ミシシッピー・バーニングのレビュー・感想・評価
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【”法の下の平等とは何だ!”今作は名匠アラン・パーカーが1964年、ミシシッピーの白人至上主義思想に染まった町で起きた事件を基に描いた二人のFBI捜査官が”悪”を追求する社会派映画の逸品である。】
ー ご存じのように、KKK(三角とんがり帽子を被る、白人至上主義者団体)は、1960年代のアメリカ南部に蔓延っていた狂信的な団体である。彼らが憎んだのは、この作品でも首謀者である実業家タウンリー(スティーヴン・トボロウスキー)が言うように、黒人であり、ユダヤ人であり、東洋人であり、”彼らに与した白人”である・・。- ■1964年、ミシシッピー州の白人至上主義思想が蔓延る小さな町で3人の公民権運動家が姿を消した。 FBI捜査官のアラン・ウォード(ウィレム・デフォー)とルパート・アンダーソン(ジーン・ハックマン)が派遣されるが、彼らを待っていたのは敵意に満ちた町の白人の人々だった。 そして、白人の目を気にしながら目立たない様に暮らす黒人の人々は口を閉ざす。 二人は度重なる捜査妨害に遭いながらも、事件の真相に迫って行く。 ◆感想<Caution!内容に触れています。> ・FBI捜査官の若くも冷静なアラン・ウォードを演じたウィレム・デフォーと南部出身のルパート・アンダーソンを演じた笑顔を浮かべながら、対象に近づき一気に表情を豹変させ追い詰めるジーン・ハックマンの演技に魅入られる。 ・二人は、捜査手段は違えど想いは同じである。アラン・ウォードはあくまでも正攻法で、ルパート・アンダーソンは魅力的な笑顔で、複数の黒人たちから真実を聞き出し、容疑者であるクリントン・ペル保安官補(ブラッド・ドゥーリフ)の妻ペル夫人(フランシス・マクドーマンド)とも親しくなっていくのである。 ・町長ティルマン(R・リー・アーメイ)は、全てを知って居ながら、見て見ぬ振り。それは、町を牛耳る白人至上主義者事業家タウンリーが、KKKの幹部であるからである。 ・冒頭の、3人の公民権運動家が乗る車が謎の車に追いかけられ、ドアから首を突っ込んできた男フランク・ベイリー(マイケル・ルーカー)が、ニヤ付きながら”ニガーの匂いがするぜ。”と言いながら銃口を向けるシーンからして恐ろしい。そして、3人は”行方不明”になるのである。 ・ルパート・アンダーソンがペル夫人(フランシス・マクドーマンド)を訪問した後に、言った言葉が印象的である。”あんなに聡明な夫人が何故・・。”彼女は、夫クリントン・ペル保安官補のアリバイの重要な存在だったからである。 だが、徐々にペル夫人は、“憎しみを信じてしまう・・。”と語り始めるのである。この辺りの彼女が逡巡する姿を若きフランシス・マクドーマンドが、抑制した演技で魅せるのである。 ・徐々に二人は容疑者たちに罠を掛けて行く。事件に関わったレスター(プルイット・テイラー・ヴィンス)が自白したように見せかけ、愚かしきKKK達は”彼らに与した白人”とみなし彼の家に銃弾を撃ち込み、彼を吊るそうとするのである。 ・更には、ペル夫人が到頭、真実をルパート・アンダーソンに告げる。だが、彼女は夫たちに酷い乱暴を受け、入院してしまう。 ■ルパート・アンダーソンが単独でクリントン・ペル保安官補たちが集う場に出掛けて行き、笑顔から表情を一変させフランク・ベイリーの股間を掴み上げるシーンや、クリントン・ペル保安官補が床屋で髭を剃って貰っている所に行き、床屋の代わりにペル保安官補の髭を”剃るシーンのジーン・ハックマンの迫力は見事である。 ・最終盤、夫が逮捕され家が滅茶苦茶になったペル夫人を心配になり訪ねるルパート・アンダーソンと彼女の会話には、救われる気持ちになる。二人はすっきりとした笑顔で話しながら別れるのである。 <そして、二人は執念の元に首謀者である実業家タウンリーを筆頭に、事件に関わった愚かしき者達を次々に検挙するのである。 首を吊った町長ティルマンの姿を見て”見て見ぬふりをするのも、同罪だ。”と言い放つ捜査官の言葉は、現代日本でも起こっている苛め、虐待を知りながら声を上げない人達にも、当て嵌まる重い言葉であると思ったモノである。 今作は名匠アラン・パーカーが1964年、ミシシッピーの白人至上主義思想に染まった町で起きた事件を基に描いた二人のFBI捜査官が”悪”を追求する社会派映画の逸品なのである。>
差別主義者は悪口や迫害しかやることがないのでは
今作に出てきたKKKのような差別主義者は、人生においてやることが、悪口や迫害といった行為しかないのだろう。作中のFBI捜査官の台詞に「黒人を憎んだおやじの本当の敵は貧乏だった」とあるように、そうなる要因の一つが貧困にある。 金も教育も無い。そのため特に能力や知識も無いので、人生においてやりたいことも無いか、もしくはできない。閉鎖的な田舎では、人生の先も見えているので、現状を打開していく気力も湧かない。黒人がいると仕事の競争相手が増えて自分達の仕事が無くなる恐れもある。そういったフラストレーションを、黒人に対する差別という形でぶつけるしか無いのだろう。なぜなら、仕事、家族や友人といった人間関係、または趣味などが充実していれば、そのような行為に費やす時間は無いはずだからだ。彼らはまず、自分の人生を充実させようと努力する必要があるんじゃないか(自戒の念も込めて...)。 黒人差別の歴史は、多少の嫌がらせ程度のものではなく、命の危険に晒されるレベルだったと知っていたが、今作はそういった差別を映像化してくれた点で貴重だと思う。
観るのが辛いけど大切な作品
1960年代のミシシッピ州での黒人差別の実話ベース作品 このテーマの作品は本当に観るのがしんどいです 日本では昨年末公開の「TILL」程ではないですが、観てるのが辛いシーンがありました 実際の差別はもっとひどかったのでしょうけど 黒人の人達についての白人の人達のコメントがひどすぎました 環境が人をつくると思うし、差別が当然という中で育ってきたらそうなるのも仕方のない事なのかもしれません 住人だけじゃなくて、保安官や判事も差別主義者、判事までが差別をするという事に本当に驚きました 逮捕されても軽すぎる刑に虚しさだけが残り、希望が見えるラストでありながらも、まだ差別と戦っていかないといけない事が想像できました そんな差別主義者と戦うFBI捜査官役にウィリアム・デフォーとジーン・ハックマン エリートではない叩き上げの捜査官にジーン・ハックマンがとってもはまっていたと思います 観て楽しめる作品ではないけど、観るべき作品で観て良かったです
白人至上主義
今見たら、また違う感想を抱くに違いない。 でも、もうその気になれない。 当時、映画といえば、純粋な娯楽作品が絶対条件で、自分にとっては、スピルバーグやルーカスのフィルムがそれであった。 ヒーローが悪を倒し、カッコよく去っていく。思えば、そんな映画ばっかり、いったい何本見たことか。 やがてスピルバーグは『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』でオスカーを獲得し、今も監督業を続けているが、その作風は大きく揺らいでいる。 人種差別を題材にして、見る人の心を揺さぶるのは、一種の禁じ手なのだろう。誰も何も言えなくなる。もちろんあってはならないことだが、この映画からもう30年近い年月が流れても、未だに白人至上主義がまかり通る社会は、なくなっていない。 きっと、これから30年たっても、人種差別を題材にした映画はなくならない気がする。 『ブレードランナー』が奴隷解放運動を根底に据えたSF娯楽映画であったように、テクノロジーの進化は、人種を開放しない。 アメリカが根底に抱える病理は、もう立派にビジネスとして成立している。 当時はその対象が虐げられる側だったのに比して、今は勝てない相手に対する畏怖の感情が混じっているように映る。 差別があるから、生きていられる人だっているのだ。
同じ血が流れる!! 覆面を被る人間が黒人を襲った惨劇!
1960年代に起きた実話に基づいた 黒人に対する根強い差別が引き起こした事件が描かれていました。 ミシシッピの田舎町に捜査にきた2人の男性 ジーン・ハックマンが自分を甘く見るな! と敵意を剥き出しにする白人たちに 凄みのある熱い演技でした。 若き日のウィリアム・デフォーもエリートの 捜査官を好演していました。 白人男性の妻、ベル夫人が供述した 旦那と一緒にいた50分のアリバイをどうやって崩していくかがポイントとなっていました。 教会で祈りを捧げる黒人たち 無抵抗な人間にされる暴力的な仕打ち! 火で焼かれる建物! 首からロープで吊るされた男性。 数々のリンチから黒人を救おうとした 捜査官の懸命な尽力は、賛えたいと思いました。 銃を頭に突きつけられる場面は恐怖を憶えました。 歴史に名を残す、忘れてはならない事件だと 思いました。
所詮人間って・・・
数十年ぶりに観て改めて深ーく考えさせられてしまいました。 この映画に登場する地元警察や住民に生々しく描かれている人間の醜さ、残虐さ、弱さ、エゴを見るにつれて、怒りがこみあげてくると同時に自分が同じ人間であることがなんだか辛く、虚しく感じられてきてしまいました。 今から60年ほど前にアメリカ南部で起こった事件がテーマですが、その当時はアメリカではある意味必然的に起こっていたであろうこのような悲惨な出来事も、人種差別は社会悪の代表格として撲滅が叫ばれ続け、状況は大きく改善されているはずなのです。が、今日でも一連のBLM問題にみられるような黒人への差別、虐待のニュースが後をたってません。実態は何ら変わっていないんですね。これだけ文明が発達し善と悪の区別くらい誰にだってつきそうなものなのにいまだに世界各地では時代錯誤な残虐で不毛な戦争が進行し人々の命が奪われ、身近な学校や職場や家庭で壮絶なイジメや虐待が行われそれを苦に命を落とす人が後を絶たない。 所詮人間って他人を傷つけあわないと生きていけない生き物なんでしょうか。私は性善説を信じて生きてきたつもりなんですが、なんだかその信念が揺らいでしまいそうです。アラン・パーカー監督の卓越した演出力の効果もあるものの、この映画が実話をベースにしていることを考えると現状が重く私にのしかかってきてしまいます。 この映画のキャストや見せ場についていろいろ語ろうと思っていましたが、前編でしんどくなってしまいましたので、このへんにしておこうと思います。うざいレビューになりすんません・・・
反吐が出る世界
想像を超える差別と暴力の世界。 緊張感ある音楽が反吐が出る世界観を一層引き立てている。 何もしない事は同罪というキーワードが出てくるが、それであれば街全体が同罪となるのだが、まさにその通りの街。ダメとわかっていても出て行く事ができない。
正にブラック・ライブズ・マターそのものです
BLMとは何か? 黒人の命も大事? そんな甘い日本語訳では何も伝わらない 「黒人の生死に関わる問題」なのです 本作は理屈などでなく、一発でズバリその本質を雄弁に映像で分からせてくれます 1964年に米ミシシッピ州フィラデルフィアで実際にあった事件をモチーフにしています その田舎町は、隣のアラバマ州バーミンガムから約260キロほど西にあります バーミンガムは黒人の公民権運動に関心のある人なら誰もが知っている街です なぜなら、本作で扱われる事件の前年1963年春の「バーミンガム運動」があったところだからです あのキング牧師が指導し、市の差別的な法律を変えさせた非暴力運動です マスコミの注目を引きつけたことで、この運動は全米的な力を生み出したのです 何度も台詞に登場するNAACPとは、全米有色人地位向上協会とのこと SCLCとはキリスト教指導者会議のこと 後者はキング牧師の組織です 本作はその事を知っていれば、より深くなぜこのような事件が起こったのかが理解できると思います 序盤、FBIの捜査員の二人は車でミシシッピ州の州境を越えます ワシントンからは約1450キロ、その道は途中バーミンガムを通過します 「ようこそモクレンの里、ミシシッピ州へ!」と看板が道端にあります モクレンの花言葉「高潔な心」 なんという皮肉であるかかが次第に明らかになります 劇中で、7歳の頃にはもう差別が当たり前の事になっているという台詞があります 因襲の世界です 差別をする大人達は当時20代としても、2020年の今は80代です 世代は入れ変わっているはずです 最後に移される三人の犠牲者の墓石には、「1964年忘れまじ」と碑文が彫られてあります しかし、その上部はハンマーで破壊されたらしく、辺りに欠片が散らばっています つまり差別の因襲の根は深く、裁判で犯人達が有罪になったところで変わってはいないのです それでもラストシーンの葬儀には黒人だけでなく、白人の若者達の顔がチラホラと混じっています 古い因襲はこの若者達の世代になればきっと消え去っている、そのはずだった 本作の公開は1988年 事件から34年が経っています 世代は変わりました ラストシーンの白人の若者達は、本作でのKKK 団の連中と同じ年頃の中年になりました 表面的な差別は消えた でも本当に消えたのか? それが本作のテーマです 冒頭の水飲み場のシーン 一本の給水管が二つに別れ、左は白人専用のウォータークーラーに繋がっています 右は有色人種専用で、ただのみすぼらしい蛇口なのです このような目で見える差別はもう消えました でも目に見えない形で残されているのではないのか? 同じ人間に産まれても、人種によって人生が異なってしまう 人生の可能性、機会の平等は、実は目に見えないこのような水飲み場のようになってはいないのか? それを本作は訴えているのです そして21世紀の2020年 本作公開から32年が経ちました 本作の事件と本作公開との間とほぼ同じ歳月が過ぎました また一つ世代が変わったのです 事態は改善されたのでしょうか? 古い因襲は消えたのでょうか? 答えはブラックライブズマター運動です 変わっていない むしろ後戻りしているのです 時間が解決する? そんなことは嘘だったのです 世代が変わっても解決されなかったのです その絶望はとてつもなく深いのだと思います いまこそ本作を観るべきです
差別したほうが都合が良いと判断した政治家・教育者・宗教者によって差別意識は刷り込まれる
あの恐ろしい「三段論法」は、旧約聖書の創世記のアダムの創造を元にこう語る ― ① 神はご自身に型どって人間を創造された ② 誰もが知っている通り神は黒人ではない ③ ゆえに、黒人は人間ではない。 ・・奴隷制度を正当化しようとした白人キリスト教社会の、この歪んだ「洗脳論法」。 言葉を失います。
ミシシッピー・バーニング
人種差別について凄く考えさせられる映画です。 これは実話だそうで本当に人間ってやつはどうしようもないなと思わされます。 こういう事がこの世から無くなるのはいつになるんだろ…。根が深いからなかなか無くならないよなぁ…。 あと世の中、きれい事だけじゃ変わらないんだ。と体現しているハックマンがかっこいいです。
ひとつの映画の形
決して演出がうまいというわけではないんです。また圧倒されるようなショットがあるわけでもないんです(例外はオープニングの家バーニングのショットか)。でも、稀に見るほどに惹き込まれるストーリーテリングだったように思います。 やっぱり黒人差別という歴史的事実、しかもつい最近の1960年代の話っていうんですから、いやがおうにも身に迫るものがありましたね。歴史的な重みで畳みかけるっていうかね。 アラン・パーカー監督の作品は初めて観たんですけど、一番有名な『ミッドナイト・エクスプレス』も観てみようかしらね。
ほんの数十年前までアメリカはこれだけ無法地帯
総合:75点 ストーリー: 75 キャスト: 75 演出: 75 ビジュアル: 70 音楽: 70 ディープ・サウスの人種差別は近代国家とは思えないほどのものだったという話も聞くし、この映画で行われていたようなことが実際に十分起きていたのだろう。町長も警察も裁判所もみんなが差別主義者なのだから、焼き討ちがあろうと殺人があろうと好き放題やり放題。突然夜に家に押しかけて黒人を引きずり出して集団暴行したり、家に火をつけたり、そのような社会での差別をそのまま直接取り上げていて迫力がある。 そのような敵対的な環境ではありきたりの方法で捜査が出来ないとなれば、非合法なきついやり方も容認してしまうというのも当然という気がする。その手の役をさせたらハックマンはまさに適役で、結果を出すためには手段を選ばずのたたき上げの捜査官を演じ、しっかりと吼えてこの閉鎖的社会に風穴を無理やり開けていた。
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