説明に一本費やした感。
何を如何にしたいか?如何になるか?が結局分からない。
ナウシカもだが優等生過ぎる主人公の魅力不足も。
サンの独特な殺陣は魅力だがそれだけ、かな。
物の怪姫/ゾンビ姫
もののけ…物の怪…生霊(いきりょう)、死霊などの類をいい、人に取り憑(つ)いて、病気にしたり、死に至らせたりする憑き物をいう。
コトバンクの定義では幽霊の類を意味するみたいです。英語に翻訳するとゴーストになるのかな。ゴーストの悪戯なポルターガイストかな。
現代の定義だとゾンビ姫、モンスター姫、ゴースト姫、そんな言葉の方が分かりやすいが時代背景は室町時代だからそんな現代風の言葉なんて当然ない。
ちなみに作品の面白さはアシタカのヒーローに尽きる。学級委員長のような優等生、そして強い、ヤックル(カモシカ)を乗りこなし剣術や弓矢を駆使した格闘技にも強い、それでいて人一倍優しい。要はスーパーマン。
気持ち悪さと美しさの共鳴
祟り神の気持ち悪さには鳥肌が立ちます。子供の頃の恐怖は大人になっても克服は出来ませんでした。
それでも人と獣との戦争は現実世界でもある光景だからこそ映像化する価値があると感じました。手描きアニメーションだからこそ胸に迫り、時代を超える作品だと思います。
できればもっと大衆向けに優しく作ってほしかったという勝手な願いが観てて感じました。
世界の運命は、一人の戦士の勇気にかかっている。
私は『もののけ姫』を特異な視点から評価しています。中世の日本で、差別されていたハンセン病患者の心と体を救ったのは、女頭領のエボシであった。彼女は一見、血も涙もない悪女に見えるが、実は現代日本にはいない女性で、男たちから慕われ、尊敬され、しかも暴力団ともいえる組織全体を支配している。女は汚いものという古い固定観念を彼女は克服している。サンだけが突出しているが、彼女も立派な主役である。
当時観た時にかなりの衝撃だったことを覚えている。がつんと来た感じ。...
当時観た時にかなりの衝撃だったことを覚えている。がつんと来た感じ。
人間はなんて強欲で、浅はかで、勝手で、ちっぽけなんだろうと。
自然はなんて大きくて、雄大なんだろうと。
メッセージ性が強い作品。自然との共存、生きるということ。
とても考えさせられる映画です。
ジブリの自然の描写はさすが。力強く、優しい色彩が好き。
特にこの作品の雄大な自然の描写には感動します。
古代日本の迸る生命感
日本の神話時代、火を扱い山を焼く大和朝廷の力が、出雲(イズモ)、蝦夷(エミシ)、熊襲(クマソ)といったまつろわぬ民を平定し、各地八百万の神々を殺してまわる、そんな背景の物語。
【ストーリー】
エミシの民である主人公アシタカの村にタタリ神が侵入した。
どうにかこれを鎮めるも、アシタカはその身に呪いを受けてしまう。
巫女が言うにはその呪いは肉体を真っ黒に喰い荒らし、やがて死に至る恐ろしいもの。
宣託をうけ、アシタカはタタリ神が生まれた原因を探るためにその足跡を追う。
たどり着いたのは、人と神とが争う戦乱の地。
犬神モロの君に育てられたサンと、タタラ場を操業するエボシ、互いを殺したいほど憎み合う二人の女の間に入り、アシタカは調停に乗りだした。
だがそれを好まぬ大和勢力が、エボシを裏から支配し、両者の争いに火を注ぐ。
この地には生死をつかさどる神秘的存在・シシガミがおり、夜にはディダラボッチという巨人になる。
その首を持ち帰れば不老不死となるとの言い伝えがあり、大和の手の者たちは、それを帝にへの手土産にしようと不遜な画策をしていた。
朝を待ち、巨人がシシガミに戻る瞬間、エボシの放つ石火矢がその首をもぎ取る。
暴れ、のたうつディダラボッチ。
その体から生と死が噴出し、大きな塊となって山々、そして谷川の全ての生命を飲み込まんとする。
大和朝廷の間者ジコ坊を説得し、シシガミの首を取り戻したアシタカとサンが朝日の中で選ぶ未来。
果たして人と神は共存できるのか。
原生林の山岳地帯に出雲のタタラ、エミシの民、シシガミ、デイダラボッチ、オッコトヌシ、モロの君、みなぎる生命のイメージを横溢させた世界に、人間たちの思惑と陰謀がうずまく、宮崎駿監督が渾身で創り上げた一大叙事詩。
先日、近所で開催された『山本二三展』にゆきました。
その大半が宮崎駿作品で、細田守『時をかける少女』や新海誠『すずめの戸締り』などのヒット作と並べても、存在感はこちらが圧倒的。
「ブック」とか「組背景」という、近景や遠景を別々に描く背景があるのですが、シシガミの森の4〜5段階にわたる組背景は感動の出来で、鳥肌ものでした。
後年は故郷である五島の風景画をたくさん描かれていて、そこらの画家では足元にもおよばない描画力には、ただ感嘆するしかなかったです。
去年の夏、2023年に残念ながら亡くなられてしまわれましたが、その仕事をふり返る意味においても、とてもよい機会になりました。
日本アニメーション映画史上最高傑作!
誰が何と言おうと文句無しに素晴らしい作品。
公開時の1997年、自分は小学校6年生だったが劇場に8回通った。
「スゴいなぁ、カッコいいなぁ、面白いなぁ。」と、いかにも子供の目線で観ていたがあれから23年。
視る視点も理解も感動も、全て今の年齢で観ると本当に深くて、それでいて普遍的な内容だと思う。
自然と文明、人間と獣、対比的な2つは決して交じり合うことは無い。
サンや山犬の一族、乙事主率いるイノシシの群衆、野猿の群、人間がどれだけ森を支配しようが、怒りを抱き続け、森を取り戻す為に戦う。
アシタカは村や村人を守ったにも関わらず、タタリ神の呪いをもらったが為に村を出なければいけない。
おトキやたたら場の住人達は、エボシ御前の獣や神殺しに加担していることになるが、命令に従い鉄や武器を作っている。
「下で暮らすよりずっといいよ...飯はたらふく食えるし、男達は威張らないしさ。」
全ては「生きる」為。
争いが続けば、土地は荒れ、生命は傷付き、死に、いずれは絶えてしまう。
しかし、お互いが折り合いを付け、理解することが出来ればどれだけ不平不満があっても共に「生きる」ことが出来る。
美しい映像、壮大な音楽、台詞、そしてそれを読む演者の芝居、物語の始まりから終わりに至るまでの展開が数あるジブリ作品のなかで別格に素晴らしく、米アカデミー賞外国語アニメ賞はこちらの方が相応しいくらい。
(日本的・アメリカ的な映画の価値観の違いか。)
押しも押されもせぬ、日本アニメーション映画の傑作!
アシタカの選択。生きろ。
見た後の感想は見てよかったというもの。
もののけ姫は子供の頃に一度か二度見た記憶がある。サンが山犬の前で口元を血に染めて血を吐く場面(CMでの印象の方だと思うが)や、アシタカが呪われた右腕で弓を放つと敵武者の腕や首が小気味よいと感じるほどの描写でパッと体から離れる描写がまず第一に思い浮かぶ。その次に、シシ神の再生の力とダイダラボッチへの变化の様子が思い浮かぶ。そして物語の背景として青々と描かれた自然風景と首を揺らす木霊。子供の頃に見た記憶の表層としては、人体破損の暴力的で刺激的な部分と、躍動感ある日常では見ることができない人智を超越した生物=神の描写に映像的記憶が焼き付いているわけではある。しかし、そのテーマの深さについては子供の頃みた時から言語化はできなくともなんとなくわかっていたし、思い焦がれてまた見てみたいなという思いもずっとあった。それを今回見ることにした。(私が子供の頃に見た映画作品を機会があればまたそれぞれ今の自分の思いをもって再度見てみようとしているその個人的プログラムの一貫ではあったし、日本のおたく文化や日本の神々に好意的な興味を今持っている自分が再度その原点ではないが、宮崎駿さんという偉大な先駆者が作った作品をまた一度見てみたいと思っていたから。岡田斗司夫のyoutubeチャンネルでよく話すジブリの解説動画も見たいと思うきっかけの一つである。)
この作品を見る中で一番に興味がいくのは、本作の主人公アシタカの選択である。彼は山犬達、タタラ場の勢力どちらにも取り込まれず、的か味方かの二者択一ではなく、どちらとも真摯に話し、考え、自分が何をすべきか考える。その行動はどっちつかずで八方美人にも映るが、彼のやり方は『人を助けたい』という行動原理に常に従うという意味で揺るぎない意思を持った行動である。(自分を狙う侍にも積極的に攻撃はしない)彼のような人間性と強い意思を持った若者が、どちらかに与しそれを貫いたならば、その勢力は一方を蹂躙できるまでになったとも思う。しかし彼はそれをしない。このような社会に組み上げられた何処かの勢力の行動原理に自分を委ねない覚悟は、巨大組織による搾取構造の元で生きる現代人にとっても啓発を与える一つの正しい行動原理だと思う。昨今はウクライナ戦争でアメリカ(ウクライナ)側から発信された報道を見聞きして一般大衆の多くがロシア人の人権を度外視した憎しみを懐き罵倒し、その死をあざ笑う傾向があるのを見た。これは、一つの勢力に組し、その『正義』に自分を同一化させればいつも起こりうるエゴの肥大化による現象だ。それを自覚できない人間は常にいる。この映画はそのような人間(たとえるならば偏見ではるがアメリカ人のような正義と悪の二者択一構造をとりがちな人種)にとって一つのアンチテーゼを教えてくれるだろう。
キャッチコピー「生きろ」という言葉は直感的に自分の中ですぐ思い浮かぶ作品がある。それは『亡念のザムド』(2008)という作品で、個人的にそこまで気に入っている作品ではないが、彼が変身するシーンの郷愁をさそうようなBGMと嘆きの中で羽ばたきを促すような言葉とともに少年につきつけられる怪獣的ヒーローへの変身には強く感情を揺さぶられるのを感じ、そのシーンはもしかしたらもののけ姫の影響を受けていたのかもしれないと自分の中で勝手に思っている。
宮崎駿監督がこの作品のインタビューで、子供を餌にする創作物やゲームは良くないと言っていた。そのような言葉は彼の他のインタビュー記事でも見聞きしていて、彼の創作物はこうあるべきだという姿勢が伺われた。自分なりに解釈すれば、監督は創作物とは例えばその時代の問題を人につきつけ、人があぐらをかいて眼をそむけている問題を考えさせようとする教育的な側面があり、彼の中では教育以上に、その教育的価値を評論される以上に人々が作品を見てよりよく変わる事を目的としているのだと思う。それが『もののけ姫』だった。昨今のムーブメントであるエゴの充足を目的としたファストフード的な創作群(なろう作品、異世界転生系、悪女うんたら)への真逆な態度である。そのような意識(創作物をつくりながら、一種の矛盾ではあるが、創作物に依るなと突き放す姿勢)は、庵野秀明のシンエヴァの終わらせ方にも共通する意識がある。甘えるなと思いながら創作するその気持ちはどういうものだろうか。イエス・キリストも、ブッダも教えたのはどう生きるかでしかなかったが、その後の宗教の繁栄の中で信徒は信者をどうやって増やし、どうやって甘えさせ、どうやって金をむしるかに腐心している部分があると思う(これは自分の偏見で誇張したものである)。その最先端のものとして、新興宗教の教祖は自分に甘える信者を搾取し、心と金を奪い続ける。そのような構造を否定するには、大衆を切る覚悟、売れない覚悟、それでも教えたい、お前らの眼を覚まさせたい、そういう強い意思がないと難しいだろう。
そうではあるが。限りなくエスカレーションしていく夢や願望実現としての創作物を否定し、そのテーマ性を武器に戦う作品は、当然ながら、その武器だけでは世の大衆に受け入れられない。例えて言うならば、難しい哲学書はベストセラーにならない。もののけ姫が受けたのはサンという少女の存在やバイオレンス、超自然生物の映像表現も必要であった。シン・エヴァンゲリオンでも同様だ。世間に受ける『受けるだけでなく、意義のある』作品は多重層的だ。表層的にキャッチーな受けがあり、深層心理においてそのテーマを問いかける。そのような作品が今後も望まれるし、自分も作りたいものである。
以下蛇足。アシタカが複数の派閥に出会いどれを選ぶかを迫られるというシナリオ(実際どちらも取ったのだが)については、現在自分がプレイしている洋ゲーでも主人公が複数の勢力と会い、どれかを選ぶことでエンディングが変わってくるというシステムなので、それを連想させ、ゲームの主人公的だなと思った。アシタカが物語の全ての伏線を引っぱる主人公なのだから当然ではあるが。
「生きろ」宮崎駿監督からのメッセージ
鑑賞後にう〜んと考えさせられる映画。
山を荒らされ怒り狂う神々の気持ちも分かるし、生きていくために山を切り開くタタラ場の人たちの気持ちも分かる。
まさに今、私たちが置かれている現実と同じ。
:
自然を失えば、私たち人間も生きてはいけない。山や森、自然とどう共存すべきか。
人と神々の中間に立つサンやアシタカの姿を通じ、問題を突きつけられる。
アシタカが何度も訴えるのは「共存」そして、どんなになってでも「生きろ」監督が伝えたいテーマはシンプルだ。
:
映画そのものに目を向ければ、風景の素晴らしさは、さすがはジブリ✨なだらかな山々に豊かで深い森。美しき大和。
古き神々に精霊。
神話好きには、原始日本の世界観がたまらない。
シシ神は何を考えてるのか分からないが(めっちゃ空気読んでない振る舞いが面白い😂)そもそも神とはああしたもの。人智の及ぶところではない。
神殺しにより、私たちは闇を、畏れを、信仰を失う。
これは、かつて日本で起こったこと。技術が進み、闇を払拭したことで、日本から神や妖怪が消えた。
:
映画にさらなる奥深さや広がりを与える久石譲の音楽も素晴らしい。
(今回は特に音響のよい映画館を選んで見た)
声優もとても良かった。凛々しいアシタカ、歳を経た山犬のモロ、短い出演でありながら、森光子演じる巫人は映画の導入部分で強いインパクトを残した。
:
観客はアシタカと共に、古き神々が、大和が滅ぶのを目の当たりにし、これからどう生きるべきか、自然と共存できるのか、
投げかけられて終わる。
:
自分の見た衝撃を、どうにも上手く伝えられないことが歯がゆい。
公開当時は映画館に通い、3回観た。もう見られないと思っていたのに、まさかの4回目。
この映画を初めて見た時に、非常にナウシカと似てると思った。
蟲が古き神々であり、ナウシカがアシタカ。
宮崎駿の原点回帰というか、彼が人生を賭けて伝えたいテーマなんだろうな。
人間対自然の動物では語りきれない
この世界では動物対人間というナウシカのような世界が描かれているが、そこに現れるのはやはり、共存する難しさだと思う。動物の中でも対立があり、人間の中でも対立がある。それはまさに動物と戦うことを放棄するアシタカの村の人々と、タタラ村の人人。そしていののししとサンたちである。この中でサンは時折いのししの側に着く。しかし、そこにあるのは死んで欲しくない、人間が嫌いだと言う純粋な気持ちである。それは否定できない感情である。しかし、アシタカと話し、感じ、心の中にどちらの味方でもないアシタカの姿を理想図する。しかし、それは難しい。
よくよく考えると、動物も自然に住み、自然を少しは壊す。しかしそれは元来猿だった人間にとっても変わらなかったはずである。
世界に誇るべき作品
小学生の時に映画館で観て以来、20年振りに鑑賞しました。
結論から言うと神映画です。世界に誇るべき日本映画をひとつ選ぶなら、間違いなくこの作品を選びます。
内容については特に触れませんが、物語の世界観、濃密なストーリー、生き生きとした人物造形など、全てに天才宮崎駿の息吹が吹き込まれている作品だと思います。
余談ですが、昔から、イケメンの基準ってアシタカなんですよねぇ。重い荷物代わりに持ってくれそうというか。
全200件中、21~40件目を表示