愛のコリーダのレビュー・感想・評価
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あなたは私のモノ、の不可能性
大島渚監督。阿部定事件がもとになっている。
最大の問題作と言われてますが、間違いなく名作です。
「リビドーは、加害に昇華される。」
より作品に沿って正確に言えば、
「性愛といったリビドーは、殺人や性器の所有といった攻撃性や支配性に昇華される。」
あらすじを公式サイトから引用する。
昭和11年。東京・中野の料亭「吉田屋」を舞台に、そこの主人である吉蔵と仲居の阿部定が出逢いたちまち惹かれあう。昼夜を問わず体を求めあう二人の愛はエスカレートし、やがてお互いの首を絞めて快感を味わうなど、危険な性戯におぼれていく。定は吉蔵の愛を独占したいと願うようになり、ある日、吉蔵を殺して自分だけのものにしようと包丁を手にした。
性愛の「愛する人を自分のモノにしたい」欲望とその挫折を見事に芸術作品として表現していると観た。
そして自分のモノにすること、言い換えれば「他者の所有」は挫折するのである。
この挫折の要因は、「他者の所有」が殺人と性器の所有という犯罪行為になり、社会的に承認されないからだけではない。むしろもっと根源的である。
所有とはモノを把持することである。
定は喜蔵という他者の所有を実現しようとする。そのために昼夜を問わずセックスをする。だがそれだけでは実現はせず、生死を彷徨う首絞めセックスへと過激化する。最後には喜蔵を殺し、性器を切り取り所有するのである。ここで他者の所有は実現したと思われる。
しかし喜蔵は死によって、他者からモノへ転化する。性器は喜蔵の象徴かもしれない。だが切り取られた性器はどこまでいってもモノである。そこには他者はいない。あるのはモノである。
つまり他者を所有する行為は、必然的に他者をモノ化する行為となり、モノの所有しか実現されないのである。
他者は把持不能である。どうしても私の手からすり抜けてしまうのである。
リビドーは、セックスなどでオーガズムに達することで実現する(とみせかけられる)。ただしリビドーは増長する。アブノーマルな性愛へと向かっていく。そして究極的に性愛は殺人行為に代表される攻撃や支配、他者の所有に昇華されるのかもしれない。しかし他者の所有は根本的に挫折する。実現不可能なのである。
それならばなぜ私たちは性愛に励むのだろうか。
人生のどこかで覚悟を決め挑むべき山
これまで恐れをなして一度も鑑賞できていなかった。今回の「修復版」の力を持ってしても当然ボカシまで見透せるわけではない。が、二・二六事件が起こった時代の空気、日本家屋のたたずまい、人々の表情に至るまで、鮮明になった映像は我々に本作へ挑む”動機”を与えてくれる。そうやって遂に対峙を果たした本作なのだが、いざ蓋を開けると、極度に閉ざされた室内にて、肉体と感情とが織りなす叙情的な世界がただひたすら展開していく様に驚かされた。人間の情欲を描きつつも、その構造はストイック。時に狂気と過激さを微増させながら、互いの感情がピンと張った線のごとく研ぎ澄まされていく様にも感心する。この壮絶なる役柄を文字通り裸一貫で演じた二人の身の捧げ方には言葉を失う。観終わった後はしばらく衝撃の余韻が抜けなかったし、全ての人にお勧めできる作品でもない。しかしながら人生のどこかで覚悟を決めて挑むべき山。そう言えるのではないか。
愛のナギーサ‼️
この作品は芸術かポルノか⁉️昭和11年に実際に起きた「阿部定事件」を、藤竜也さんと松田英子さんによる凄まじい性描写で描いた作品‼️一歩間違えばAVなんですけれども、この性描写があってこそ、定の吉蔵に対する女の情念が、観る者にも恐ろしいほど伝わってくる‼️
0116 まあ死ぬまでにこれを見とけ、の類
セリフは
バカヤロー、コノヤロー(たけしかよ)
まあまあ、そうとんがるな。俺はお前の事好きだぜ
これだけです。
40年前は松田暎子がどうしても主役を張る様な顔には思えず
鑑賞せず。
まあ今もそうなんだけど
イマイチのれんしそそれませんでした。
50点
初鑑賞 2021年6月18日 京都みなみ会館
女の情念、おそろしや
1936年(昭和11年)
実際に起きた「阿部貞事件」
定型的な「すけこまし」であった吉蔵(藤竜也)
漂う色香が半端ございません。
貞(松田暎子)はそんな吉蔵の色香に
あてられたのでしょう。
そして吉蔵も、ちょっと遊ぶつもりが
貞というどこか危うい魅力の女に惹かれ
地獄へ堕ちる道に足を踏み入れてしまった。
ただただ酒を飲みながらまともに食事もせず
寝る間も惜しんでsexばかりしてたら
そりゃやつれてきます。
変な臭いもしてきそうなもんです。
でも離れがたい2人。
最後の方では、著しく吉蔵から「生」が消え
逆に貞からは「精」が漲っているように見えます。
吉蔵は「死」すら覚悟し、
それもまた「粋で鯔背」ないい旦那を
気取ったように感じましたね。
事実は小説より奇なり。
愛しい男のイチモツを肌身離さず持ち歩く
女の情念とは誠に恐ろしいものでございます。
そしてそんな貞の気持ちが分かるわたしも
「女」でございます。くわばらくわばら😶🌫️𐤔
無修正版を観るべき。
はっきり言って、ポルノを芸術に昇華させたのは、パゾリーニと大島渚である。『愛のコリーダ』は、セックスに執着した日本人女性、阿部定の狂気のスキャンダルを映画化したものである。この映画はセックスを見事に描いており、無修正版では、映画の中の性行為がポルノビデオと変わらないことに視聴者は驚くだろう。陰毛や精液、男女の性器の淫らな露出シーンに気後れする人もいるかもしれない。しかし、それだけでこの映画の異常な芸術性を否定するのは疑問が残る。『愛のコリーダ』で描かれるセックスシーンが、エロティックな『スピーシーズ』のそれよりも万倍も優れていることに気づかない人はいないはずだ。大島渚は、黒澤明よりも圧倒的に美意識の高い監督であり、普通の人が見て楽しいと思える作品をいくらでも作ることができたはずだ。その才能は揺るぎなく、このセックス・ドキュメンタリー風の傑作は、アジア映画史でも異彩を放っている。
寺山修司のパクリ作品のよう
だなぁと思って見ていたらやはりそうだった。監督のジェラシーが生んだ作品だと言えよう。しかし寺山修司は立派な監督がジェラシーをするような立派な監督ではなく、どの映画もみなイメージの羅列のような昇天しない作品ばかりだ。そして、この作品もまた、つまらない作品だった。ぎょっとしたシーンが二つあったのがとりえかな。一つは風呂場で女房とイチャイチャするところへ・・・もう一つは三味線ババアのアップ。しかしオススメできる作品ではない。どうせなら生きたままチョン切って欲しかった。
感受性が強い女
変態、セックス依存症、メンヘラ…
そう感じる人もいいると思いますが、
彼女は『ただ感受性が強い』女。
食欲や睡眠欲よりも、ただ 性欲と、惚れた男の独占欲が強いのです。
ずっと気になっていた作品でしたが 観れて良かったです♪ リアル過ぎて、ずっと恐怖すら感じていました。
というか、本当に性行為に及んでいたのでしょうか?
この時代にこんな映画が作れたんだと思うと まさに衝撃的な傑作だと思います。
ワイセツではなく男女の切ない物語ですよね。
4K修復版の上映を機についに問題作を鑑賞しました。当初「戦メリ」だけ鑑賞しようと思っていましたが、もう映画館で観られないかも?と思いまして・・・。上映当時は芸術か?猥褻か?の議論が巻き起こりましたが、当時では致し方ないでしょうね。全編とは言いませんがセックスシーン多いですしね。それに本番ですもんね。しかし、それで語りたかった描きたかったものがあったのだろうなぁと思います。
この映画は心も経験も大人になってからじゃないとサッパリわからないし、AVとの違いがわからないのかも知れません。ただのエロにしか見えないでしょうね。最近、ピンク映画と言うカテゴリの作品を二本見て痛感したのです。人間間の愛情、恋愛には性愛、セックスはつきもので、それを描いてこそ見える心情があるのではないか?と。気持ちは背中に回した手に、動きの激しさに、行為の濃さに、視線に垣間見えるのです。あぁ、心当たりあるなぁって思うのです。「あなたから気持ちが離れたわ」なんて言葉より、心無いセックスシーンのほうが、よっぽど伝わるんじゃないかなぁ?切なさがハンパないですよww心情などをセックスシーンを通して描いて何がいけないのか?と思っちゃうわけです。しかし、まだまだ修行中の僕にはわかってないことが多数と思いますがね。
阿部定のようにセックスワーカーが、たくさんの言葉(セックス)を知っているはずのが、それを通して知らなかった恋愛言葉を知るって・・・めちゃくちゃドラマチックじゃないですか?そして、その終わりもセックス。恋の深まりも終わりの気配もセックス。いいじゃないですか。そしてそのシーンで心情やら二人の関係の移ろいを描いていく大島監督・・・素晴らしいじゃないですか。
芸術かどうかはわからないのですが、立派な文芸作品だと思いますよ。
藤竜也、最高に色気がある役者さんだなぁ。なんとまぁ退廃的な雰囲気を出せるんだろう。関心しきり。大好きなシーンは雪降る中、行進する軍隊と道の端を歩く吉藏がすれ違うシーンがたまらなく好きです。時代と逆行するような、後ろめたいような吉藏が印象に残ります。
いやぁ、迫力の一作でした。
後日、定の事件後を知りましたがすごく興味深い一生を過ごしたんですね。事件後を描いた作品があれば観てみたいです。
芸術ポルノ映画
まず、言うまでもなく、どエロい。もうほぼAV。絶対に一人で観ましょう。
昔の日本の女性や風景の退廃的な美しさが存分に味わえる映像です。特に女性の着物の裾からちらりと見える生足がとても官能的で、谷崎潤一郎の刺青を思い出しました。
阿部定役の松田暎子さんは元々寺山修司の劇団「天井桟敷」のメンバーだったそうです。それにしても恐ろしいほどの演技力(もはや演技と言って良いのか?)だなあと思いました。
この映画は芸術なのか?ポルノなのか?
個人的には両方だと思います。映像はとても美しく芸術的ですが、やはりどエロいので。官能的な芸術映画であり、芸術的なポルノ映画でもあると言えます。
自分が存在する意味を知りたかっただけ
観終わったあと、これまで聞いていた評論や感想がすべて吹っ飛んだ。
定は自分が生きている意味を知りたかっただけ。
存在する意味を知りたかっただけ。
それを知る方法が吉蔵とい続ける日々だっただけ。
定は若い頃レイプされたそうだ。
今でも理解されにくい心身に負った大きな傷はいつまでも残る深く憎らしく辛い傷。
そんな傷物を優しく接し包み込む吉蔵は定にとってかけがえのない宝物だったはず。
だから、あんなことをしたし、結果こんなことになった。
結局の所、単純なこと。
素直な気持ちで鑑賞することをお勧めする。
定の描き方が今見ても興味深い
とりあえずエロい、みたいな評判だけ聞いていてみたことがなったので初めてみてみた。
確かに初め10分くらいで論議を生むくらいにエロシーンが続くのだが、二人の関係における定があまり見ない描写で興味深かった。二人の関係はかなり対等で平等だ。定の勤め先の旦那ではあるが、パワハラやセクハラではない。
方向性を決めるのは定なのだ。定が提案し、彼女の希望を吉蔵が叶えていくという流れで進んでいく。でも暴力はない。
その描写は今見てもあまり例を見なくて面白かった。
核心を突く
40年以上前の作品でも説得力があるのは、人間の性愛の形の極限はそう変わるものではないということと、時代の制約とか倫理とかに眩むことなく、当時としてすでに核心を突いていたからだろう。わかるわかると思いながら観ていたが、絡み合いがこれだけ続くとさすがに満腹。大方の人間はここまで溺れればどこかで飽きたりブレーキがかかったりしそうなものだが、止まらなかったのは稀有なことだとつくづく思う。そして多くの物語は止まらなかったことの言い訳を長々と描くものだが、それがないのが潔くてよい。
芸術的なことに興味が無ければあまり面白くないかもしれない
2時間超ずっとセックスしていたという印象ばかり残って、映画館じゃなかったら寝てたかもしれない(笑。エロスとか性愛とか純愛とか、何かテーマを見いだせる人もいるみたいだが…そもそも話を理解するのが難しかった。絵面はキレイなんだけど発音が悪いし物語の展開がわかりにくい。なんか映画に凝ってる人にはウケるかもしれない。よくわかってない自分としては、サダとキチが楽しそうでよかったねという感じ(笑。キチがもう少し気持ちよさそうにしていてもよかったかもしれない。あと、本番しないで表現するのも映画の大事な技術だろうから、本番だからって何か特別なことがあるのかよくわからない。というか挿入が本当なら首絞めも本当だったのか?挿入のリスクは冒せて安全安心のSMでの窒息のリスクは冒せない、なんてことあるのだろうか…なんであれ今も昔も映画で傷つく人がいないことを願う。
におい
映画表現では”臭気”を表現することは難しい それは鑑賞者の経験則に頼らざるを得ない 『ネズミのような匂い』とは一体どんなのだろう あの愛欲の部屋はどれだけ籠もっていたらどんな臭気がするのだろうか
その臭気表現を邪魔するのが主人公二人の惚れ惚れするプロポーションである。あの均整の取れた体躯をあれだけみせつけらると全く臭さが感じられない 特に藤竜也の身体は同じ男からみても感嘆である
藤竜也を改名するとすれば、ヨクタツヤもしくはスグタツヤ
阿部定事件と聞いて真っ先に思い出すのが阿部サダヲ。愛のコリーダと聞いて真っ先に思い出すのがクインシー・ジョーンズの名曲だったりする。学生時代にも吹奏楽部や合唱団とのコラボで演奏したこともあるのですが、キーがEmなのでブラスセクションが苦労していたことを思い出します。ギターソロはもちろんスティーブ・ルカサー。ベースがルイス・ジョンソン♪ちなみにシングル版とアルバム版ではギターソロの長さが違う・・・
日本版愛のコリーダが公開されたときには18歳未満だったので鑑賞は無理でしたが、「芸術か猥褻か」の裁判の行方が気になってしょうがなかった。さすがに性描写は半端ないものだったし、実際の行為を想像すると、そのままの流れで日活ロマンポルノが衰退しAVの時代へと突入する点では賛否両論あろうけどエポックメイキングな作品に違いない。
まず驚いたのが殿山泰司でさえ下半身を露出したシーン。さらに芸者たちという人前であろうが構わず抱き合う二人の姿。ブロージョブは変態行為だと蔑まれてもおかまいなしで、ネズミの死体臭がするまでやりまくりの二人。純愛?違うな。他の人ともセックスする二人だし、単なる愛欲に溺れた変態なのだろう。ことあるごとにハサミを用意する定だったし、吉蔵もこのまま殺されてもかまわないと覚悟を決めていたのだろう。その耽美的かつ厭世的でもある世界にどっぷりとはまってしまう。
もともと大島渚は国家権力に対する反骨精神にあふれていて、いつも怒りに満ち溢れているイメージだった。朝生を見てると、いつ倒れてもおかしくないほどブチ切れていた。映画はそれほど見てないけど、アウトロー的な社会派作品を作る監督だと思っていた。この愛のコリーダにしても映倫という検閲への抵抗を見せてくれたのだと思いたい。
生易しい評価を超越したありのままの性愛
ついに観た。
今まで観る機会がなく(観るのが怖かったのかも)、しかし映画好きを名乗るなら絶対観ておきたかった日本映画史上最大級の問題作をとうとう観た。
正直、疲れた。
決して退屈でつまらないからじゃない。
定にアソコをちょん切られた吉蔵と同じく、精魂尽き果てた感じがした。
壮絶なまでの女の情欲、全編にわたる男女の終わりの見えない交わり、次第にエスカレートする危険な性戯。
理解とか共感とか、上品とか下品とか、そんな生易しい評価を超越したありのままの性愛を真っ向から見せつけられ圧倒された。
しかしそこに流れる空気には、不思議とドロドロとした重たさがない。むしろあっけらかんとした明るさすら感じる。
若く盲目的な定の愛欲を受け止める吉蔵の呑気さと底抜けともとれる優しさからだろうか。
芸術か、単なる猥褻かー。
公開当時かなりのセンセーションを巻き起こしたこのハードコア・ポルノは、フランス資本によって製作され、日本に逆輸入された。
アナトール・ドーマンが仕掛人というのがまた凄い。(ヌーヴェルヴァーグの傑作を多く輩出し、のちにブリキの太鼓やヴェンダース作品を手がけた名プロデューサー)
この頃の大島渚は、今のポン・ジュノのように価値の高いアジア人監督だった。
この時代にこれほど大胆な性表現に満ちた作品を撮り、上映にこぎつけた大島渚の覚悟と凄み、そして事務所を辞めてまでこの役に取り組んだ主演の藤竜也と、無名の新人だった松田英子の役者魂に感服する。
何よりも映像は惚れ惚れするほど美しい。
この作品は女性ファンの方が多いらしい。
極限の愛欲のため(狂気だと思うが)、凶行に及んだ定に感情移入するのだろうか。
やはり吉蔵の側に立って観てしまう私は、観終わってヘトヘトに疲れ果て、その理由が分かったような気がした。
昭和10年、料亭の仲居として働き始めた定(松田英子)。 主人の吉蔵...
昭和10年、料亭の仲居として働き始めた定(松田英子)。
主人の吉蔵(藤竜也)に見初められ、深い仲、懇ろになる。
男っぷりのいい吉蔵、美人というほどではないが男好きのする定。
ふたりの睦事は、夜も日も開けず、二六時中、繰り返される・・・
といったところからはじまる物語で、映画は繰り返されるふたりの睦事が延々と描かれていきます。
当時話題となった本番行為には、当然のことながらボカシが入っていますが、そのシーン、とにかくすごい。
ソレをしながら演技をせねばならないのだから、こりゃ、撮影時は大変なプレッシャーだったろう、と思います。
すごいのはソレのシーンばかりだけでなく、撮影所に組まれたセットの美術、色鮮やかな衣装(くすんだ色も含めて)、障子越しの映像と、美術や撮影も相当力が入っています。
映画は、吉蔵と定の性愛行為、つまり、エロス=生への欲望を描きながら、それは次第に、死の匂いを醸し出していきます。
中盤以降、睦事を繰り広げる待合の女中は「おふたりさんの部屋は、なんだか臭いよ」と言い、定が先生と言って金を無心にいく老人(九重京司)も「なんだか君からは鼠の腐ったような臭いがするよ」と言い、睦事の果てに定の目の前で七十近い芸者と交合する吉蔵は「なんだか、死んだ母親とやっているようだった」と言い、その相手である老芸者は事の終わったあとは失禁して失神、まるで死んだようになってしまう。
ただの「過ぎたるは猶及ばざるが如し」ということではなく、ふたりの睦事の間に世間は「死」に向かっている。
それが端的に表されているのが、兵隊行列のシーン。
時代は、二・二六事件から戦争へと向かっている・・・
ふたりのエロスの世界の外側で、日本はタナトス=死への願望の道へと進んでいた・・・
この短いシーンには、大島渚監督の日本観が現れていますね。
「お前さんを、全部、わたしの中に入れてしまいたいよ」「俺はお前の中に全部入ってしまいたいよ」と言っていた定と吉蔵。
生きている限り、そんなことは不可能なことはわかっている。
ふたつの生命がひとつに交わる、まじりあうのは、生まれる前の世界。
それは、命の次の段階なのか・・・
その思いは、結果として、陰惨な事件へと行き着いてしまう。
エロスとタナトスは同義なのか。
いや、エロスからはじまっても、必ずタナトスへと行き着いてしまうのか。
それとも、時代がタナトスへと向かっていたから、ふたりは取り込まれたのか・・・
そんなことを感じさせる傑作でした。
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