どですかでんのレビュー・感想・評価
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不完全な人たちの生活劇。その生活の色味。
○作品全体
「作品全体」と謳って書き始めると、最初に書きたくなるのは2時間近い作品でありながら「短編集」のような作品だ、ということだ。
それは単に登場人物ごとの物語、ということだけでなく、その登場人物の一幕ごとに物語の始点があって、終点があるあたりからそう思った。最初の妄想電車を操る六ちゃんのシーンが典型的だ。南妙法蓮華経…と唱え続ける母の声だけ聞けば母が異常である母子家庭、というところから、家に貼り付けられた電車の絵と、なにもないところで電車の点検を始める六ちゃんを見せて実はそうでなかった、というミスリードの演出を見せる。情報量が多くないものの、一つ一つのドラマの始点終点がシーン単位で存在するというのが面白い。
そしてそのドラマの根幹にあるのは、それぞれの登場人物の「不完全さ」だ。六ちゃんには現実にあるはずの電車が欠けていて、互いの夫・妻を入れ替える夫婦やいろんな男の子供を作ってくる妻には倫理感が欠けている。妻の不倫によって生きる力が欠けている人物や、理想のマイホームを語りつつ現実を見つめる力が欠けたホームレスもでてくる。この不完全さやボロ小屋での生活から常に生きづらさがつきまとっているが、だからこそ、不完全たるや故に起こる問題ごとや日常の出来事がドラマチックに見えるし、ドラマチックに撮れる。
登場人物の一風変わった部分がドラマになる、というのはフィクションでは当然のことかもしれない。ただ、その不完全さの度合いが登場人物によって少しずつ違っていて、それを「短編集」のように散りばめていくことで一つ一つのシーンの異なる毛色がグラデーションのように輝く。ここがこの作品の特別な部分だろう。
悲劇度が高いかつ子の話やホームレスの話だけで一本作れそうだが、それだけだと貧困の下の悲哀劇という色味だけが強く描かれてしまう。しかし、その間にコメディチックな「交換夫婦」や六ちゃんを挟むことで、貧困の下の生活劇という色も生まれてくる。一つの登場人物の中だけ見ても様々な色味があるのは、様々な生活劇を散りばめた構成だからこそだ。
○カメラワークとか
・ベストカットは平とお蝶のシーン。平の身の回りの世話をするお蝶だが、平は心を開こうとしない。嵐の夜にお蝶は平に再び過去の過ちを謝罪する。
この時、お蝶の表情にカメラをあてて、平の表情は察しがつかない。次のカットで泣き崩れるお蝶と、その手前に今までと変わらない平の目元を映す。お蝶の献身的な姿によって平の感情の変化があると見込んで作品を見ているわけだけど、それがまったくない。その表情の衝撃と、なにもかもを拒絶されたお蝶の絶望感が最大限伝わるカットだ。
黒澤明の得意技である縦構図のカット。めちゃくちゃカッコいい。
・屋内のカットが大半だからカメラが引いてもフルショットぐらいだけど、堤防のシーンは思いっきり引いたところからカメラが始まる。ホームレスがマイホームの話をするシーンと終盤でかつ子が酒屋に心情を吐露するシーンで使われてた。かつ子のシーンは画面に情報量が少なくて、いろんなものから解放されたような印象。この時は横位置のカットだった。
・色の使い方も凝ってた。平のシーンでは平に青色を充てて、生きながら死んでいるような印象。ネオンの反射とホームレスの子というシーンは、今でも使われる街の陰と陽の演出。かつ子が襲われるシーンではかつ子の周りに造花の赤い薔薇…これはちょっと下品だったけど、シーン的には下品さが合ってもいる。
○その他
・一番好きなエピソードは顔面神経痛のある島悠吉が同僚を家に連れてくるエピソード。ワイフの無礼具合に最初は同僚を諌めつつ同調していたけれど、途中で「なんでそこまで言われなきゃいけないんだ」と激怒する。急に島悠吉のバックボーンが明るみにでたような衝撃。一方で顔面神経痛によって表情が硬直する時間があって、同僚もそれを分かってるから待ってあげているっていうのが、島悠吉のワイフへの優しさと、同僚の島悠吉への優しさが同居している感じがして良いなあとなった。
今なら分かる
人は意外と真実から目を背けても生きていける
図々しいのでもなく強がりやもちろんプライドなんかでもないと思う
生きることに前向きなだけ
「人はどんなことにでも慣れられる存在だ」
こんな言葉を聞いたことがある
今を変えられなくてそこで生きるしかないものは辛く厳しい今に慣れてゆくのだろうか
石川県の人達のことを思ってしまう
何事もない毎日がどれほど素晴らしいのかこんな時にやっと思い出します
この映画を見たのは何年前だろうか
軽く三十年は前だな
とにかくその時は見ていて退屈で面白くも何ともなかったように思います
なぜ今見たのか
宮藤官九郎さんのドラマ知ってますか?
『季節のない街』
映画の元の小説をドラマ化してたんですよ
あっ『どですかでん』だっ! って直ぐに分かっちゃう
でも映画を見たら細部まで似ていて驚きました、ほとんどの内容を忘れているんだから
あの頃手当たり次第に黒澤明作品を見ていてさ、ただ見たいからってだけで見てるから意味も何にもわからない
今なら少しは理解できる、でも特別な空間の特別な生活なんでしょうね
あの井戸端会議の人々がその時代の普通ってやつなんでしょうね
『どですかでん』ふか〜い映画でした。
何なんだろうこの映画。高尚の側に立てば何とでも言える気もするけど、...
何なんだろうこの映画。高尚の側に立てば何とでも言える気もするけど、何なんだ。とは言え、よく欧州の巨匠もこういう何なんだ系のを撮るけど、職人から何なんだ路線に行き着く人は珍しいかも知れない。
彫金師のたんばさんがいなくなったスラム街、それが21世紀の日本なのだ
戦後すぐの焼け野原のバラックが舞台のようで、その実公開の1970年の現代であることはホームレスの子供が歩く夜の街頭光景ではっきりと明示される
高度成長期の繁栄は大阪万博で頂点を極めているときに黒澤監督はこれを撮ったのだ
戦後の復興を遂げ繁栄を極めた日本
しかし一皮向けばこのようなスラム街が残されている
どこに?
郊外のどこか?
違う
私達の心の中にあるのだ
六ちゃんは都電の運転手になりきって雨の日も休まず朝から夜まで乗務をしている
夢を持った発達の遅れた少年?
そうかも知れない
母がその現実を認めて向き合わす事が出来ないだけだ
浮気性の女房を持つ男は他人の子供と知りながら自分の子供として育てている
心の広い男?
真実を認めて現実を変える勇気を持たない男だ
土方の二組の夫婦はどちらも乱倫して平気だ
そんなことどうだっていいと考えている
二人の女房はどちらも男が稼いでくるなら誰だってよいのだ
二人の亭主も酔って帰って性欲を満たせるなら誰だってよいのだ
ホームレスの親子は空想の世界に遊ぶ
現実は関係ないのだ
空想の世界には立派な豪邸が計画中なのだから
子供が死んでも空想に生きるのだ
アル中の男は偉そうな口をきくだけで働きはしない
寝ずに働かせて衰弱した姪をレイブして平気な男だ
警察沙汰になりそうになったら屁理屈を並べて慌てて逃げるのだ
罪を犯した女と、精神を破壊される程にそれを許せない男
許せないのはそれ程までに愛しているからこそであるのだが、それを理解出来ない女
ならば精算するしかないのだが、女は木を見上げても行動には移れないのだ
傍若無人な妻を放置する島さんは、顔面神経痛を患うまで我慢しているだけで、妻を愛してはいないのだ
対決を恐れているだけだ
彫金師のたんばさんだけが、まともな大人だ
彼はいつまでこのスラム街にいるのだろう
彼がいなくなったらこの街はどのようになってしまうのだろうか
そんな不安におそわれる
これが1970年の一皮向いた日本の姿なのだ
見たくない現実の姿だ
ホームレスの親子は空想的平和主義で高尚な社会主義建設を目指すもの達
六ちゃんの見えない都電は、そこだけ共産主義を実践する村だ
あるいは日本の政権を担っているつもりで、空想的に政権運営をしている気でいる野党のことだ
他人の子を育てる男は、戦後日本の過ちを正せずにいる私達国民だ
土方の二組の夫婦は政権をたらい回しにしている与党の政治家だ
あるいは節操もなく合従連衡を行う政治家だ
アル中の男は偉そうな口だけは一人前だが、やってることはクズな野党の政治家だ
罪を犯した女と許せない男は、60年安保、70安保を許した日本の政治と世論と、憤懣やるかたなく悄然し凝り固まってしまった左翼の人々
顔面神経痛の島さんは、政府のやり方がおかしいと思っても黙って声を上げない私達国民だ
彫金師のたんばさんのような立派な人間もいないではない
しかし彼らはもう年配者となり退場しつつある
つまりすべてはこのような暗喩で構成されているのだ
見たくない現実を一皮剥ぎ取って見せているのだ
それは50年経った21世紀の日本も何も変わっていない
いや、彫金師のたんばさんがいなくなったスラム街、それが21世紀の日本なのだ
心の中に広がる荒涼したゴミ捨て場のスラム街
むしろ当時よりも広がってしまっているのだ
見たくない現実を映像で直視するというアイデアは、1974年の寺山修司監督の田園に死すの元ネタかも知れない
黒澤監督の初のカラー作品
カメラは1961年の用心棒以来タッグを組んでいる斎藤孝雄
夫婦交換する土方夫婦が黄色と赤で塗り分けされている
ご丁寧に服装、洗面器、タオルまでその色だ
ホームレスの親子の衰弱した青白い姿
犯されるかつ子のシーンは赤い造花に彼女が埋まっている
六ちゃんの空想の都電を描いた絵が、西洋の大教会の祭壇画のように四方の壁に貼りだされ、ステンドグラスのようにガラス窓に貼られて、色鮮やかな色彩を放つ、などなどとカラーを意識した撮影が見られる
しかし小津安二郎監督と厚田雄春カメラマンのタッグでのカラー作品への対応に比べると、カラーへの研究や工夫では、不足しているように思えてしまう
・日本の集団の縮図はこんな感じなんだろうな ・姪に内職させてるクソ...
・日本の集団の縮図はこんな感じなんだろうな
・姪に内職させてるクソ親父が本当に憎たらしいのは演技がうますぎるってことか
・浮浪児と連れの距離感が良かった
それぞれの生活 それぞれの人生
DVDで鑑賞。
原作(山本周五郎「季節のない街」)は未読です。
黒澤明監督初のカラー作品。
元画家だけに、色彩感覚が常人とは違っているのか、バラックや背景などが独特な色使いで表現されていて、ファンタジックな世界観をつくり出していました。
多種多様なバラックが立ち並んだ表通りから隔てられ、ごみ溜めのような景色が広がる地区。そこでは、様々な氏素性の人々が肩を寄せ合って暮らしていました。
そこに住んでいる人々の様子が、まるで万華鏡のように展開されました。様々な事情を抱えながら日常を生きる姿を、オムニバスのような形で捉えていました。
お母さんとふたり暮らしの六ちゃんは、自分を都電の運転手だと思い込んでいる知的障害のある少年。毎朝、空想の電車を発車オーライ。夜遅くまで地区を一周しています。タイトルの「どですかでん」とは、彼の運転する市電の走行音を模した擬音。六ちゃんが口に出して、走っているのでした。
―時折挿入される六ちゃんの市電。物語の節目節目で登場し、狂言回しの役割を果たしていました。「どですかでん」と聞こえれば、それぞれの人生模様は次の展開へと移行しました。まるで電車が各駅停車して、それぞれの駅の様子を覗き見るような感覚でした。切り取られていく人生の断片…。
日常は千差万別であり、決して一様ではありません。涙があり、笑いがあり、恋があり、ときには情欲が存在する…。
それらを内包しているのが、人間の営み…。我が道を突き進むことが、正しい生き方じゃないかなと思いました。
これは売れない
本質を突かれたという感覚はあるけど、いかんせんメインの登場人物が普通じゃなさすぎるか、知的障害者かのどちらかだから、感情移入する対象がいない。
登場人物の誰にも寄り添えないというのは、ある意味で風景を見ているようなもので、心情描写を心情としてとらえられない。
ストーリーも、常軌を逸している人たちの行く末を追うということだから、展開を読みようがないし、どう転がっても自分と重ならないしで、続きを見たいという欲求があまりわかない。
ものすごい大きな枠で見て、例えば、どんな人でもどんな生き方をしても云々、ということが言いたいのであれば、まあ、そういう見方もあるかもしれないが…。マクロでミクロは語れないというか、人の心を人々というくくりで観るのは難しいと思った。
見ていて切なくなりますよ
裏黒澤映画的な作品のような感じ。
知的障害の少年、乞食の親子、アル中おやじ、子宝な父親、夫婦交換する土方コンビ、妻の浮気が原因で放心状態になってる旦那、人の良い老人等をオムニバス的に紹介するお話し。
名作のような駄作のような不思議な映画。
どうしちゃったの黒澤さん
人がその監督に作品の中で期待することのようなものは勿論千差万別あるだろうけど、この作品を見終わった時に襲われた「黒澤さんどうしちゃったの…」という呆然自失の感は逆に忘れられなくなりそう。「カラーに入ってからの黒澤はダメ」みたいな声はよく耳にするが、入りがこれじゃそう言われても仕方ないのでは…と思ってしまう。『どん底』から左卜全演じる旅人のような人物を抜いてより空虚な感じにしたという印象。同監督の『一番美しく』や『デルス・ウザーラ』もそうだけど、こういうこれと言った話がなく、日常や些細な出来事の積み重ねていくような映画は苦手かも。受け手の問題か。
今まで見た黒澤映画で一番好きです。
黒澤映画は、七人の侍、用心棒、羅生門、白痴、夢、八月のラプソディー、まあだだよ等観ました。初期の娯楽作品は見ごたえがあり好きですが、後半生の作品は俳優に無理やりよがりの美意識や説教を代弁せているようで、なん気持ちが悪いんですが、この作品はかなり好きです。群像劇のほとんどの登場人物がなにか問題を抱えていて、何か改善するわけでもなくただひたすらに負のサイクルで転げまわるような印象を受けました。いや、むしろ彼らには負のサイクルなどという意識はなく、それがただの日常であるのでしょう。初めと終わりに出てくる、自分を電車の運転手だと信じる精神に障害を持った青年がただひたすらに同じサイクルを毎日繰り返していく姿が映画のテーマを象徴しているように感じます。
メキシコの巨匠アルトゥーロ・リプスタインの作品を思い出させます。だれもが目を背けてしまいたいけれども現にそこに存在する、夢も希望も救いもない「ただの」現実が描かれていると思います。
とりあえず今まで観た黒澤映画の中ではぴか一でした。
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