「Fight Club」ファイト・クラブ 重金属製の男さんの映画レビュー(感想・評価)
Fight Club
「二重人格」をテーマに据えた映画が好きで、『複製された男』(2012)や『嗤う分身』(2013)など既に何本か鑑賞しており、どの作品にも共通しているのが、メインの人格が自ら負傷することで第二の人格を殺すことで物語が終わるというもので、本作も漏れなくそのようなエンディングなのであるが、そういった作品と比べて本作はとりわけ血生臭い演出が強く、139分という上映時間も相まって最後まで鑑賞するにはかなり体力を消耗したように思う。
上記2作品と異なっている点といえば、エドワード・ノートン演じる主人公には名前が与えられず、また各人格のビジュアルが異なる点である。モノローグにおける一人称「僕」以外に主人公に名前が与えられないことで彼は「信頼できない語り手」となり、その上ビジュアルも異なれば、観客は「僕」と「タイラー・ダーデン」を全くの別人と捉え、完全にミスリードさせられる。このトリックこそが本作品をより重層化させており、「主人公自身がタイラー・ダーデンであった」という本作品の「二重人格オチ」たらしめている所以である。
「僕」は一流の家具や洋服で虚栄心を満たし、物質的には充足した生活を送っている一方で、精神的には満たされず不眠症を患っている。出張中の飛行機で、自分とは真逆の性格のタイラー・ダーデンと出会い、「ファイト・クラブ」を結成する・・・端的にいえば、タイラー・ダーデンは「僕」の理想像であり、互いを殴り合い、己の「強さ」を誇示する「ファイト・クラブ」は「僕」が失くしていた男性性の象徴である。すべては「僕」自身が無意識に抱いていた欲望の権化であり、それらは「僕」が眠っている間に「タイラー・ダーデン」という名前を持って実体となる。「僕」が不眠症を患い、医師へ「目が醒めると違う場所にいる」と語るのも当然だろう。
過剰なまでの殴り合いやテロの描写から誤解し易いが、本作は決して暴力を賛美する映画ではない。本作における暴力とは、自己滅却を行うことのメタファーである。劇中でも語られる通り「苦痛や犠牲なしには何も得られない」のが常で、「痛みから意識を背け」てはならない。痛みや苦しみを感じながら、生きている実感を得て、肯定する。DVD冒頭に登場するオリジナルの警告文こそが、本作が伝えたいメッセージそのものだったのではないだろうか。