「抑圧されてきた女性たちによる精神的解放の物語」テルマ&ルイーズ 臥龍さんの映画レビュー(感想・評価)
抑圧されてきた女性たちによる精神的解放の物語
1991年に公開され、アカデミー賞脚本賞を受賞した作品。鑑賞前は作品の存在自体知らなかったが、映画.comの採点も4.1だし、リバイバル上映されるくらいだから、さぞ面白い作品に違いない、という極めて安易な発想で観に行くことにした。しかし、結果的には見応えのある非常に良い作品だった。
物語の大筋としては、ウエイトレスとして働く恋人持ちの独身女性ルイーズと専業主婦のテルマによる逃避行の物語。
テルマの夫は支配欲の塊で、自身は浮気など自由奔放に振る舞いながら、テルマを徹底的に束縛し、従順であることを望み、逆らうと怒鳴り散らすといったDV紛いの行動が目立つ。責任転嫁や自己正当化が激しく、自分は常に正しいというスタンスで、妻の言い分には一切耳を傾けず、テルマは長く精神的な抑圧を受けており、次第に人としての尊厳や自信を失い、抵抗することを諦め、夫に従順であろうと思考停止に陥っていた。
もうひとりのルイーズもテルマほどではないが、似たような状況にあり、恋人は短気で日常的に物に当たったり、時には暴力を振るうDV気質。ルイーズもテルマ同様、恋人に抗えず、精神的な抑圧を受け続けている女性だった。
そんな背景を持つふたりが、気分転換のつもりで3日間のドライブ旅行を計画する。『たまには夫(恋人)から離れてハメを外したい』そんな気軽な気持ちで計画した旅行だったが、思わぬ波乱を呼ぶことになる。
道中、バーで泥酔したテルマが男性客にレイプされ、その現場に居合わせたルイーズが男性と口論になり、カッとなって男性を銃で撃ち殺してしまう。ルイーズも過去にレイプされた辛い過去があり、どうしても男を許せなかったのだ。
ルイーズは現場の状況からして、自首しても正当防衛は認められないと判断し、自首をせず逃走という道を選ぶ。テルマも男性についていった負い目からか、渋々それに了承し、逃走に付き合うことになる。目指す場所はメキシコ。こうしてふたりの長く多難な逃避行が始まる。
その逃避行の最中、テルマは出会った男性と親密な関係になる。しかし、その男性は実は強盗犯であり、逃走資金をすべて奪われるという致命的な失態を犯してしまう。
すると、なにを血迷ったか、テルマは逃走資金を確保しようと、銃を片手に通りがかったスーパーに強盗に入る。無事、逃走資金を手にしたものの、これでテルマにも前科がついてしまう。
さらに職務質問してきた警官に銃を突き付け、パトカーのトランクに閉じ込めたり、しつこくセクハラ紛いの下品なナンパを繰り返すトラック野郎のトラックを木端微塵に破壊するなど、彼女たちは次々と罪を重ねていく。
しかし、これだけ大変な状況にもかかわらず、彼女たちはなぜか旅が進むにつれ、自分らしく生き生きとした明るい姿へと変わっていく。
次々と罪を犯し、もう旦那や恋人の元には戻れないと腹を括ると、一気にその精神的支配から解放され、失っていた本来の自分らしい姿を取り戻していく。それまで自然と抑圧していた感情や意思を素直に表現できるようになり、特にテルマは急に逞しい強い女性へと変貌していく。その姿はなぜか清々しくも見えた。
この映画の核心は、抑圧されてきた女性たちによる精神的解放の物語であり、それはラストのシーンでより鮮明になる。
最後、パトカーに囲まれ、いよいよ追い詰められると、彼女たちは車のアクセルを踏み込み、崖下に飛び込み自殺を図る。
逮捕されれば刑務所に入り、様々な制約を強いられ、また抑圧された不自由な生活に逆戻り。そうなるくらいなら死んだほうがマシ。彼女たちはそう考えたのだろう。ふたりは覚悟を決め、互いの手を握りしめ、晴れ晴れとした表情でグランドキャニオンの崖下へと飛び込んでいく。この映画を象徴する非常に印象的なシーンだった。
長く抑圧され続けることで思考停止に陥り、夫(恋人)の望む人格を演じ続けることの生き辛さ感じていた彼女たちにとって、自由というのはそれくらい尊いものだと訴えているように感じた。
この映画を見て、自分はスペインの政治指導者ドロレス・イバルリの『跪いて生きるくらいなら、立ち上がって死んだ方がマシだ』という言葉が浮かんだ。
この映画では、抑圧する男性と抑圧される女性という構図だったが、似たような構図は親と子、上司と部下、先生と生徒といった社会の様々な場面でも見受けられる。現実世界で実際ここまで振り切った行動ができるとは思わないが、いろいろ考えさせられるいい映画だった。
臥龍さん(私も諸葛亮が好きです!)、共感&コメントありがとうございます。全く別の作品ですが『ドライブアウェイ・ドールズ』を観る前から勝手に本作のようなロードムービーだろうと思いきや
全然違って脱力したのを思い出しました(笑)