愛のコリーダのレビュー・感想・評価
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本当の"芸術"をまだ知らないのかもしれない
昭和11年に起きた「阿部定事件」を題材に男女の関係を描いた本作。
私自身「阿部定事件」については表面上しか知らなくて、詳しい中身については無知だ。
感想としてはとても凄まじい作品だった。
内容はあってないようなもので、ただ、お互いが求め合い、昼夜構わず、人の目も気にせず、寝て起きたらセックスに浸るだけだ。そこに吉蔵や定の人間関係は一切描かれない。
印象的だったのは日の丸を振って軍隊を送り出す場面だ。意気揚々と行進する横を俯いた表情で歩く吉蔵。事件が起きたこの年は二・二六事件があり、日本が軍事国家へと突き進んでいった先駆けでもある。そんな不穏な空気感をも感じない二人は更なる愛欲へと溺れていく。だからこそ観客はスクリーンに映る二人にしか注目できない。そしてそれはとてつもなく体力を消耗する描写の連続だ。
物語を進めていく中で、序盤に比べて中盤以降の2人のセックスに愛が無いようにも思えた。作中、定は「好きだ」と何度も連呼する。だがその"好き"という定の気持ちは果たして何に対してだったのだろうか。吉蔵か、吉蔵の性器か、はたまたセックスに対してだったのか。何かに取り憑かれているとしか思えない定に終始息を呑む。
本作の性描写はフェイク無しの本物だと聞く。
修正版とはいえど、1976年の公開当時のありのままを観ることは出来ない。大胆な描写の数々に挑んだ藤竜也さん、そして松田英子さんの役者魂には大きく拍手を送りたい。本当に物凄いことだ。特に松田英子さんに関して定を演じた当時はまだ20代だと聞いた。比べてしまうように聞こえるかもしれないが昨今の作品でここまでの描写を演じ切れる役者がいるだろうか。
本作はひたすらにセックスと向き合い続けねばならない2時間弱だ。そして"愛のコリーダ"という作品に対する答えは最後まで見つからなかった。芸術だと言えばそうなのかもしれないし、猥褻だと言われればそうとも言えるだろう。大島渚監督の描く阿部定事件をモチーフにした"芸術"に私は理解はできなかったが一切否定はしない。一つの映画作品としてとても素晴らしいと思う。
余談ではあるが、今回の全国公開をもって大島監督の「戦場のメリークリスマス」と「愛のコリーダ」は最後らしい。どちらも私の生まれる前の作品であり、公開当時よりもより鮮明に修正された作品をスクリーンで鑑賞できたことがとても嬉しく思う。
役者ってすごい
ごめんなさい、有り体に言って他人がしてるところを延々と見てることにかなり辟易しました。
いや、あれが全て必要な描写だということはちゃんと分かってる。分かってるんだけど、ねえ。男の人はああいうの見慣れてるかもしれないけれど。
時代は変わりましたからね。今はそういうのいくらでも見られるでしょうから衝撃度は低いかもだけど、当時大変な問題作であったことは容易に想像がつく。ただそれにしても、よくあれで演技ができるな、っていうところに感心した。感動すら覚えた。役者ってすごいなと心から思う。首絞めてるのだって、本当に絞めてるよね。紅潮していくのが見えるもの。
クライマックス、それまで散々ぼかしが入ってたのに、切り取ったものをゴロンと転がしたところは一切ぼかされてないことにちょっとびっくりした。作り物だっていうのが分かるからいいのかな。
ラストのナレーションが聞き覚えのある大島渚監督の声だったのがかえって新鮮味があった。あと小山明子さんがちらっと出演してることもちょっとびっくり。
【時代を超えて語りかけるもの】
公開当初は超センセーショナルだった性描写も、今や、過激なAVの登場で過去のものになってしまったのかと思いきや、なんのなんの、やはり大島渚監督の画力は、色褪せないというか、今でも群を抜いてるなと改めて感じた。
冒頭の、料亭のあたりに雪がしんしん降りうっすら積もる場面、喜多川歌麿の肉筆画「深川の雪」を思わせる。
これは、深川の料亭の雪の降る日の芸者衆を描いたものだ。
長らく行方不明になっていて、近年発見され、修復された喜多川歌麿の傑作の一つだ。
喜多川歌麿は、美人画を描かせたら当代随一とされる浮世絵師だが、その魅力は描かれた女性の艶っぽさだ。
そして、映画「愛のコリーダ」は、その後の展開では、「春画」のような性描写の場面が続く。
大島渚監督は、この作品を撮るにあたって、映画「四畳半襖の下張」を意識したと言われているが、同名の原作は永井荷風の小説で、永井荷風が描いたとされる春本(春画集のこと)もあるのだから、春画のようだと感じるのは当たり前なのかもしれない。
因みに、「深川の雪」は箱根にある岡田美術館の所蔵で、別途、春画を展示しているコーナーもあるので、「深川の雪」の限定公開を狙って訪れるのも良いかもしれません。
歌手のあいみょんは、春画愛好家だが、今は容易に春画を集めた画集を手に入れることができるほか、研究家の本などもあるので、ご覧になってみて下さい。
そして、作品について思うのは、人間の奥底に潜む性的な結合を求めてやまない人の心は、至極当たり前のことではないのかいうことだ。
身体のフィーリングが合うのであれば尚更ではないのか。
人間の三欲を語る時、「権力欲」と「睡眠欲」、「集団欲」は選択肢になるが、「食欲」と『性欲』を外す人はいないと思う。
更に、触れ合いたいという「集団欲」は、ちょっと「性欲」にも通じるものがある気がするのは僕だけではないように思う。
確かに、この阿部定事件のようなケースや、有名なアメリカのプロゴルファーのセックス依存症のような状況は許容出来ないと思うが、趣味が合うとか、(曖昧いだが)価値観が合うとか、そういう言葉で説明できないものが、僕達の心の奥底には絶対眠っているのだ。
狂おしいほど好きな相手であれば、ずっと身体を合わせていたいと思うことだってあるはずだ。
場合によっては、落ちるところまで落ちても良いと思うことだってあるだろう。
最近の映画で言えば、「花束みたいな恋をした」では趣味などを通じて付き合った二人は別れたが、ネットフリックス作品の「彼女」や、この「愛のコリーダ」では、人は落ちるところまで落ちてしまう。
「花束みたいな恋をした」を否定して、「彼女」や「愛のコリーダ」を肯定するつもりはない。
どちらも人の揺れ動く心によるものなのだ。
海外では「愛のコリーダ」の無修正のDVDが販売されていて、男性器が見えたのは何回とか、女性器の陰部が見られるのは何回とか、実際に挿入が確認できるのは何回とか、下世話なところのが注目されることが多いように感じる。
しかし、僕達の心の奥底に潜む…というか、当たり前にあるはずの性への欲求を、改めて客観的に考えてみる機会に出来たらいいのにと思う。
それが、単純な性欲なのか、狂おしいほど好きになったが故のものなのか。
「愛のコリーダ」にしろ「彼女」にしろ、人を殺すなんて出来ませんなどと極端な結末を前提に考えるのではなく、心の奥底に潜むものを感じながら、自分自身と照らし合わせて観るのが面白い作品だと思う。
事件後、戦前も阿部定に同情が集まったというのは、これを自分自身の心の底に潜む感情として考えた人が多くいたということではないのか。
大島渚監督の、まるで日本の伝統的な浮世絵と春画を映像に蘇らせたような画力と、そこから感じ取れるエロティシズム、物語の展開は、僕達の心の奥底を照らして、問うているような気がする。
あなたは狂おしいほど人を好きになったことがありますか?…と。
始まりと終わりの唐突さ。藤竜也、まさに体当たり。
俺はかたい男だ
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戦前に実際に起きた女性が不倫相手のブツを切り落として逃走した阿部定事件を題材にした男と女の情事を描いた話。
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劇中ほぼずーっと2人はヤってるんだが、何がすごいって普通の本番を映してること。日本じゃモザイクかかってるけど、恐らく藤竜也のブツがガッツリ映ってるっていう。すごいわ。
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2人とも性欲が異常に強くて、特に女の方は食欲と睡眠欲が全部性欲に注ぎ込まれてる。AVのようだけど、もう見てるこっちの性欲はこの女に全部吸い取られてなんか疲れてくるから、そこがAVじゃなくて芸術なのかなと。
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トイレの時以外ほぼずっとブツを掴まれている男の姿は完全に手綱を握られてるようだし、なんでもお前の好きなようにしていいよっていうあの感じ、なんか見覚えあって腹立つなと思ったら『人間失格』の小栗旬の太宰治だった。
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公開当時は性的描写が過激すぎて裁判にまでなったらしいし、今だに日本はブツを映しちゃいけないっていうルールがあるのに、ネットでAVが大量に見られたり、日本の風俗文化は他の国からしたら性大国と言われてるんだよ。おかしな国だね日本は。
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役者本人のブツはモザイクかかるのにブツの作り物にはモザイクかからないってちょっと意味わからんし。
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【”故、松田英子さんの畢生の一作。性愛を映画倫理規定の極限まで描き、世界の映画界に名を遺した大島監督執念の一作でもある。】
ー 私にとっては、”愛のコリーダ”と言えば、クインシー・ジョーンズの哀愁溢れるディスコ・サウンドである。
だが、調べてみると、彼はこの映画に触発されて、”愛のコリーダ”を作ったとの事であった・・。
”そんなことも知らないのか!””とお叱りを受けそうであるが、年代的にお許し願いたい。-
■感想
・初鑑賞作品である。2000年の、修正なし作品の公開の際も興味なくスルーしていた。
・阿部定事件を、モチーフに描いている事も、知ってはいた。
・このような作品が、東洋の春画の世界を描いていると思われていたのか・・、等と邪推すると、ちょっとなあ・・、と言うのが当時の今作を観なかった正直な感想である。
ー 琴の音とか・・、ちょっとなあ・・。
◆役者さんについて
・後年、現在でも現役バリバリで活躍されている藤竜也さんのインタビューを読んだ記憶はある。確か、衆人環視の中で偽りなき行為を行う際には、相当な集中力が必要であった・・、という内容であったと思う。
同性としては、驚嘆するしかない・・。
・そして、”定”を演じた松田英子さん。
当時、24歳である。
驚きである。正に畢生の演技であろう。
この役のイメージが強すぎて、(それはそうだろう・・。)今作後、スクリーンで活躍される機会は少なく、58歳と言う若さで亡くなっている・・。
<大島渚監督が、フランススタッフと製作し、一世を風靡した作品。(当時のレビュー・・。)
邦画を代表する偉大な監督は、この後、男色に傾倒していくのだが・・・。
主演のお二人には、敬服するしかない作品である。
特に、故松田英子さんに対して・・。>
死ぬほど良かった
全てが美しかった。画面の隅から隅までの構成、色彩、音、役者陣の演技、設定、演出、ストーリー…。
過激な内容のため規制がかかって当然とは思うが、エロティシズムだけではない 芸術、美学が確固としてある。
序盤から、途中のとある儀までは 圧巻の美しさで、何度も何度も泣きそうになった。私自身はこの男女のように愛に狂う思いはしたことが無いが、それでさえ どうしようもなく切なくなるほどの画面の美しさ、情景に胸の奥から感動がこみ上げ、打ち震えた。
そこを越えると執拗なほどに2人のまぐわいをずっっと映す。定の激しい愛による狂気が募っていく。完全に2人だけの世界で、たまに見える異物(他人)にも定は狂気と激情を垣間見せる。
廃退的かつ排他的。定の髪や服装が乱れるにつれ定の正気は失われていく。見ている中で延々と続くセックスシーンに何度も飽きたが、それは定の激情についていくことができないから。そしてそれにずっと答える吉。見る者をも排除する2人の世界。
交わるにつれ、ラストに向かうにつれ段々と2人の交わりの奥の背景が暗くなっていく。
中盤から終盤にかけて、朱の使い方が良かった。もしかしたら序盤からそうだったのかもしれない。
定があそこまでセックスを求めたのは、2人にはそれしか無かったから。未来もなかった。お金もなかった。
吉も定を愛していた。たぶん、吉は愛された分だけその人を愛す人だったのかも。全てわかっていながら(もしかしたら定が怖かったのかもしれないが)
「お前がそうしたいなら、いいよ」
定も吉も魅力のある男で、女だった。
死ぬほど良かった(いろんな意味で)、見て良かった。人生No. 1の映画を塗り替えたかも(今まではジョーカーだった)
完全ノーカット版は無修正ではない
定「なにがおかしいのさ」
吉「いやな俺のチンポコはな小便に行くあいだしかお休みがもらえねーんだなってさ。そう思ってたんだよ」
定「ああそうだよ」
定「だって吉っつぁんのは一回終わってもすぐ硬くなるんだもん」
定「ほらこんなに」
吉「なるほどな。まるでおめえのもちもんみてーだな」
定「私のものだよ」
定「ねえどうして吉っつぁんのおちんちんはすぐに勃つんだい?」
吉「それはな。お前が欲しがってくれるからだよ」
定「また欲しがっているよ」
アマゾンで購入したDVDを鑑賞
その前に海外版BDを輸入したが日本のプレーヤーでは観ることができない事を知りがっかり
ボカシが憎い
表現の自由が聞いて呆れらー
無修正版観たさに海外旅行したくなった
でも藤竜也のは観たいけど殿山のは観たくないな
吉蔵は定や嫁だけじゃなくいろんな女とやりまくりである
定は嫁とやる事を怒るくせに嫁以外の女なら吉蔵にやれとけしかけることに矛盾を感じだが見終わったあとしばらくして矛盾していないことに気づいた
高齢の芸者やおかみさんまで犯してしまうとはAV男優も兜を脱ぐだろう
人目憚らずやりまくりには呆れてしまう
芸者さんたちが見てる前で芸者の三味線が鳴る状況でやっているシーンは面白かった
仮面ライダーストロンガーで岬ユリ子役を演じていた岡田京子が半玉役でヌードになっていたのは知らなかった
松田瑛子は新人のためか前半は演技が下手くそだったが後半はだいぶ上手くなっていた
この作品のせいでその後ダメになったという意見もあるがこれに出たからこそ松田瑛子という女優の名が邦画の歴史に深く刻まれたのだから彼女の選択は間違っていない
性器を切り取るシーンはグロい
定と吉蔵のセックスは本物だがこれは擬似のはず
それがわかっていても気持ち悪かった
全裸の小さな男の子と女の子がはしゃいで走りまくるシーンあり
変態は必見
これに比べたら『愛の渦』とか『愛の新世界』なんてままごとだ
それにしてもなぜタイトルが『愛のコリーダ』なのか?
フランス版では『官能の帝国』らしいがそっちの方がしっくりくる
あと阿部定といえば阿部サダヲである
本名の苗字が阿部だからといって阿部定に因んで阿部サダヲとは安直なネーミングセンスだよ松尾スズキ
これじゃ石川だからゴエモンという渾名をつける千葉ロッテの選手と同レベルじゃん
でも芸名が死体写真になるよりマシか
☆『愛のコリーダ』評
★映画『愛のコリーダ』(1976年日本・フランス合作/大島渚監督作品)評
-映画『愛のコリーダ』は実にさりげなく大島的シーニュを画面に遍在させながらも、観る者にその強制力を剥奪させる独自の演出力が認められる。それはイマージュとリアリズムを犯罪者と被害者、或いは共犯者に共有させ、それを決して愚弄せず、寧ろこの吉と定を崇める対象とする事で齎される神話作用を司るヘゲモニーを握る大島渚監督のノエマが実に濃厚に刻み込まれた、これは第二次世界大戦直前の予行演習にも準える愛の闘争劇として立派に流通する一個のバイブルとも謂えよう。それはどこまでもグロテスクであり、それをファルスに転化させる記号の遍在にこそ目を向けたい欲望に駆られる実に幸福な映画とも謂えよう-
幸福なる時間を創造する映画監督とは、観る者にもその時間を共有させる、まさに天使にも等しいステイタスを誇示する人。この『愛のコリーダ』と呼ばれる映画は、そんな幸福なる瞬間の連続体として君臨する大島渚という固有名詞が生んだ奇跡的と言っても決して過言ではない佳作であろう。
ここには、あくことなく展開される性戯が愛憎のコード化から逸脱する時に齎される生死を賭した四畳半のコロッセウムという仮想のトポスを、事件の現場に変容させる説話が確認されるのだ。それを人は、ヒロインの阿部定にイヴを措定させ不可視の空虚なる空間にアダムにも準える吉の魂を漂わせるエデンの園での、至高なる愛の物語とも謂える。
例えば、吉の息の根を止める定の行為には、殺意というよりも愛情のほとばしりが認識できる。それは、首を締められる時の吉の喉仏を一際強調するかのように、その円形がデフォルメされる。
ここに於いて、大島的シーニュとしての円形というフォルムへの執着が確かめられる。この球形への誘惑は、最初は屹立していた勃起したペニスにも酷似する徳利が、最期には丸型となり定の遊具として独楽の役割を与えられる。それは、吉のペニスが次第に劣等的な位置に追いやられ、サディストとして高ぶる女陰にも似た丸型の徳利が廻す対象として君臨する。ここに、円形の優位が確認されよう。それは吉が劣勢となり、定が女帝としてこの四畳半という空間を占拠する最期に相応しい儀式としてのペニス切断をも向かえる事となる。
しかも映画中盤の夜の場面で、これも大島的シーニュと符合する俯瞰撮影で捉えられる雨中の屋外で番傘を廻しながら定と吉が決して性戯ではなく、遊戯的特権を行使するかのようにお互いが旋回する場面。ここにも、円形へのこだわりが窺えよう。それは屋内の畳部屋で、定を中心に据えすっ裸の少年と少女が彼女の周囲を廻る場面とシンメトリーな関係を保つ。
この二つの場面には大人と子供の遊戯性が、実に他愛のない未熟さを共示として純粋無垢な子供達と男女の酸いも甘いもかぎ分けた恋愛の達人の定と吉の、無償とも謂える未完成の関係を観る者に提示するのだ。ここでは年齢差という差異よりも、幼児性の露呈があり、人間が根源で受け持つ未成熟への憧憬が確認されよう。
更にこれと供応するであろう場面に相当するもうひとつの対となる場面が、最期の円山公園の客席でのイマージュの場面。半裸に近い定を四角い仕切りの中心に据え、その周りを死んだ吉と少女が廻る無人の客席が、その冬の異様さを称える。ここでは廻る二人が理不尽にも親子を演じる事で、生に耽溺する定を中心にしてその周縁を廻る事が冥界に於ける輪廻転生を仮想として具現化させるのだ。ここに於いて、六道遊行に旅立つ吉と仮想の少女は犯罪者として生きる事を決意する定を見守る為に、辺境の死界に追いやられるのだ。それは、未成熟から死を体験して到達した成熟の彼岸とも謂えよう。
そして、この映画に於けるもうひとつの記号体系として、先の傘の場面辺りから画面に実にさりげなく示された定の表象色とも謂える赤が、次第にスクリーンを占有してゆく。それは、タイトルのコリーダ(闘牛)のメタファとも謂える吉の性欲を奮い立たせる色として君臨する。
更に、これと比例するかのように吉のペニスに代表されるリニア的構造への定の嫌悪が明かされてくる。それにつれて定のサディズムをも高じらせ、やがて吉にまで伝播するこの嫌悪感は、憲兵隊の行進とは逆方向を一人吉が歩む事で時代を逆行する、まさにスクリーンという表層の領域で批評性を帯びさせるダイナミズムを観る者に抱かせるのだ。
このダイナミズムは、この映画の天候を左右する。先ずは冒頭から深々と降る雪がやがて雨へと変容する頃には、この凝固した雪が融解して雨となるのも、定と吉の性愛のパトスの高揚が恰も天候にまで関連したかのような激しさを、その性交に纏わせる。
そして二人の飲む酒はやがて二人の体液として、定には吉の肌に浮かぶ汗として自らの性欲を昂然とさせ、吉には女陰が生成する潮を醤油代わりに煮物に付け食する事で、性欲と食欲を同時に満足させる一石二鳥の快楽を完遂させる。
その異常とも謂える液体は、やがて最期には吉の定によるペニス切断から放射された血液へと変貌を遂げる。ここに赤色と血液という恋愛の彼岸を賛嘆する幸福な記号が生産され、流通する為の見事な融合の儀式が成就するのだ。それは、それまでの性交の恋愛形態がいかに未成熟に等しかったかを示す為の異化効果をも孕んだ演出で提示される。この円熟を示唆するダイナミズムとオルガスムス、そして儀式の終焉に相応しい説話的磁場を生成するラストも希有な存在であろう。
映画『愛のコリーダ』は実にさりげなく大島的シーニュを画面に遍在させながらも、観る者にその強制力を剥奪させる独自の演出力が認められる。それはイマージュとリアリズムを犯罪者と被害者、或いは共犯者に共有させ、それを決して愚弄せず、寧ろこの吉と定を崇める対象とする事で齎される神話作用を司るヘゲモニーを握る大島渚監督のノエマが実に濃厚に刻み込まれた、これは第二次世界大戦直前の予行演習にも準える愛の闘争劇として立派に流通する一個のバイブルとも謂えよう。それはどこまでもグロテスクであり、それをファルスに転化させる記号の遍在にこそ目を向けたい欲望に駆られる実に幸福な映画とも謂えよう。
(了)
愛って...?
性愛と戦争と
おそらく、このフィルムに、日の丸を持った子供たちや、藤竜也が軍隊の行進を避けて道の端を歩くシーンがなかったとしたら、ひたすら性愛に没頭する男と女の情念に関する記録を映したものにしかならなかったのではないか。
ラストで、たぶん大島監督自身によるナレーションが、この事件が1936年に起きたことを伝える。2・26事件が発生した昭和11年のことである。この年代についてわざわざ言及することは、子供たちに日の丸を持たせたり、藤の歩く道に軍隊を行進させたりすることと同じ効果を発揮している。
これらの効果とは、観客が、この性愛を主題とした物語の片隅に戦争の記憶が刻みつけられていることを意識させられるということである。大島監督は、何を狙って戦争の記憶というものをこのフィルムに挿入したのだろう。初めて観た大島作品なので、他の作品にも触れなければ分からないだろう。
論戦を朝までやってるTVのトークショーに彼が出演していたことの意味合いを、何となく感じ始めた。これは、彼の作品群を観なければならないな。
何度見ても圧倒される
人間の本質をいかにフィルムに焼き付けようかという運動をとても感じる映画だった。セックスのために何もかも犠牲にして命すら粗末にしてしまうというのにどうしようもなく絶望感たっぷりで、全然楽しくなさそうなところがすごい。決して幸福でもなさそうだった。それでも深みにどんどん足を踏み入れていくところに圧倒される。
女にもてる人は、この藤達也もそうだけど、とても優しい人で、女の子の物質から精神までとても細やかなケアをする人が多い。単に気の合う合わないの問題もあるだろうけど、なかなか真似できるものではなく、非常に頭がさがる。そして精力のすごさにも頭がさがった。
2000年のリバイバル時にレンタルのVHSで見て圧倒されて、いつかスクリーンで見たいと思っていた。大島監督には申し訳ないのだが、追悼特集でこうして『戦場のメリークリスマス』など傑作が上映されるのはとてもありがたい。
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