「昭和10年、料亭の仲居として働き始めた定(松田英子)。 主人の吉蔵...」愛のコリーダ りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
昭和10年、料亭の仲居として働き始めた定(松田英子)。 主人の吉蔵...
昭和10年、料亭の仲居として働き始めた定(松田英子)。
主人の吉蔵(藤竜也)に見初められ、深い仲、懇ろになる。
男っぷりのいい吉蔵、美人というほどではないが男好きのする定。
ふたりの睦事は、夜も日も開けず、二六時中、繰り返される・・・
といったところからはじまる物語で、映画は繰り返されるふたりの睦事が延々と描かれていきます。
当時話題となった本番行為には、当然のことながらボカシが入っていますが、そのシーン、とにかくすごい。
ソレをしながら演技をせねばならないのだから、こりゃ、撮影時は大変なプレッシャーだったろう、と思います。
すごいのはソレのシーンばかりだけでなく、撮影所に組まれたセットの美術、色鮮やかな衣装(くすんだ色も含めて)、障子越しの映像と、美術や撮影も相当力が入っています。
映画は、吉蔵と定の性愛行為、つまり、エロス=生への欲望を描きながら、それは次第に、死の匂いを醸し出していきます。
中盤以降、睦事を繰り広げる待合の女中は「おふたりさんの部屋は、なんだか臭いよ」と言い、定が先生と言って金を無心にいく老人(九重京司)も「なんだか君からは鼠の腐ったような臭いがするよ」と言い、睦事の果てに定の目の前で七十近い芸者と交合する吉蔵は「なんだか、死んだ母親とやっているようだった」と言い、その相手である老芸者は事の終わったあとは失禁して失神、まるで死んだようになってしまう。
ただの「過ぎたるは猶及ばざるが如し」ということではなく、ふたりの睦事の間に世間は「死」に向かっている。
それが端的に表されているのが、兵隊行列のシーン。
時代は、二・二六事件から戦争へと向かっている・・・
ふたりのエロスの世界の外側で、日本はタナトス=死への願望の道へと進んでいた・・・
この短いシーンには、大島渚監督の日本観が現れていますね。
「お前さんを、全部、わたしの中に入れてしまいたいよ」「俺はお前の中に全部入ってしまいたいよ」と言っていた定と吉蔵。
生きている限り、そんなことは不可能なことはわかっている。
ふたつの生命がひとつに交わる、まじりあうのは、生まれる前の世界。
それは、命の次の段階なのか・・・
その思いは、結果として、陰惨な事件へと行き着いてしまう。
エロスとタナトスは同義なのか。
いや、エロスからはじまっても、必ずタナトスへと行き着いてしまうのか。
それとも、時代がタナトスへと向かっていたから、ふたりは取り込まれたのか・・・
そんなことを感じさせる傑作でした。