ロゼッタのレビュー・感想・評価
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ロゼッタ法
この作品をきっかけにして未成年者の労働環境改善に向けた法整備がなされてそれはロゼッタ法などと呼ばれたという。
しかしそんな付け焼刃の法律をいくら作ろうとも根本的な解決には程遠い。資本主義社会はもはや限界にきている。
18歳のロゼッタはいつも早歩きでせわしなく動いてる。いつも何かに追い立てられてるかのように。そんな彼女に振り落とされないよう手持ちのカメラが彼女の背中に食らいつく。彼女の一挙手一投足を見逃すまいと。
冒頭から解雇された工場の雇用主に必死に食い下がろうとするロゼッタ。クビにしないでと。そんな彼女の抵抗する勇ましい姿をカメラはとらえ続ける。トイレに立てこもり無理やり警備員に連れ出される彼女の姿はとてもエネルギッシュだ。
母一人娘一人で住むところはシーズンオフのキャンピング場。お母さんはアルコール中毒でお酒目当てに売春を続けている。そんな母を何とか更生させようとする。
しかし彼女自身も職探しの身でなかなか仕事にはありつけない。そんな彼女に行きつけのワッフル屋台のリケは優しく接してくれる。
部屋に呼んで下手くそな自分のバンドのテープを聞かせてくれたり、嫌がるロゼッタにしつこくダンスしようなどと言い、なかなかの気まずさ。それでもロゼッタは友達が出来て喜んでいた。
しかしやっと手に入れた仕事もすぐに解雇され、彼女はリケの不正を経営者に言いつけて自分がワッフル屋台の後釜の仕事をゲットする。リケは我慢ならず彼女を責め立てる。
ようやくできた友達と引き換えに仕事を手にしたロゼッタだが相変わらず母親は立ち直ることができず、絶望した彼女は仕事を辞めてガス自殺をしようとする。最後の晩餐はゆで卵。でもガスが切れて自殺できない。貧しい人間は自殺さえできない。
購入した重たいガスボンベを運ぶロゼッタの前に現れるリケ、力尽きてその場でうずくまり泣きじゃくる彼女に彼は優しく手を差し伸べる。
恵まれない貧困生活の中でも必死に生きようとした少女ロゼッタ。貧しさから友達も作ることもできない、そして自殺することも。本作はその置かれた厳しい環境下でも必死に頑張り続けた彼女の姿を通して今の格差社会を批判し、そのような社会で生きざるを得ない少年少女を温かく見つめるダルデンヌ監督の優しい目線が印象的な佳作。
彼女に手を差し伸べた相手を涙ぐんで見つめるロゼッタの顔で終わるラストシーン。けして彼女のような子供たちが見捨てられることがあってはいけないんだという監督のメッセージが伝わり余韻を残す。
映画評論家の町山さんが述べてたように元はチャップリンの「キッド」のようなコメディ作品を考えていたらしく随所に笑わせようとしているシーンが満遍なくちりばめられている。確かにロゼッタやリケが池に落ちるシーン、そしてリケが池で溺れれば自分がワッフル屋台で働けるのではと彼を助けようとしないロゼッタのシーンが結構笑える。
主演のロゼッタを演じたエミリー・ドゥケンヌは最近の作品「CLOSE」でお母さん役を好演していた。
画面に半分だけ映り込む「優しさ」
ドキュメンタリー監督だったダルデンヌ兄弟の特長といえば手持ちカメラだ。本作でも主人公ロゼッタのあとを追いかけるように続くカメラは実に印象的。
このカメラワークのせいなのか、映されている内容とは関係なく「怖さ」があるのもダルデンヌ兄弟の特長ではなかろうか。
何か突然ホラー映画のように怖いことが起こりそうな予感がある。まあ大概は何もないんだけどね。それでも観ていて過剰に体が強張って緊張感を生む。
本作は貧しい暮らしの少女がしたたかに生きようとする姿を描く作品だ。
他のダルデンヌ兄弟の作品でも見られる傾向だが、善と悪の境界線が中心かと思う。善と呼ぶのは少々大袈裟かもしれない。悪に落ちるのが精神的に許されるのはどこまで?自分の中に眠る良心が許容できる範囲はどこまで?そんな白でも黒でもない灰色を描く。
そんな中にダルデンヌ兄弟は一筋の優しさを差し込む。これもまた彼らの特長かもしれない。
ほんの少しだけ優しさがあれば世界は変わるかもしれないという想いなのだろう。
ダルデンヌ兄弟の作品の共通するメッセージのようにも思う。
今回の優しさはラストの一瞬にだけ表れる。
ロゼッタの告発により仕事をクビになったリケはバイクでロゼッタに対して嫌がらせをする。
死のうとしたがガス切れで死ねず、新しいボンベを運び込もうとするロゼッタは、生きることも死ぬこともできず絶望しうずくまる。
そんなロゼッタに歩み寄り助けようとするリケの姿でエンディング。
リケはロゼッタを恨んでいるから嫌がらせをしていたわけだが、それでも助けようとする少しの優しさ。
主に移民の貧困層を描くダルデンヌ兄弟の、皆が少しだけ優しくなれば何かが変わるのではないかという些細なメッセージが好きだ。
大それたことは言わず観る者誰にでも届く小ささがいい。
何もよくなどなっていないけれど、ラストのあの一瞬だけでロゼッタはまだ大丈夫と思える。
「清く貧しく」などというのはブルジョワジーに都合のいい幻想に過ぎず...
「清く貧しく」などというのはブルジョワジーに都合のいい幻想に過ぎず、実際の貧乏人は頑固で狡猾で非人道的だ。それもそのはず、その日晩飯が食えるかどうかさえわからないような生活を送りながら他者や倫理を慮ることは難しい。まずはこの世界の中に確固たる自分の領分を得ること。貧乏人は普通の人々が当然のように持っているものを渇望するところから始まる。住所、仕事、尊厳。ロゼッタが売春や生活保護を拒むのは、彼女がただ単に生存することではなく、一個の人間として生きることに意味を見出しているがゆえだ。
とはいえここには逆説がある。ロゼッタが人間でありたいと強く思えば思うほど、彼女は頑固で狡猾で非人道的な手段を取らざるを得なくなるのだ。自分をクビにした社長に恥も外聞もなく直談判したり、はたから見れば彼女の行動は不愉快きわまりないが、そうする以外に彼女が人間の仲間入りを果たす術はない。友人を密告して従業員のポストを奪ったり。終始対象を寄せで映し続けるカメラはそんな彼女のなりふり構っていられない窮状を表している。
友人から従業員のポストを奪ったロゼッタはしばらく満足げに仕事に励むものの、良心の呵責から最終的に自ら仕事を辞めてしまう。すると踵を接するように疎遠になっていた友人が再び自分のもとに戻ってくる。彼女はそれを喜ぶが、彼女が友情の代償にまたもや貧苦のどん底に落ち込んでしまったことは言うまでもない。貧困が与える二律背反は、どちらを選んでも何かを失うことになる。
何故8番の窓口で生活保護の申請を受けないのか?
こんな馬鹿な母親は捨てるべきだ。
この主人公の母親もここまでかたくなに自我を通そうとするからには、真剣に逃げるべきである。
さて、この映画の映像は落ち着きがなく、目が回りそうだ。撮影効果がどこにあると言うのだろうか?視野が狭く、色や輪郭もぼやけていて、スッキリしない。そう言った効果をねらっているのかもしれないが、その得られた効果の成果が見えない。多分、終止『やりたくない事をせわしくやらせれる不快感』を描いているのだろうが、僕にとってはこの映画を見る事に不快感を感じた。
早く生活保護を受けて、母親を追い出し、病気を治すべきだ。必死で生きようとしているって言うが、この主人公の行動を見ていても、女性としての叡智が全く見えない。つまり、ジジイが描いた可哀想な少女のお話って事だ。まぁ、
多分、ここまで身を落とせば、女性ならば、身を売る事になる。しかし、ジジイはそう言った過酷な現実からは目を背ける。つまり、フォンテーヌは哀れで、エポニーヌは愚かで、コゼットの様な純真無垢な少女だけを物語は救済するのだ。
多分、少女は裏切って懸命に生きるのだろうが。
やっぱりね。そら、裏切った。
日本人はこの映画見て、これがフランス人と思うべからざり。フランス人はこう言った場合、組合を作る。組合を作って、労働者は団結して、搾取から自分達の身を守る。今でもそうである。この少女の行動がかなり特殊だったから、カンヌで賞を取ったと思う。故に『PLAN75』もフランス人から見たら、考えられない発想なのだろう。
つまり、親離れ出来ない、自己中心的な男勝りな性格の少女は、いくら可愛くとも、仕事にありつけないって言っている。そして、最後に音楽に才能があると勘違いしているけど、割りと穏やかなイケメン君が助けてくれるから、それを信じて彼に付いていきなさいって事でしょ。
追記
やっぱり、フランスのジジイの発想だ。
『シャーロットの姫』はイギリスのアーサー王伝説だ。フランス人には分からないのかなぁ?
【”真っ当な生活を求めて・・”ラスト、ロゼッタが涙を流した訳。カンヌ国際映画祭の嗜好性が分かる作品でもある。】
ー 1999年のカンヌ国際映画祭でパルムドールと主演女優賞をロゼッタを演じた若きエミリー・ドゥケンヌが受賞した作品。(資料より)
エミリー・ドゥケンヌは、2017年の「天国でまた会おう」で劇場で再会し、感慨に耽ったモノである。-
■トレーラーハウスでアル中の母親と暮らすロゼッタは、酒に溺れ、家に男を連れ込む母親と喧嘩が絶えない毎日。そんなある日、勤め先の工場を突然解雇されてしまった彼女は、ワッフルスタンドで新入りの店員・リケと知り合い、そのスタンドで働き始めるが…。
・ロゼッタは訳なく仕事を解雇され、母を養うために、健気に仕事探しをするが、ナカナカ安定した職に就けない。1999年と言えば、リーマンショックの影響が欧州では続いていたのであろうか・・。
・ロゼッタを演じた若きエミリー・ドゥケンヌは、今作では常に愛想なく、笑顔が無い。それは彼女の苛立ち、焦燥感を示している。
そして、時折彼女を襲う下腹部の痛み。
・彼女はそんな中で、ワッフルの仕事を斡旋してくれたリケの行為を裏切る行為をし、リケの店を自らのモノとする。
<リケにバイクで糾弾されながら、母親と住むトレーラーハウスに、燃料ボンベを運ぶロゼッタ。
けれど、良心の呵責に堪えかねて、泣き崩れるロゼッタの姿。
カンヌ国際映画祭の嗜好(分かり易い所で言えば、「わたしは、ダニエル・ブレイク」「万引き家族」「パラサイト 半地下の家族」と言う作品が、パルムドールを獲得したように。)
・・格差社会を描いた作品を高く評価する傾向の先駆となった作品の一つである。>
失業問題
失業、職探し、キャンプ場でのトレーラーハウス、アル中でセックス好きの母親。それでも生活していかねばならないロゼッタ。時折謎の腹痛も起こり、お腹をさするためのバイブレータが離せない。キャンプ場のはずれにある沼地では禁止されているマス釣りの仕掛をするのが日課となっている。
ようやく男友達のリケの紹介でワッフル屋の仕事を見つけるが、社長の息子の気まぐれで3日でほされてしまう。このリケも友達がなさそうな雰囲気で、彼女に対して優しく接するが、性衝動も抑えきれない。ドラムを叩いているのだが、録音したわけのわからないドラムだけの音楽を聞かせたりする。
失業問題も深刻なのであろう。仕事のためなら恥も外聞もない。必死に店主にすがる光景が痛々しい。まさしく都会の中のサバイバルなのだ。そして、リケの親切心をも踏みにじる行動に出るロゼッタ。まずは沼地で溺れるリケを一瞬見捨てようとする。それでも彼女に対して親切にするリケ。自分のワッフルを売って、売上の一部を霞め取っている行動を社長にチクるのだった。その行動を反省し、自己嫌悪になったのだろうか、荒んだ心もやがては落ちつきを見せるのだが・・・
ラストは悲惨な結末になるか、中途半端な終わり方をするのか、ハッピーエンドは考えられない展開だ。社会の底辺を支えている貧困層の切実な思いが伝わってきたり、一人が職を得れば一人が職を失うといった現実を痛感。極端ではあるが、忘れられない映画になりそうだ。
タイトルなし(ネタバレ)
仕事を見つけ、友達ができて、その中に私を見つけて。これがまっとうな生活であり、失敗しない様にと自分自身に言い聞かせて眠りにつくロゼッタを抱きしめてあげたくなった。
バイクの音が耳から離れない。うざったいのに、ほっとする。
小さな仕事にも食らいつこうという姿勢、職を得る為に好意を示してくれ...
代弁者
懸命に生きる少女が、どうしても耐え切れず流した涙
総合:80点
ストーリー: 80
キャスト: 85
演出: 85
ビジュアル: 70
音楽: 0
出演者のすぐそばで回されるカメラ。音楽すら排して、映像はまるでドキュメンタリーのような生々しさ。映画が終わりタイトルバックとなっても音楽が流れないほどの徹底振り。それらの演出が真実味を帯びて迫ってくる作品。
キャンプ場でトレーラーハウスに住み、殆どホームレス寸前という貧困の境遇で、家族はお荷物でしかないアル中の母親だけ。時々原因不明の腹痛を抱えても医者に行く金などあるはずもなく、今日も仕事が見つからずに池でこっそりと魚を獲る。それでも強く懸命に前向きに生きようとする少女ロゼッタ。そんな彼女だからこそ、職を失ったときには感情を爆発させ、職を得るためには奇麗事だけではないことまでする。
孤独に生き抜いてきた彼女には、リケの見せる好意を素直に受け取ることが出来ない。彼女はあらゆる施しを拒否する孤高の気高い心を持つ少女である。怒りを爆発させることはあるけれども、いつも笑顔も見せることもなく、何があっても決して泣くこともない。それほどに孤立無援な戦いを続ける少女の心が遂に折れてしまったとき、耐え切れず初めて見せる涙。そんな生き様が心に響いた。
これできっと彼女は、時に人が無償の好意や優しさを見せることもあることに気がついたのではないか。人の温もりに気がついて人を信じられるようになるのではないか。いつの日にか彼女がささやかな幸せにたどり着くことを願った。それもリケと共にそう遠くない日に。
主演のロゼッタを演じるのは新人のエミリー・デュケンヌで、生年月日から逆算してこの撮影当時はほぼ役どおりのたぶん17歳くらいか。強がる幼さを見事に演じていて、かなり好感が持てた。
フランス語だからフランス映画かと思ったが、ベルギーを舞台にしたベルギー・フランス共同映画らしい。そういえばベルギーの言葉もフランス語だし、ワッフル屋が登場していた。
貧困に深いまなざしをあてた佳作
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