「人は皆、誰もが時計じかけのオレンジ」時計じかけのオレンジ parsifalさんの映画レビュー(感想・評価)
人は皆、誰もが時計じかけのオレンジ
20年以上も前に見て以来の視聴。キューブリック作品は、その頃、まとめて見ていたが、若造だったので面白さが理解できていなかった。今回、久々に見て、記憶に鮮烈に残る作品だと感じた。
まずは、優雅で楽し気な音楽と暴力、色彩の融合の感覚が異色だ。ロッシーニの「どろぼうかささぎ」「ウイリアムテル序曲」の軽快、「雨に唄えば」など喜劇的なメロディに暴力や性的シーン。シェラザードやベートーベンの第九、威風堂々等。暴力を振るう若者グループの自己陶酔感を優雅・楽し気に表現していた。その暴力の様も、旋律やリズムに合わせて行われ、醜さと美しさが同居している様が見て取れた。人は美と醜、善と悪を併せ持つ。アレックスの左目のまつ毛は醜、右目は美を表しているのかもしれない。
性も暴力も、人間の根源的な力が間違った形で表出されたもの。普段は、法や習慣、人間関係によって抑え込まれている。でも、その歯止めがなくなったらどうなるか?
主人公の若者グループは、親も宗教も学校の教師にも敬意を覚えていない。彼らは、仲間うちで盛り上がれればいいのだ。リンチ、強盗、レイプ、3P、目を覆うばかりの暴力。矯正施設に入れられるも、表面だけの回心。未来の若者が、どうなっていくのかを予言したかのような部分だ。これは、資本主義世界の未来なのだろう。
矯正施設から早く解放されるための、新しい強制的な治療。暴力や性、第九を聞くことに対して吐き気が生じる。ここで、治療する側の医師や研究者も、主人公と同様、十分に暴力的であり、治療が成功したかをチェックする側も暴力的に描かれていた。こちらは、社会主義的な世界の未来を示している。
アレックスは、解放されると、自分が暴力を振るった仲間、被害者たちから復讐される。昔、酷い目に合わせたから当たり前にも見えるが、描き方は、やはりスイッチが入ったかのように、暴力的であった。
人間には、どうやら暴力のスイッチが隠されているようだ。(→時計じかけのオレンジ)こいつには暴力を振るってもいいと思うと、暴力的になれる。戦争も然り、優生思想、優越感政治的な思惑、権力維持も然り。それが、現代~未来の社会においては、増えていくと言っているかのようだ。
しかし、人間を強制的に罰則等で暴力ができないようにしても、それは確かに本当の道徳、人間の善には結びつかない。自由な選択の中から選びとるようでないと。それは、十分にデザインされた社会でないと、恐らく難しい。無軌道な自由の中では、この作品中の主人公たちのようになってしまうのではないか。自由でも、強制でも上手く行かない世界の難しさ。
善や美以上に、人間は暴力や性に魅了されやすいのかもしれない。現代の映画作品群を鑑みると、そう感じてしまう。そんなブラックなメッセージを読み取った。