バルタザールどこへ行くのレビュー・感想・評価
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一匹のロバの眼を通して啓示する人間の罪と科、そしてブレッソンの厳しさ
自作品を映画の原型であるシネマトグラフと称した、孤高の作家ロベール・ブレッソンの一匹のロバの眼を通して人間の罪と科(とが・道理から外れ非難されるべき欠点や過ち)を直視した啓示ドラマ。ピレネー地方の農村を舞台に物語を動かす殆どの登場人物が善人とは言い難く、自尊心高く他人に冷たい負の行動で運命を暗転させていく。それをじっと見つめるロバのバルタザールの眼が常に悲しみに暮れている。人から人へたらい回しされるバルタザールは、過酷な労働と、乱暴な扱いに時に人間の勝手気儘な虐待をも受けて、身も心も傷付きながら最期を迎える。逃げる事と鳴くことでしか抵抗できないこのバルタザールを人間に例えたら、どんなに非情な人間ドラマになるだろうか。大人のための寓話として非常に厳しく残酷な物語である。この厳しさはブレッソン監督のカメラの視点に象徴されており、状況説明のロングショットは無く、ミドルショットとその移動で人物とバルタザールを凝視する。それは無表情に近い顔と手と足の動きにショットの意味が込められた純度、装飾を廃した演出の集中度の高さがシネマトグラフ足り得ていると言っていい。
「抵抗」「スリ」同様この作品も、モノクロ映像に於ける手の白さを捉えたショットが、特に演出の意図を持っている。ファーストカットの仔馬のバルタザールを優しく撫でるジャックの姉の手から兄弟にパンするショットでは、幼い兄弟が飼いたいと台詞があり、父親は駄目だと言うが、次のショットでは仔馬を引っ張り丘を下っていく。どう子供たちが説得したのか、父親が何故翻意したのかは分からない。それは観る人の想像に任せて、ここでは仔馬の頭を撫でる白い手だけが意味を成す。言葉の表面上の意味に重きを置いていない台詞です。更に思春期を迎えたマリーの元へバルタザールが戻って来た或る晩では、ベンチに座ったマリーが物音がするのを承知で故意に手をベンチに置く。すると不良少年のジェラールの手が藪の暗闇から現れ彼女の手に微かに触れる。お互いに関心がある男女のこの描き方。まるでサイレント映画のような視覚に集約した表現の無駄の無さです。マリーは幼い時に約束したジャックとの交際を諦め、ジェラールを愛するようになるが、その切っ掛けとなるマリーの車の助手席に乗り込んで運転席のシートの上に手の平を差し出すジェラールの誘い。彼女の肩に手を回し首を掴もうとすると、涙を見せて逃げるマリーだが拒絶の抵抗はしない。バルタザールの周りでじゃれ合うような若い男女。呆れているように見えるバルタザールの眼が印象的です。
バルタザールの深刻な内容でありながら、ユーモアが全く無い訳ではない。殺人事件の容疑者として尋問された浮浪者のようなアルコール依存症の男アーノルドは、病床に臥して殺されかけたバルタザールを貰い受け観光案内の移動に使い、それなりの世話はする。しかし、酒に溺れ欲求不満を何の責任も無いバルタザールに向ける。ベットに寝ながら神に断酒を誓ったと思ったら、次のショットでは酒場で酒を飲んで不貞腐れている。この駄目男の弱さが哀れで可笑しい。その後バルタザールがサーカス団に紛れ込むシークエンスが、また面白い。バルタザールがサーカス団にいる動物と目を合わせるところの語りかける映像の表現力。虎と白熊と続いて、猿と予想したらチンパンジーだった。次は象かキリンかと思ったら象だった。この象の驚いたような眼のショットがいい。ロバに芸が出来るのかと心配すると、バルタザールは天才だと判断され掛け算の芸を披露することになる。前足で数を数えるのを仕込んだだけだろうが、それだけでも凄いことである。でもここはブレッソンらしくない非現実的な描写で、まるで子供向けの童話のようなタッチです。だから余計に面白く感じてしまった。そのアルコール依存症のアーノルドに突然おじの莫大な遺産が舞い込んでくる展開の可笑しさ。そして、歓喜も束の間、酔い潰れて呆気ない最期を迎えるところまでを観て、この男の因果応報の人生が面白く纏められていることに感心してしまうのです。
自分を大事にしないマリーの自暴自棄な生き方。ジェラールを悪い男と知っても関係を続けて、最後には棄てられる。度が過ぎた悪戯から仕事をサボることしか頭にないジェラールは、恋人マリーに飽きて、恥辱を与えて棄てる男の身勝手さと卑劣さが目に余る。遂には盗みを働き警察に追われる犯罪者に堕ちていく。優しいだけのジャックはマリーを救えず、ラストは物語から消えていく。マリーの父は教師でありながら他人を信用しない自己中心的な言動を貫き、最後は最愛の娘に家出され失意の中人生を終える。生きる希望の見えない人間の自業自得の顛末を、只じっと見つめるバルタザール。
出演者に演技経験のない人たちを使うブレッソン監督。それでも主演のアンヌ・ヴィアゼムスキーの思い詰めた表情は印象に残る。「中国女」「ウィークエンド」「テオレマ」「離愁」「ランデヴー」と観ているが、このデビュー演技が最もいいのではないだろうか。父役フィリップ・アスランとジャックのヴァルテル・グレーンは謎を残す演技で、癖のある悪人の役柄の点で、ジェラールを演じたフランソワ・ラファルジュが唯一分かり易い演技をしていた。撮影は「夜と霧」「穴」「鬼火」「めざめ」「テス」に、ブレッソン監督の「少女ムシェット」「やさしい女」の名手ギスラン・クロケ。陰翳に富むモノクロ映像の美しさに、人間の業が映し出されている。音楽がシューベルトのピアノソナタ第20番の第二楽章アンダンティーノの繊細で怒りと諦観が交錯する悲しいメロディー。主人公マリーの心情に、そして物言われぬバルタザールを哀れむ慰めの情感を誘う。
ドナドナ
2024年2月10日
映画 #バルタザールどこへ行く (1964年)
ロバの視点から日常の中でそれほど憤りを促すこともなく起きてしまう人間の罪科を描く
ドストエフスキーの「白痴」のエピソードから着想
ジャン・リュック・ゴダールの妻 #アンヌ・ヴィアゼムスキー の初出演作
ロバは悲しい目をしてる
スイスにほど近いフランスの田舎町。 教師の娘マリーと農場の息子ジャ...
スイスにほど近いフランスの田舎町。
教師の娘マリーと農場の息子ジャックは筒井筒。
幼いながら、将来を誓い合っていた。
そんなある日、一匹のロバが生れ、バルタザールと名付ける。
キリスト教東方三賢人のひとりから名付けたのだった。
が、ジャックの一家は去り、農場はマリーの父に任され、月日は流れ・・・
バルタザールは鍛冶屋の苦役に使われていたが、苦役に耐えかねて遁走。
もとの農場で、成長したマリー(アンヌ・ヴィアゼムスキー)と再会する・・・
といったところからはじまる物語。
その後、マリーに恋慕し、バルタザールに嫉妬する不良少年ジェラール(フランソワ・ラファルジュ)とマリーとの関係を中心に、バルタザールを通じて周囲の人間を描いていくのだが、出てくる人物だれひとりとして、共感を呼ぶような人物は出てこない。
この、善き人皆無、というのがロベール・ブレッソン監督の狙いのようで、観ていて心底つらい。
話の内容がつらいだけでなく、構図も幾分普通ではなく、ちょっと寄りすぎていたり、斜めだったり、切り返しのポジションも常識的でないなど、観る方をいらいらさせたり困惑させたりしています。
なので、観ていてつらいので、たいていはロバのバルタザールの方に目が行くことになるのだけれど、これまたバルタザールもろくな目に合わない。
キリスト教におけるパッション(受難)とでもいうべきもので、業にまみれた人間に代わって難を受けるという恰好。
神の息子の代理といったところなのだろう。
そう感じたのは、中盤登場する飲んだくれたバルタザールを手放す際にいうセリフで、
「バルタザールよ、これからも愚かな人々をみるがいい」というもの。
このセリフと関連して、のちにサーカス団に飼われることになるバルタザールは、檻にはいったトラなどの動物を見つめるカットがあるのだが、これは檻の中の動物に対するバルタザールの憐憫を示すとともに、「檻に入っている動物の方が外の人間よりマシだ」という思いの表れなのだろう。
物言わぬバルタザールは、沈黙する神のメタファー。
神は見届けるだけで、手を差し伸べることはできない。
ああ、神様はつらいよ。
そんなバルタザールも最後は犯罪の片棒を担がされる羽目に。
ジェラールの密輸品運びに使われ、銃弾を受けてしまう。
無垢な羊たちに囲まれて静かに死ぬ姿は、神々しくさえある。
業にまみれた人間のもとで死ぬよりは、よっぽど幸せであったに違いない。
尺は短いが、宗教色が強く、どこにも救いようがない物語なので、観るのがツラい部類の作品の中でも、最上位に位置する映画かもしれません。
ロバ視点で楽しむ(未遂)
2度目の鑑賞なので、ロバ視点で観るよう心がけました。
ブレッソン特有の切り詰め方が、本当にクールです。
そして編集の妙。
下り坂でスピードが乗って、止まらなくなる、あの疾走感にドキドキ。
そしてマリーとの再会や、脱走からの帰宅。
感情が揺さぶられます。
ロバに…
しかし正直に書くと、後半は集中力も理解力も低下して、
うまく味わえなかったな、と思いました。
楽しめはしたが、感情の揺れはあまりなかったです。
まだまだ(ブレッソン・ファンとして)修行が足りませぬ…
冒頭のロバの鳴き声が印象的
ロバのバルタザールとマリーは一体だと感じました。女性が家族、男性に縛られて様々の人生遍歴を経て生きる。そして名声を挙げることなくロバが死んでいくラストシーン、何か復活があるのではと思わせつつFinのエンドロール!考えさせられ、こうした類いの映画に大きな影響を与えてた原点の一つだと思いました、よかった!
人間って本当にくだらない生き物です。
前知識ゼロ、ムシェットからはしごで観賞しました。
ロバの演技が(もしくはそのような表情の撮り方)まぁ素晴らしい。
きっとロバの目を通して、ロバの表情を通して、人間と言う生き物のへの
憂いを表しているのでは?とさえ思いました。
ほんとーーーーーーーに、大人の人間は最悪な連中だらけで、辟易します。
欲を満たすためになんでもやる。
でも思いました。人間なんてそんなくだらない生き物なんだと。
それが浮き彫りになっていきます。
ロバの表情が語っているのです。
ロバに対して行っていることは、きっと人間なら気づく気づかない関係なく
どこかでやっていると思います。
そして、思い出しました。
最近見た「異端の鳥」を。
あの作品は異端の人間に対する話でしたが、この作品は<弱者であり異種>
に対してのモノです。でも同様にとんでもない獣になれるんだな人間は。
異端に対しては自身を守るため。
弱者の異種に対しては欲を満たすため。
弱者の異種は支え合うことができない分、救いがない。
ムシェット同様にロバも楽になることを選ぶわけですが。
できれば天寿であったと思いたい。
あぁ、人間て奴は。。。。
感情を挟む隙もなく淡々と語られる悲劇の傑作
映画史上のベストディレクターの一人・ロベール・ブレッソン。未見だった60年代の2作品を名古屋シネマテークで観ることができた。
今作は1966の長編7作目。一匹のロバの悲惨な運命、そしてこのロバに関わる愚かな人間たちをクールな視線で描く。
幼い少女マリーは生まれたばかりのロバにバルタザールと名付けてかわいがったが、成長した彼女はクソのような男に入れあげ堕ちた。彼女はバルタザールを見捨てた。
飼い主を転々としたバルタザールは過酷な苦役を強いられた末に朽ちた。
何の救いもなかった。感情を挟む隙もなく淡々と語られる悲劇。そう、これがブレッソン流。傑作でありました。
そしてアンヌ・ビアゼムスキー❣️
彼女の圧倒的な魅力に翻弄されながらも萌えた。これが彼女の映画デビューだったのですね。自分にとって彼女のベストフィルムになりました。
ロバの受難とその目に映る愚かなる世界
先月『異端の鳥』を鑑賞し、戦争映画に偽装したボス・ブリューゲル的中世ワールドと、「七つの大罪」をめぐる少年の「地獄めぐり」を堪能した余勢をかって、「地獄めぐり」映画(『ベン・ハー』『時計じかけのオレンジ』『ジェイコブズ・ラダー』……etc.)の源流のひとつでもある、ブレッソンの『少女ムシェット』と本作を続けざまに視聴。いいときにシネマカリテは小屋にかけてくれた。
『バルタザールどこへ行く』と『少女ムシェット』は、万人が認める「姉妹作」である。
両作とも、徹底的にひどい目に遭う主人公が登場する。
かたや、ロバ。
かたや、少女。
どちらも基本は無垢で受動的な存在だが、ときに逃げ出したり歯向かったりする反骨心を併せ持ち、しかしキャパシティがいっぱいになると、ころっと死んでしまうような脆さ(これもある種の厭離穢土か?)も併せ持つ「受難」の行者だ。
『ムシェット』の場合は、ムシェット本人が専らサンドバッグのようにやられまくるうえ、フェミニズム的な問題意識の先駆け(彼女が与えられる苦難の大半は、女性ならではのリアルなものだ)ともなっていて、どちらかというと『バルタザールどこへ行く』でやったことの一部を集中・純化のうえ、「少女版」としてセルフリメイクしてみせている感じがある。
その点、『バルタザール』は、徹底して無垢なるロバを主人公とするぶん、語り口はより寓話的だ。
本人の苦難半分、周りの愚行めぐりが半分と、「地獄めぐり」のあり方は、『ムシェット』以上に『異端の鳥』に近い。要するに、ロバは受難を甘んじて受ける行者であると同時に、さまざまな人間の愚行と堕落を観察する、『神曲 地獄篇/煉獄篇』におけるダンテに近い役回りも担っている。
棒でしばき倒したり、ケツに蹴りを食らわせたり、尻尾に火をつけたりと、今の動物虐待禁止に縛られた映画製作ではとても作れそうにないシーンが頻出するが(そういえば、『ムシェット』の鶉狩りや兎狩りも今は到底無理っぽいw)、いちばん観ていて大変そうなのは、いつ終わるとも知れぬ粉引きの労役シーンだろう。
叙述と演出がきわめて抑制的で、決してわかりやすい映画になっていないのは、『ムシェット』と同様(ブレッソンの独特のスタイルについては『ムシェット』の感想を参照)。
ただ、本作ではそこまで禁欲的な描写や切り詰められたナラティヴが投下されるわけではなく、それなりに映画的なアクションやモンタージュの妙も楽しめるので、こちらのほうがずいぶん見やすい気がしたのはたしか。どこか宗教説話でも語り聞かせているようなおおらかな感じがあって、『ムシェット』ほどとんがっていない。
シューベルトのピアノソナタ第20番をうまく劇伴として用いているのも、飲み込みやすさが増している一因だろう。19番や21番ほどには頻繁に演奏されないが、アンダンティーノは本当に不気味で、不安で、そして美しい。
なにより、ロバは顔をアップにして、あの潤んだ目を大写しにするだけで、問答無用で可愛さと不憫さと健気さを印象付けられる点で、人間の「モデル」より格段に扱いやすい記号である。
ロバの歩む受難の生涯が、リアリスティックな弱者(労働者)の苦難と現状を反映、象徴しているのはもちろんだろうが、トルストイ『白痴』の一挿話を原作とすることからも察せられるとおり、どちらかというと宗教的な隠喩が大きいのではないかと思う。
なんといっても「ロバ」というのは、中世図像としては「愚鈍」を象徴すると同時に、キリストの生誕に立ち会い、マリアと幼子イエスのエジプト逃避の乗り物となり、イエスのエルサレム入城(このあと受難が始まり一週間後に処刑される)の乗り物ともなった聖なる動物でもある。
「受難」と「再生」の物語の主人公を担わされるには、うってつけのセレクトなのである。
茨の髪飾りをマリー(マリア)の手で掲げられ、信者の象徴である羊たちに囲まれて眠るようにこの世を去るロバは、まさにイエスの生涯を表しているかのようだ。
ロバの目にうつる世界は、キリスト教的にいえば、「七つの大罪」の広がる愚者の世である。
ヒロインであるマリーの物語は、そのままムシェットの物語へと変奏され、酔っ払いと厳格家のキャラクターも次作にそのまま持ち越される。作品内ではパン屋の兄ちゃんを筆頭とする愚連隊が一番楽し気に活写されているが、多少話の転がし手として都合よく使われすぎの気もしないではない。
総じての感想としては、『少女ムシェット』同様、監督の力量と理想は十分伝わったし、「映画とは何か」について考えさせられ、知的興奮を味合わせてくれたが、おもしろかったかといわれると、別に万人には勧めない(笑)。
人生の真実に迫った秀作
19世紀フランスの文豪オノレー・ド・バルザックの「谷間の百合」という小説の中に「C'est la vie」という台詞が出てくる。大概は「これが人生なのです」と少し大仰に訳しているが、英語の「So it goes」と同じように「こんなものさ」と、半ば諦めたような慨嘆の意味合いに訳してもいいと思う。サントリーのテレビCMでヴァンサン・カッセルも「セラヴィ」と言っていた。フランスでは日常的に使う言葉だ。
本作品のイメージも「C'est la vie」そのままである。そしてこの台詞を言うのに最も相応しい役柄が、ロバのバルタザールだと思う。もちろんバルタザールはロバだから何も喋らないが、擬人化すれば言いそうな台詞が「Au revoir. C’est la vie」(「あばよ、人生なんてこんなもんさ」)なのである。
秋元順子が歌ってヒットした「愛のままで」の歌詞の中心は、「あぁ、生きてる意味を求めたりしない」である。この言葉に作詞作曲者花岡優平の哲学が集約される。もう若くはないから人生の意味を考えるなんて無駄なことはしない。どうせ人生に意味なんてない。ただあなたがいる。それだけでいい。そういう人生観であり恋愛観だ。この感覚はエディット・ピアフの「Hymne A L'Amour 」(邦題「愛の讃歌」)の歌詞に似ている。「あなたが愛してくれるなら、空が崩れてもいい、地球なんて割れてもいい」ではじまる歌だ。本作品のヒロインであるアンヌ・ビアゼムスキー演じるマリーも「あの人を愛している、死ねと言われればそうするわ」と、エディット・ピアフの歌と同じような台詞を言う。
本作品に登場するのはマリーの他に、プライドを重んじるマリーの父と平穏無事を願うマリーの母、倫理観がなくて欲しいものは力づくで手に入れようとする若い男、臆病で礼儀正しい男になった幼馴染み、現世の利益のみを追求する老人、退廃的なアル中の浮浪者、法と秩序だけを拠り所とする警察官などである。これらの人々の世界観のぶつかり合いがそれぞれの行動として描かれる。
マリーにはプライドも平穏無事も現世の利益も要らない、そんなものに何の意味があろうか、ただ男の愛が欲しい。しかし当の男はマリーを欲しがったがすぐに飽きてしまう。マリーよりもロバに執着し、ロバは可愛いから逆に虐める。捨てられたマリーには臆病な幼馴染みの愛は物足りない。プライドを重んじて平穏無事を願った父と母は窮地に追い詰められる。浮浪者に望外の幸運は荷が重すぎた。警察官は銃をぶっぱなす。
バルタザールの周辺で起きたこれらのドラマすべては、バルタザールにとっては何の意味もない。プライドと平穏無事のつましい両親とその場限りの若い男は正反対だが、人間の生き方なんてどっちにしても大した違いはない。マリーの愛は束の間の気の迷いだ。臆病な幼馴染みは世間の価値観に、警察官は共同体の仕組みに人生を蹂躙されている。アル中の浮浪者が本当に望んだのは金ではなかった。
人間はロバの前では本音を隠さない。本作品は登場人物が本音しか言わないから、逆に難解に感じられるかもしれないが、噛み砕いてしまえばそこら辺に転がっている人生ばかりだ。愛は言葉で飾らなければ続かない。本作品が真実だとすれば、世の中の幸せは修飾語によって美化されているに過ぎない。
ロバの視点を借りて人生の真実に迫った秀作である。
地獄に生まれた小さき命
トラウマ映画を挙げるとするなら、真っ先に思い浮かぶのがこれ。個人的にこれより悲しい映画は無いと思うんだ。
登場人物の誰にも共感できない。
抵抗どころか喋ることもできないロバに対して人間の所業が鬼畜過ぎる。正に地獄。
バルタザールを虐めた人間を一人ずつ木っ端微塵にしたくなる。映画だとたかをくくっていても本当に辛い
ロバのバルタザールが可愛くて可愛くて最後まで観てしまうが幸せになってほしいという観客の細やかな願いは叶うことなく…
動物から見た人間はこんなにも愚かで見苦しいのかと思うと自分が人間であることが恥ずかしくなる。それぐらい観ていて追い詰められる映画。もう観たくないけどバルタザールの可愛さ目当てでまた観てしまうかもしれない。けどやっぱりガッカリするんだろうな。
何にせよ、この映画が持つエネルギーは本物で、真に迫るものがあった。
バルタザールでござーる
ピレネーの村、教師の娘マリーと農園主の息子ジャックは一匹のロバを可愛がっていた。しばらくしてロバのバルタザールは鍛冶屋の労役に使われていたが、逃げ出して、成長したマリーの元へ逃げ込んだ。ロバに恋をした(と思われていた)マリーに恋心を抱いていた不良のジェラールが、なんとロバに嫉妬する・・・その後は強引?なのかジェラールと恋人同士になったマリー。ロバはなぜかジェラールの働くパン屋でこきつかわれていた。
いつしかアル中の浮浪者がバルタザールを所有するようになり、遺産相続によって金持ちになった途端死んでしまう。なんとか、またマリーの元へバルタザールはかえってくる。そして幼なじみのジャックも帰ってきて、ジェラールと別れたマリーに惚れなおして求婚する・・・が、不良どもはまだマリーに執着してるのか、裸にして監禁したり、バルタザールを連れまわしたり、ストーリーは混乱の一途をたどる。
ロバの視点で感じるのが一番自然なのだろう。ジェラールによって火をつけられたり、労役ばかりで可愛そうにもなるが、主人であるマリーを慕っているのだろう。最後は羊の群れに囲まれて死んでゆくが、ロバの目から見ると、人間社会の醜いところばかり目撃したってことか。それとも貧しい人々の生命力なのか。
バルタザールというロバの生涯を描く? アホな私には話がさっぱり分か...
バルタザールというロバの生涯を描く?
アホな私には話がさっぱり分からなかった。
人間関係もさっぱり分からず。こいつ、誰?
おまえらに分かるかい?って感じの典型的上から目線映画。やっぱフランスか、どうにも苦手だ。
ネット解説にてようやく話を把握。やっぱり面白くない(笑)
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