「メンヘラ・毒親・ストーカー 決戦!ウィーンの大怪獣。 メフィストとファウストは共にフォリアドゥを奏づ。」ピアニスト たなかなかなかさんの映画レビュー(感想・評価)
メンヘラ・毒親・ストーカー 決戦!ウィーンの大怪獣。 メフィストとファウストは共にフォリアドゥを奏づ。
性的倒錯を抱える女性ピアノ教師エリカと彼女を恋い慕う生徒ワルターの関係を描いたアブノーマル・ロマンス。
監督/脚本は『セブンス・コンチネント』『ファニーゲーム』の、名匠ミヒャエル・ハネケ。
主人公エリカ・コユットを演じるのは『パッション』『愛・アマチュア』の、レジェンド女優イザベル・ユペール。
第54回 カンヌ国際映画祭において、グランプリ/男優賞(ブノワ・マジメル)/女優賞(ユペール)を受賞!✨✨
原作は作家エルフリーデ・イェリネクが1983年に刊行した小説「Die Klavierspielerin」。
イェリネクは2004年にノーベル文学賞を受賞した大作家であるが、その過激な内容が論争を巻き起こす事も多く、実際彼女がノーベル賞を受賞する際、文学評論家のクヌート・アーンルンドがそれに反対しアカデミーを退会するという事態が発生している。
そんな彼女の作品を『ファニーゲーム』(1997)のハネケが映画化したのだから、そりゃあ作品の出来はとんでもない事になってしまっている。好き嫌いがハッキリと分かれるであろう、純然たる変態映画。これは子供に見せられない💦
不嫁後家のピアニストに金髪イケメン男子が猛アピールを仕掛けてくるという三文ハーレクイン小説の様な建て付けでありながら、その内実は奇妙極まり無い。
クラシック音楽という厳しい競争社会と、抑圧的な母親。その2つが彼女を倒錯した精神状態へと追い込む。そうとは知らずに彼女に近づいたワルターにもまたその狂気は感染し、フォリアドゥ的な相関関係が出来上がってしまう。
作品のキーワードであるシューマンに託けて言えば、始めはエリカがファウストでワルターが誘惑者メフィストであるかの様に描かれているが、中盤でその関係性が実は真逆であった事が明らかになる。しかし、さらに物語が進むとその二者の関係は再度逆転し…という具合に、メフィストとファウストの役割がコロコロと変わる事により映画内に迷宮が創出される。作品構造と登場人物、そのいずれもが倒錯しているのである。狂人2人による四手連弾が、観客をまだ見ぬ地平へと導いてくれる事だろう。
この変態性の基盤には歪んだ母子関係がある。母親がエリカを抑圧するのは、偏に彼女を溺愛しているからであり、その事はエリカも百も承知している。だからこそ、そこから抜け出せない。
呪いにも似た共依存の関係性。誰よりも憎みながら、また同時に誰よりも愛している母親を痛めつけるにはどうすれば良いか。それは彼女が最も大切にしているもの=自分自身を壊して仕舞えば良い。彼女の被虐趣味は、つまりは母親への攻撃なのである。
左胸を短刀で貫くという衝撃的なラストシーン。あの般若の如きエリカの表情は誰に向けられたものなのか?ワルターか母親か、それともこんな形でしか復讐する事が出来ない自分に対してか?母親と分かち難く結び付いた音楽を捨て、夜の街へと消えるエリカの姿を描いたこのエンディングは、悲劇的でありながらどこか救いを感じさせる詩的な開放感を有している。
中年女性の性欲、しかもハイパーセクシャリティは近年でもまだタブー視されており、そこに踏み込む作品は多くない。それをウーマンリヴと結び付けて描き出すというこの作品の独自性は高く評価したい。
一方で、やはり娯楽性が高いとは言い難く、途中休憩を挟まなければ最後まで見通す事が出来なかった事は暴露しておきたい。
非常に芸術的、かつ社会派な作品である。
ただ、「メンヘラ」「毒親」「ストーカー」というウィーンの大怪獣トリオが奏でるアンサンブルは実は結構笑える。特に、女子トイレでの射精管理や変態ラブレター朗読はほとんどギャグ。多分ハネケもここは笑かそうとしていると思う。
実はこの映画はブラックコメディなのかも知れない。じゃなかったら、他人の処理済みティッシュクンカクンカなんて描かないよね。
笑いながら観るのが躊躇われる内容だが、それでも笑っちゃう。ギリギリを攻めた問題作である。
たなかなかなかさん!
円谷プロの宣伝文句みたいなタイトルで先ず笑ってしまいました〜😆
エリカは、あのラストの自傷行為で、母親と繋がっていた臍の尾を切り落とす事が出来たら良いのですがね、
彼女のスコアはまた振り出しに戻ってリピートするのかも知れません。実母の死までは。