「耳に残るラブレター」ブルーベルベット 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
耳に残るラブレター
映像の効果で、一聴その光景にそぐわない楽曲のかかる方法が、よくある。
専門用語があるのかもしれないが、わからない。
たとえば、混沌──天安門事変やベルリンの壁の崩壊や多発テロや東日本大震災のような画像をフラッシュしながら、バックには中島みゆきの時代がかかっている──といった技法と似ているが、映画でもっとよく使われるのは、スローモーションと併せて、画では格闘や殺戮などの狂乱が繰り広げられていながら、バックには甘美な歌謡が流れている──というやつである。
もはや常套な技法となっていて、うまく使わないと白ける。
この技法が、どんな効果を及ぼすかというと──むろん、その映画の脈絡のなかで、多様ではあるが、よくある訴求効果としては人の所行の戯画化だろうと思う。
繰り広げられる人間の醜悪さをスローモーションにして、甘い曲をながすことで、それらを俯瞰し、ポエムや愚かしさや退廃や終末観──などの情感を増幅させる効果がある。とみている。
たとえば日本映画界の雄と見なされているバイオレンスの鬼才監督の映画では、少女達の流血や狂気の背景に、軽快なポップが流れたりする。もちろんこれは悪例として挙げたのであって、がんらい、そんな稚技をほんとにやってしまうのは、桐島の映画部の前田涼也くらいなものである。
それはともかく、この専門用語のわからない映像効果を使った、個人的にもっとも琴線へきたシーンが、ブルーベルベットのラブレターだった。
わたしは当時このケティレスターという古い黒人歌手がうたうラブレターのソースを血眼になって探した記憶がある。まだ、ものの数秒でその楽曲へたどりつける時代ではなかった。
プレスリーもナットキングコールもJulie Londonも歌うがケティレスターのラブレターはムード歌謡の雰囲気がない。なんと言ったらいいのかわからないが、地獄の底のクラブで聴いたラブレター──であり、胸にくるというより脳にくる。むろんブルーベルベットのなかで聴いたから──でもある。
ジェフリーが部屋へはいるとふたりの男が死んでいる。ひとりは椅子にいてベルベットを口に詰め込まれ耳を削がれている。ひとりは立ったまま、死後硬直をおこしている。そこへラブレターが流れてくる。銃撃があり窓ガラスが砕ける。ジェフリーが独言する。
見返したら、それだけ、である。が、高校生だった私が、この映画から受けた衝撃はすさまじいものだった。
ロイオービソンが甘い歌謡からいびつな歌謡へ印象が変わる。──いうなれば、世界の見方を変える映画だった。
じっさいツインピークスやこの映画等によってリンチが世界中の映像作家におよぼした影響は計り知れない。数多のサイコサスペンスにその影響を見るし、日本の映像作家がどや顔でつくった刑事ものやスリラーにもリンチの影を感じない──ものはない。